【105.水曜映画れびゅ~】"Tár"~才能はモラルを超越すべきか?~
"Tár"は、今月から劇場公開されている映画。
今年のアカデミー賞では、作品賞を含む6部門にノミネートされていました。
あらすじ
稀代の天才指揮者
リディア・ターほど、”天才指揮者”という二つ名が似合う人物はいない。ターは、その類まれなる才能を遺憾なく発揮し、これまでに数々の賞を受賞していた。彼女の圧倒的音楽センスは、時に冷酷なほどその場を支配し、誰もが彼女にひれ伏すしかできないほどのものであった。
そんな彼女が生涯を懸けて培ってきた功績の大きな到達点としてマーラーの交響曲第5番の演奏と録音に挑む。加えて新曲の創作も請け負っており、プレッシャーを感じていた。
そんな日々のなかで、その輝かしいキャリアを汚す黒い噂が彼女に迫ってきていた。
ケイト・ブランシェット、史上最高の怪演
天才指揮者を描いたこの作品。
本作で監督に加えて、脚本を務めたのは『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)と『リトル・チルドレン』(2006)でアカデミー賞に2度ノミネートされた経歴を持つトッド・フィールド。圧倒的カリスマ性と冷酷さを持ち合させる主人公を軸に脚本を組み立てていったフィールドは、当初は男性指揮者のキャスティングを想定してたとのこと。しかし脚本を進めるにつれ、彼が描いているものは"天才指揮者"ではなく、”ただの嫌な奴”になっていたことに気づきました。
では、どうすればカリスマ性を担保できるか…?その答えは、1人の天才女優にその役を委ねることでした。
その女優こそが…
ケイト・ブランシェット
「アカデミー賞を2度獲得した彼女の醸し出すカリスマ性でしか、この指揮者は演じれない」と思い、ケイト・ブランシェットを当て書きして脚本を完成させました。
そして、その期待にこたえるか如く、この作品のケイト・ブランシェットは…凄いっ!ほぼ"ケイト・ブランシェットの独壇場"というか、ケイト・ブランシェットが映らない時間がほとんどないほど、ブランシェット様を拝める本作。とにかく場を支配するその圧倒的カリスマ性は、スクリーンを飛び出して劇場内全体までもピンと張りつめた雰囲気に変えてしまうほどでした。『アビエーター』(2004)や『ブルージャスミン』(2013)、『キャロル』(2015)など数々の傑作映画に出演してきた彼女ですが、間違いなく本作の演技はケイト・ブランシェット史上最高の怪演だったといえます。
才能はモラルを超越すべきか?
(以下、ネタバレあり)
リディア・ターは圧倒的な音楽センスを持ち合わせている一方で、その冷徹な性格が災いして多くの敵を作っていました。そして指揮者志望だった元助手が自殺をし、同じく指揮者を志望していた秘書の夢への梯子も外してしまったことから失踪されてしまいます。そんななかターのハラスメントを糾弾するような書き込みがネットで拡散され、最終的には彼女のキャリアは失墜してしまいます。
このようなストーリーから、この作品はキャンセル・カルチャーを描いた作品だといわれています。
こういった流れは、日本の芸能界でも散見されます。東出昌大やピエール瀧、宮迫博之、渡部建…。
しかし私個人の考えとしては、こういったキャンセル・カルチャーによって芸能界を干されたり、芸能活動を自粛したりした芸能人を、一概に芸能界から抹消しようとするのはどうかと思う節があります。確かに、多くの人の目に晒される職業であるうえで、慎むべき行為をがあるとは思います。ただ、たとえ誤った行為をしたとしても(もちろん程度の問題はありますが)、それでその人の才能を完全に潰すことになることには疑問符がたちます。たとえば、南果歩の療養中に浮気した渡辺謙は確かに最低な男です。しかし、そのために「世界のワタナベ」と称される彼の才能を無駄にすることなどはできませんし、実際にそうなりませんでした。
今回の作品でも、劇中ではこのリディア・ターがいかに凄い人物かということが物語前半でまざまざと描かれています。その後で、後半にはSNSで叩かれて失墜していく姿にはどうも違和感を抱いてしまいます。それは「モラルを損なう人物であっても、それを超越する才能があれば、才能を優先すべき」という考えが私の中にあるからかもしれません。(もちろん、この考えに異論がある方はいらっしゃるかもしれませんが…)
ラストシーンは、希望の象徴か、失墜の象徴か?
そしてこの作品で語り草となっているのが、ラストシーン。
炎上によって地位も名誉も失ったターは、キャリアの再構築を図ります。そのための舞台として選んだのは、フィリピンで行われるゲーム『モンスターハンターワールド』のゲーム音楽コンサートでした。このシーンは、多くのオーディエンスには「天才指揮者の”都落ち”」として映るかもしれません。
しかしトッド・フィールドは、インタビューなどでそのような思惑を述べてはおらず、逆に「現代の指揮者でゲーム音楽のオーケストラの指揮をしたことのない人間はいない」と、割とゲーム音楽に対してリスペクトを払っているように思えます。するとこのシーンは、ターの失墜を表わしているとは一概には思えません。
そんなことを考えていると、私は一人の演歌歌手がこのターの姿と重なりました。
その人は、小林幸子です。
事務所のお家騒動によって紅白の連続出場記録が途絶えた小林幸子は、その後もしばらく表舞台から退いていました。そんな小林幸子が再スタートの場所として選んだのは、ネットでした。著名な作詞家でも作曲家でもないネット民が書いた歌を歌いあげる彼女の姿は、「プライドを捨てた落ちぶれ」などと揶揄されることもありました。しかし、最終的に「千本桜」で紅白に復活した姿はカッコ良かったです。
つまりはキャンセル・カルチャーで表舞台から排除されようとも、才能があれば、そこから這い上がることは可能ということなのです。しかしそれは才能だけで解決することではありません。そこにはもう一つ必要なものがあります。
それは…
謙虚さ
たとえ都落ちと思われようとも、プライドを捨てたと言われようとも、与えられたものをしっかりとこなしていくこと。その精神をもってすれば、一度失ったものでも、秘めた才能が再び輝きだすときが必ず来るということだと思いました。
そう考えてみると、リディア・ターはあのラストシーン以降でどのような人生を送ることになるでしょうか?あのラストシーンは、本当に"失墜の象徴”だったのでしょうか…?もしかすると、”希望の象徴”だったのかもしれません。
前回記事と、次回記事
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次回の更新では、豪華キャストが集結した話題作"Armageddon Time"を紹介させていただきます。
お楽しみに!