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エコーチェンバーと分断、ポスト民主主義について

どうも、殉太郎です。

さて、アメリカではトランプ支持者による議会襲撃という歴史的にも稀に見る出来事が起こりました。
アメリカという民主主義の庇護者を自認する国において、このような惨状を見てしまったことに、今後の行く末を憂う気持ちもある一方、これこそが民主主義の正体であり、起こるべくして起きたのだろうとも思います。

かつてアメリカでは共和党支持者・民主党支持者が合意できる領域が、ある程度の幅を持って重なっていました。それは社会学者の宮台真司さんの言葉を借りれば、「俺もお前もなんだかんだ言って同じアメリカ人じゃないか」と、合意形成の前提となる他者への共感や、それらを育む分厚い中間層や地域共同体、教会を中心としたクリスチャンコミュニティなどがありました。それらに包摂されることで他者との関わりを持ち、自分とは異なる考えもある程度許容できる度量を持つことができました。

ところが90年代以降の経済グローバル化や、新自由主義の台頭により中間層が崩壊地域社会が空洞化したことで個人はあらゆる中間組織や共同体から引き剥がされました。またテクノロジーの発達と共にメディアは多様化し、それらがエコーチェンバー化することで個人をあらゆるバランサーから引き剥がしていきました。

とりわけTwitterを中心としたネット上のプラットフォームでは自身の検索傾向を基に、その人が好むであろう情報が次から次へとレコメンドされ、右派なら右派、左派なら左派として気が付けばガチガチに持論が固められてしまいます。
つまり、望むと望まざるとにかかわらず「見たいものだけを見る」システムに組み込まれてしまい、反対意見には自ら敢えて検索することでしか辿り着く方法はなく、受け身であれば一生この沼から出ることはできません。

するとどうでしょう。人々の分断は進み、少しの相違も受け入れらない人々が左右に分かれてお互いの揚げ足を取ることにのみ注力することになります。
そこでは持論を曲げることは「負け」を意味し、議論は戦いや復讐の場となります。他者への共感などはおくびにも出さず、合意形成など到底できません。
こうして社会では民主主義であるが故に生み出された様々なシステムに依存することによって、民主主義が機能しなくなるということが起きてしまいました。

言うまでもなく、このような社会変化はアメリカだけの問題ではなく、日本を含む多くの旧西側の国々で現在直面している危機です。

では、民主主義のその後とはどのような体制があり得るか。各方面ですでに言われていることですが、テクノロジーを背景とした新しい全体主義が各地で現れるのではないでしょうか。現に中国はほぼそのような形になっていますよね。

昨年末のマル激でも言及されていましたが、統治権力を変える力が人々にあるということを本来、自由というそうです。しかし現在はそこに価値を認める人間がほとんどいなくなり、経済的な「自由」真の自由と考える人が増えている。そしてそのような人々は統治権力にとってとても人畜無害な存在であるということです。

そうした観点から中国を見てみると、経済的にはそこそこ潤い、テクノロジーの恩恵で世の中は民主主義以上に合理的かつスピーディ、効率的に統治されているようにも見えます。法と正義はいくらでも恣意的に操作されますが、アグネス・チョウや最近姿をくらませたジャック・マーのように当局に楯突くような真似さえしなければ、人々は「自由」を謳歌でき「幸せ」です。

では日本はどうでしょう。一見、統治権力を変えられる自由があるように見えますが、法と正義を恣意的に運用しまくる自民党が政権を握り、それを支持する人々の支持理由の内、「特にない」が最多である現状のリテラシーです。これは多くの国民が経済的な自由に浴して、本来的な自由には関心がない証左ではないでしょうか。この人たちがいわゆる「冷笑系」の正体だと思います。悲しいかな、日本には新たな全体主義の土台が完全にできていると言わざるを得ません。

ここまで長々と批判的に書いてきました。
もちろん現在の中国のような在り方を是としたくないですし、経済的な豊かさよりも、人間的な真善美の感受性を大切にし、それをベースとして民主主義が機能する状態が望ましいと日々考えています。
しかしながら、今後ますますテクノロジーが発達し、さらに合理的な統治が進んだ場合、そもそも批判をするモチベーションなど生まれる余地はあるのでしょうか。あらゆる多様性にフィットした政策をAIがはじき出したら?
未来の統治
の在り方は、もしかしたら想像もできないようなカタチで私たちに「幸せ」をくれるのかも知れません。

皆さんはどう考えますか??

ではまた。

殉太郎

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