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母が死んでなんとなく平和だなと感じた日

私がかつて誰かから言われていた、人間としての魅力ってやつは、当時よりなくなっているだろうと思うし、そんなもんだろうとそれを達観している自分もいる。

目標に向かって努力する、夢を追いかける姿ってのは格好良い。
無理だとか諦めろとか、妥協しろとかレベルを落とせとか、そんな助言をする大人にはなりたくないと思っていたし、今の私もそんな大人ではないと思う。

何歳になっても、自由に生きればいいんだ。
他人に迷惑かけない範囲で。

夢を追いかけているときの魅力ってやつを失った今の私は、結局のところ夢を叶えたのかというと、そうではない。
ただ、努力はめちゃくちゃした。

目的地に向かって進めていたわけでもないし、ほぼ大部分を迷走しかしていない。
でも、努力はした。
他人からどう評価されようと構わない。
私は頑張った。

その努力がどう実を結んだかが大事。頑張った結果はどうなったのか。
そんな意見は私は求めちゃいないけど、真っ当な考え方には違いない。
考え方としては正しいのだろうけど、ただし私からすると、どうでもいい。

私は頑張った。
私は今ここで穏やかに平和に暮らしている。
たとえそこに因果関係がなかったとしても、私は自分の過去の努力を否定しない。
その努力が今の私に繋がっていなかったとしても、無駄だったとは思わない。
私は今、幸せだ。

人間としての魅力とやらは下がっただろう。
私の努力なんて、人生に対する反抗とか抵抗とかに過ぎない。

全力で足掻くとか、抗うとか、そういう真っ黒い生命の輝きみたいなもんは一切感じられなくなったと思う。
それでいいんだ。
今の私は満ち足りている。

私はこれから30歳になる。
思い出すのは10年前、20歳になるときのこと。

一家で夜逃げしていて、携帯が止まっている中なけなしの10円で公衆電話から以前働いていたバイト先に連絡を取り、小学校に通わせてあげられていなかった弟を父にお願いし、なんとか借りたレオパレスに母と兄を残し、住所を得た私は道外の住み込みのバイトで働いた。

旅館での調理補助業務。
名前ではなくガキとか小僧とかヤロッコ(おそらく野郎っ子)の蔑称で呼ばれ、次の休みがいつかもわからない職場だった。

出勤してから「今日休んでいいぞ」とか言われる。そうやって一日一日「今日も休んでいいぞ」と言われ月頭に5連休したあとの「月の休みの回数は決まってるから」の22連勤はつらかった。
休みの日は賄いもないから蹲って耐えた。

数年後別の職場で40連勤したことはあるけど、300時間超時間外手当とかですげえ額が振り込まれてたのに対し、当時の22連勤は休み当日言われる制の上に残業してもノーカウントだった。
仮に手当てがあったとしても全額仕送りだったけど。

最初は私が月10万仕送りし、兄貴も出稼ぎに出たら5万ずつの仕送りになる、予定だった。
送っても送っても、もっと送ってと言われる。

レオパレスに5万、携帯代3万、兄貴もいる。足りないはずがない。
十分な金額は送っているはずなのに、公衆電話から、非通知から、知らない番号から、携帯代が払えないと電話が来る。
ノイローゼが何かは知らないけどたぶんこれだろうって思った。

自分の子どもにはこんな思いはさせたくない。平和な暮らしを与えたい。金が欲しい。
私は働きながら受験勉強をしていた。
学歴がなんとかしてくれると信じていた。
結果として、いい気晴らしになった。

20歳になった。
中学の同級生から、成人式のあとの二次会の誘いのメールが来た。
北海道に帰る金も時間もないと返した。
北海道に帰る場所もなかった。

名義人の私が更新してないからレオパレスの契約切れてるはずだけど、母はどこから電話してきてるんだろう、収入も配偶者もない母が、とか思ったけど当時それを知ることはなかった。
母と話したくなかった。金だけ送って、関わりたくなかった。

毎月全額仕送りした。
次の休みがいつかわからない、母が何に金を使っているのかわからない、この生活をいつまで続ければいいのかわからない、状況を変える方法がわからない。

仕事がつらくても帰る交通費がない、帰る家もない、仕送りをやめたら母がどうなるのかもわからない。母からは作り話しか聞かされない。話にならない。

終わりの見えない生活。
ある日、仕事が終わった直後に溢れ出してきて、トイレで声を出さずに泣いた。
限界だった。

そんな経験をしたからといって、今の私にはなんら影響を与えてはいない。
良かれと思っての忠告を、私の道を阻む者はすべて敵だ、と切り捨てていた頃もあったけど、今の私は穏やかなつもりでいる。

生きていることを実感して噛みしめるってわけではなく、ただ平和だと、幸せだなと、もうすぐ30歳だなあと、思うと、あれから10年かって感じるんだ。
今の私とはなんら因果関係がなかったとしても。

今になって言えることは、ふたつだけ。

あのとき、死ななくてよかった。
楽になる方法を踏み違えなくてよかった。

嗚咽を漏らして泣けてよかった。
終わった過去のことにできてよかった。

今の私とは関係なくてよかった。
生きててよかった。



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原文ママ。
母が死んでしばらくして、30歳になる前に書いた追悼文。

ずいぶん悲惨な目に遭ったけど、全部過去のこととして処理できている。
今の僕にまでは影響を与えられなかったなざまあみろ。

もう終わったんだ。
僕は僕の人生を生きていいんだ。

だからすべてを許そう。
僕は今は穏やかだ。
あなたも安らかに眠れ。

という意味合い。

自分の文章の解説とか野暮だけど過去の作品なら許されるような。
けどやっぱり解説した途端ちゃっちくなる気がする。

火事の日が一連の出来事のハジマリであったなら、オワリは母の死だっただろう。
ハジマリの前から始まっていたし、オワリの後にも続いているけど。

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