よくわかる法律入門 #16 憲法第20条について
第二十条
先生「はい。前回が思想・良心の自由だったのですが、今回は信教の自由ですよ。」
学生B「この流れは大切ですね。僕たちの内面の自由を守ると言うことで、信教の自由がここにきているわけですね。」
先生「そうですね。自然権からすれば、認められて当然すぎるほど当然のことですね。特に、思想・良心の自由は、内面の自由です。何考えようと勝手というわけです。」
学生A「そうですね。当然ですよね。」
先生「はい。奴隷の意味、差別の意味、思想の意味、良心の意味、国民とは何か、権利とは何か、義務とは何か・・・。他もろもろの言葉の意味を今まで考えてきました。ではやはり、ということなのですが、信仰とはなんでしょうか。」
学生B「神様にお祈りするときの気持ち・・・。」
先生「違いますね。信仰とは、自分の心の拠り所になる考えにすがることなんですよ。私個人の意見なのですが、宗教は、自分の信じたくないものを信じない気持ち、目を背けたいことから目を背ける気持ちの強い人が信じるものです。心のよりどころとなる・・・と表現されますが、実際は事実を見つめたくない心だと思います。私はこれを憲法が保障してくれている・・・という意味で、ちょっと変だなと思いました。」
(常識的には、神様を信じる心・・・。とか、聖書の教えに従うとか、そうした意味で使われることがあります。)
学生A「事実を認めたくない気持ち?」
先生「ええ。単純に、素直に信じちゃっている人もいるとは思いますけれども、結局は事実が見えていません。ここですね。肝心なところは。信仰とは、事実を見ていない状態を言います。事実以外のことを信じているということは、嘘を信じているということと同じことです。」
学生B「はい?例えば、宝くじで2億円当たったとか、そういう嬉しい時でも事実を認めないんですか?いいことがあっても?」
先生「いえ、その場合は認めます。」
学生B「意味がわからない・・・。」
先生「何と言えばいいでしょうか。事実を認める態度を持っている人は、都合が悪くても、都合がよくても、事実を認めます。一方、事実を認めたくないと思っている人は、都合の悪い事実は認めません。都合のいい事実は認めます。それはその都合のよい事実が、事実だから事実であると認めているのではなく、『自分に都合がいい』から認めているのです。事実が自分を決めるのではなく、あくまでも、事実を認めたくないという気持ちが、その都合のいい事実を認めさせているのです。」
学生「え~っと。」
先生「例えば、私は宗教2世が書いた漫画を読んだことがあるのですが、その人の宗教では、薬の服用は禁じられていました。母親からもそういわれていました。しかし、その子が薬学部に進学しようとした途端、母親は全く躊躇なくそれを認めるのです。その時、子は親のおかしさに気が付いたといいます。宗教を信じているのではなく、自分の都合のいいように利用しているにしかすぎないと。都合がいいか悪いかで、結局全てが決まるのです。」
学生B「ああ、そういうことですか。」
先生「とりあえず、宗教が嘘を信じているものであると言う論証は、以下の説明で行うことができます。
仮に、宗教の世界で1つの確かな真実があるとします。本当に正しい考え方がね。で、世界には3大宗教の、イスラム教、キリスト教、仏教があります。これはいいですね?他にもたくさんあるんですが、とりあえず3つです。」
学生A「はい。」
先生「この時点でおかしいでしょう。真実が一つなのに、3大宗教が存在している。とすれば、少なくとも、この3つの宗教のうち、2つは嘘なんです。では、ここで仮に仏教が正しいとしましょう。で、仏教の中を覗いてみると、浄土真宗、日蓮宗、天台宗、曹洞宗など、ほか様々な宗派に分かれていることが理解できます。」
学生A「はい・・・。ってことは?」
先生「はい。仮にどこかの宗教の、どこかの派閥が信じていることが、本当に正しいことなのだと仮定していますよ。それが今の状態です。そして、これほどまでの派閥が存在している・・・。ということは、本当のことを信じている人は、ほんのごくわずかだということです。私は、少なくともこれだけは間違いがないと思います。仮にどこかに正しい考えを持つ宗教があったとしても、それ以外は間違っている。私は、いわゆる巷で言われている宗教に加入したことはありません。そして、それぞれの宗教の内容を熟知しているわけでもありません。しかし、宗教の内容がたとえ全くわからなくとも、これだけのことは確かなのです。」
学生B「た・・・たしかに。そういわれると・・・。それに、真実が2つ以上あるとも思えないし…。」
先生「本当は、真実は複数あるのですけどね。人の数ほどある。ただし、事実は一つです。(しかし、常識的には、真実は一つであると仮定して話を展開する人が多くいます。)今お話したのは、真実を仮に1つと定めた場合の話です。そして、真実の宗教に入り、そしてその中の無数の宗派の中の、真実を教えてくれる派閥に運よく属しているその人は、その教えが正しいと信じているでしょう。だからこそ、その宗教に入っているのでしょう。しかし、だからと言って、自分が信じているその対象、教義が、果たして本当に真実であるかどうか。その確証を持っているわけではないと思うんですよね。あくまでも、その人がそう信じているだけなのです。」
学生A「真実が複数ある?よくわかりませんけど。でもそうですね。仮にそれが真実だとしても、信じている当の本人にとっては、本当のことかどうかはわからないので、自分が信じるしかないでしょうね。」
先生「ということは、結局皆自分の信じたいことを信じている、ということです。仮に何か一つが正しいことだとすると、それは裏を返せば、それを信じていないその他の人たちは、正しくないことを信じているということになる!そして、仮にその一つの正しいことと運よくめぐり逢い、それを信じている人であったとしても、それが本当に正しいという確証を持って信じているわけではない。それは、その人自身が信じるしかない。
いずれにせよ、ほとんどの人は、嘘を本当のことだと思っている、というわけです。それは間違いがないと思いませんか?で、多少乱暴なんですが、だからこそ、宗教とは全て、嘘を本当のことだと思っている人たちの集まりだと、私が考える理由の一つになっているのです。」
学生A「あ~・・・。そうなるのか・・。先生の言いたいこと、なんとなく分かった気がします。でも、真実が複数あるならば、やっぱりどの宗教も正しいのではないでしょうか。」
先生「そうですね。要は、心の拠り所になればいいのですから、それが心の拠り所になってしまえば、その人にとって正しいのです。どれだけ事実とかけ離れていても、それでいいのです。それが宗教です。どの嘘を信じていたいですか~?うちの嘘はいいですよ~!らっしゃいらっしゃい!という、嘘販売所なんです。宗教はね。極端な話、皆がその嘘を信じあってくれると、その仲間内では、非常によい関係が生まれるかもしれません・・・。で、今更なんですが、真実なんて言わずに、最初から、事実と言っておいた方がよかったかもしれません。」
学生B「全ての宗教を敵に回す発言ですね。」
先生「はい。私は国より悪質かもしれません。宗教が嘘だと言う考えが、もし理論的に人々に理解され得るような形で広まれば、宗教自体が消えてなくなりそうなものですからね。これは、国が自分達の都合のいい考えを押し付ける以上に残酷かもしれません。
例え、宗教団体と銘打っていなくても、人は自然と嘘を信じるようになっています。宗教は個人から生じます。人が元々そうなっているんだから、宗教は絶対になくならないのです。宗教の根絶はおそらく不可能です。将来、AIが発達してきて、人が常に居心地のいいバーチャルの世界にいられるようになればどうなるかはわかりませんけどね・・・。宗教についての話(特に新興宗教)は、詳しくは【しちゃうおじさんの記事を紹介しますが、結局自分の書きたいことを書いてしまいました。】を読んでいただきたいのですけど、ここではまた別の角度からの話をしたいと思います。
例えば、国が個人に都合のいい考えを吹き込んで、教え込み、洗脳するとしましょう。これも一つの宗教だし、信仰なんです。天皇の存在が、当時は国民の心の拠り所でした。この宗教は、国から強制されたものでした。(もちろん、一枚岩ではありませんでしたけどね。)でも、戦後の反省から、天皇が人間宣言をした。神様ではなくなった。そして、個人に宗教の自由を認めた。(明治憲法でもある程度認められていたようですけど。)で、それからどうなったか・・・。個人が何を信じるのかというと、自分が認めたくないこと、目を背けていたいこと、転じて都合のいい考えを信じるようになっちゃった・・・。もちろん、新興宗教もたくさんできました。」
学生B「そうですか?。僕は信心深い人っていると思うんですけど。それはちょっと馬鹿にしすぎじゃないんですか?」
先生「そう思われるのも無理はありません。だけど、信じるきっかけはどうであれ、事実ではないことを信じていることに変わりはありません。それはさっき論証したことです。しかし、事実が自分にとって都合のいいものであった場合、その事実を信じます。(笑)
私は現在そのように考えているんです。もちろん、この考えが正しいとは限りません。しかし、自信はあります。天皇じゃなくてもいいんです。何か適当なものでも、何でもいいんです。何なら、コインを振って表が出たらOKとかでもいい。毎日の占いの結果でもいい。」
学生B「で・・・でも!その事実が、事実であると認めるには、結局僕たちが事実だと認めなくっちゃいけない。で、僕たちが、それを事実だと認める時、それが都合のいい嘘か、それとも本当に本当のことかなんて、どうやって確かめるんですか?」
先生「いい質問です。それが事実であると確認する術は、無い場合の方が圧倒的に多いのです。」
学生A「え!じゃあ、どうすればいいの?」
先生「何も方法はありません。実際の法廷でも、有罪判決は裁判官の心証によって決まるのです。つまり、裁判官がこれが事実だと信じたことなのです。本当かどうかは、実はわからないのです。これを、訴訟法的真実といいます。」
学生B「ええ!裁判所は、事実を認めるところじゃないんですか?」
先生「理想はそうです。それができることも当然あります。しかし、人間社会は、噂と差別、お金が支配しているものです。事実は私たちの目から最も遠いところにあるのが、残念ながら常なのです。検察も弁護士も、訴訟で争います。証拠があれば提出します。しかし、最終的には裁判官の心証が全てを決めるのです。事実が明らかになることは、めったにありません。そういう意味で、学生Bさんも、裁判所の判決は正しい教の信者ですね。以前私は言いましたね。法律は正しくもくそもないと。ただの線引きにしかすぎないと。それと同じで、裁判官の下す判決も、有罪と無罪の線引きも、非常に曖昧なものなのですよ。しかし、裁判官の判決が確定すると、社会はその判決通りに動かなければならなくなるのです。つまり、私たちは、嘘判決を本当のことだと信じている宗徒になるのです。常識と言われている範囲でさえ、事実なんて全くみていないことがよくわかります。裁判所が事実なんて見抜けるわけないじゃないですか。あそこは、できるだけ皆を納得させる形で線引きを行う場所なのです。私たちがたとえその結果に不満足でも、その結果が事実ではなかったとしても、大多数の人間がそうと信じればよいのですよ。裁判とはただそれだけのものです。例えば、裁判の裁は、裁縫の裁ですけどね。Bさんが、布を裁縫するとき、布のどの部分で裁縫を開始するのかなんて、そのどれが正しいのかなんて、わからないでしょう。あなたが勝手に決めるんです。あなたの心証がね。」
学生B「が~ん・・・。そんな・・・。」
先生「さて、話が脱線してしまいました。とりあえず、信仰は事実ではないことを信じることなんです。」
学生B「ちょっとすいません。又話が脱線しそうではあるんですが、宗教をマジで信じている人が、私たちの信じていることは紛れもない事実なんです!って文句言いに来るんじゃ?」
先生「あり得る話ですね。例えその人たちが言っていることが正しいとしても、それは現実の世界では証明できません。現実の世界では起きていない。現実の世界で起きていないことは事実ではない。だから、それでも事実だと言い張っているということは、事実の意味が分かっておられないのではないですか。その話は別に相手にする必要はないですよ。」
学生B「しかし、目に見えることばかりではないでしょう?事実って。」
先生「そうですね。確かにその通り。事実は一瞬でも時間が過ぎると、もうその姿を消してしまう。すぐに過去のことになります。後に残された人間は、その事実があったことを信じるしかない。事実とはとてつもなく儚いものですね。証拠が残ることも、滅多にありません。だから、そうなった以上は、話の筋道が通るかどうかで判断し、過去を推測するしかないのです。既に消え去った事実へと到達できる道は、推理力ですかね。そして事実にたどり着いたとしても、それは事実であるかどうかはわかりません。私たちが事実だと信じているだけにしか過ぎない。それが本当に事実だったかどうかは、もうわからないのです。私たちは、過去の出来事に洗脳され続ける宿命を負っている。権力者が歴史を捏造するように、私たちも、すれ違った事実を自ら信じていく生き物です。ジョジョのアバッキオでもいない限りはね。さて、信仰の話に戻りますよ。」
学生A「それなら、私たちが信じることは、事実であろうとなかろうと、全てが宗教になっちゃうんですね。事実さえ、私たちがそれを事実であると考えているだけ・・・。ただそれだけの、本当に儚い、脆いものなんですね。例え正しかったとしても、人の心が揺らいでしまえば、別のことを信じ始めてしまうことだってあります。信仰の自由を保障するということは、憲法が、人の弱い心を保護して、かばっているってことですか?」
先生「はい。自分の都合のいい考え(それが事実であろうとなかろうと)を信じるという自然権があり、それを行うのは完全に自由です。では、今度は国サイドから見た話ですが、国としては、自分のいうことを信じてほしい。だから、個人の自然権の行使に干渉してくるのです。そこで、憲法の出番です。国と個人の線引きを担う憲法は、内面には絶対に立ち入らないこと!という強力で明確な境界線を引いたのです。
人間は弱い。自分の心の拠り所となる都合のいい、安心の出来る考えを求めるのです。もちろん、それが事実であればなおさらいいでしょう。
ですが、宗教で信仰の対象となるものは、目には見えないものです。実体があるとは言えないもの。私たちの頭の中だけにあるようなものです。それで人は幸せになることがある。しかし、同時にこのことが、大きな社会問題を産んでいます。新興宗教は、これを利用して、人々を食いものにしているんですよ。」
学生B「何でその人たちがターゲットになるんですか?」
先生「それも、【しちゃうおじさんの記事を紹介しますが、結局自分の書きたいことを書いてしまいました。】という記事を読んでいただきたいのですが、つまりそういうことです。宗教というものが何であるのか、よくわかっていない人が多いということもその流れに拍車をかけます。宗教の意味がよくわかっていないまま、憲法には宗教という言葉が使われていると私は考えています。裏を返せば、憲法にはまだ明らかにされていないことがあるということです。学者がたくさんいて、憲法を研究していることが何よりもの証拠です。【蒼天航路 勝手に解説 儒学を駄目にしたのは儒学者たち 何晏の考え】では、学者がいるということは、実は真実がわかっていない証拠だという記事を書きました。
憲法も学者たちが研究している法律です。まだまだはっきりとしていないことが多いですし、法律は変化していくものです。
宗教というものが、何であるのかをしっかりと明確にしないまま、宗教の自由を保障してしまっている。思想・良心の自由、というのも同じで、思想とは何か・・・。良心とは何か・・・。それもはっきりとした答えを出さないままなのです。ただ、戦争時代に思想と言われているものへの人権侵害があったり、国家神道を信じるように押し付けることがあった。
みんな、宗教についてはあやふやな、なんとなくな理解でここまで来た。それでも、なんとなくわかるようなものではあるわけです。神様を信じているのことが多いし、仏像とか、祭壇とか、そういった宗教施設や道具なんかも目に見える形でありますから、なんとなくわかりますよね。AIにはこういうの理解するの、逆に難しいんだろうなぁ。だから、宗教の意味がはっきりと分かったうえで規定されたのではなくて、国が宗教って言われていることに対していろいろとやってきたこと、そこへの反省として規定された条文にしかすぎないということです。意味が分かったうえで保障しているのではなく、とりあえず、同じようなことをしないように。とりあえず書いとかなきゃ、保障しとかなきゃやばいからね・・・っていう書き方をしている。宗教が何なのかわかっていない状態は、今もずっと続いているんです。これは非常に大きな問題だと私は思うんですよね・・・。宗教って、わかっているようでわからない・・・。でも、それなりに宗教だってことはわかる。不思議ですね。人がどこで宗教であることと、そうではないことを見分けているのか。宗教の意義が明確ではないのに。それは、神様がどうのこうのと言っているか、儀式的なことを一生懸命やっているかとか、そういうわかりやすいところで見分けている感じですね。」
学生B「一言で言えば、曖昧なまま保障しちゃったってことですね。」
先生「そうです。」
学生A「難しいこと考えずに、個人をほっとけばそれで保障されたことになるんじゃないんですか?」
先生「それが出来れば苦労はしません。さっきも言いましたように、悪質な宗教団体に騙されている人がいるんですからね。で、誰も助けないのかというと、これは難しい。目に見えないものを否定するのは勝手ですけど、否定したことが正しいかどうかなんていう証拠もありませんから。そして、憲法の制定によって、国は宗教に対して口が出せなくなったんです。だから、問題が顕在化するのに時間がかかるようになってしまった。そしてもう一つ。宗教は行動規範です。ただ内面にあるだけならばいいんですけど、その思想や信条が外部に出てきて、周囲を巻き込み始めることがあります。オウム真理教の地下鉄サリン事件とかね。信仰するのは勝手だけど、これは【公共の福祉】に反していますよね。木の実を取るのはいいんだけど、周りの木を腐らせていくような取り方をしている。そういう信仰はいかがなものか・・・。ということです。だから、そういう問題が発生するようになった時には大体手遅れなんですけど、国からすれば、そういうことでも起きなければ、なかなか介入できないのですよ。」
学生B「なるほど・・・。信仰は内面の問題だけど、その信仰がその人間の行動に影響を与えるからですね。すると、その内面がきっかけとなって、外界にも影響をあたえるようになる。でも、それって、さっき先生が言ってたことと違う・・・。目を背けていたいことから背けているのが宗教だっていってましたよ?」
先生「そう聞こえますかね。それは、学生Bさんの理解がまだ浅いからです。宗教は行動規範だ、と言ったのはマックス・ウェーバーです。確かに私は違うことをいっています。違うことをいってはいるのですが、何を心の拠り所としているかによって、その人の行動は変化する・・・。行動規範だというのは、ちょっと違う側面からとらえたことで、結局はその通りです。私の意見とも衝突しませんよ。私は、その心の拠り所へ逃げ込むことによって、人は辛うじて心の安定を得ているのだと考えています。どれだけ健全に見える人でもね。例えば、ボクシングが滅茶苦茶強い人は、私たちから見るとすごい人に見えます。ですが、彼らは別の側面からみると、自分が負けることから、ものすごいパワーで逃げ続けている人間なのではないか・・・と私は考えているのです。」
学生A「逃げ続けている?」
先生「はい。権力者は、死刑をちらつかせて人々に言うことを聞かせます。どうしてそれが有効かというと、やっぱり人間、死にたくないからです。死から逃れようとすると、人はものすごいエネルギーでそれを回避しようとします。頭の回転もものすごく速くなります。金槌の人間を海へ落し、もがいてもがいて、必死に生きようとすることで、泳ぎを体得させる・・・。ライオンは子を千尋の谷底へつき落とす、というように。同様に、私たちがお金稼ぎに夢中になるのも、お金が無くなってしまうという不安から、必死で逃れようとしていると考えることができますね。」
学生B「う~ん・・・わからなくはないけど・・・。そういうことばかりでもないんじゃないかなって思うし・・・。」
先生「ええ。ですけど、この世界で有能な人間は、何かから逃げる力がものすごい強い人たちなのではないか・・・。私はそう分析しているのです。そして、その逃げる方向性が、この世界で生きると言う意味で、非常に有利な方向に動いているのだと私は分析しています。逆に、その方向性があまり良くない人たちもいて、そういう人たちは、周りの人からは人生の失敗者のように思われている。いずれにせよ、自分達の都合の悪い考えから必死で逃げているのです。だから、すさまじい勢いで自分にとっての都合のいい考えを信じている。私たちが筋力とレーニングをすると、どうして筋肉が発達するのか?それは、筋力トレーニングをすることで、身体が危機感を覚える。子の体では自分を守れないかもしれない!とね。そうすると、より自分の体を守りやすくするために、筋肉が発達するようになっているのではないか…と考えられます。つまり、逃げが自分を鍛えてくれるのです!つらい経験をすれば、その人間が成長する、と言われています。無駄につらい経験は本当に無駄ですが(意地の糞わるい目上の人間の格好の理由になることがあります)、意味のある負荷をかけた経験は、その人間を鍛えてくれます。人間の成長には、なぜ筋トレとかのように、疲れたり、苦しかったりする前提がいつも必要になるのか。なぜストイックにつらい時期を経なければならないのか。それは、逃げるきっかけができるからです。体がその辛さから逃げられるように、私たちの能力を開発しているのです。悔しさが脳を育てると言われていますし。その辛さから逃げられるようにするためには、それだけの能力を体得するしかない。逆に、辛さを一切感じない環境にいると、人間の体はドンドン弱って行きますね。だって、逃げる必要が無いからです。天敵がいないと、退化していく生き物は多いですよね。
宗教は、人間に逃げ道を感じさせるものです。逃げたい!逃げなければ!と思う気持ちは、人間が持っている、とてつもなく強烈なパワーを生み出すトリガーです。進化の秘宝です。宗教は、それだけの力を人間にもたらすのです。
戦国時代、本願寺の宗徒たちは、火が体にまとわりつこうがものすごい執念で抵抗してきたそうです。この世界がここまで苦しみに満ち、残酷であり、無意味なものであることを認めきれない気持ちがあったのかもしれません。極楽浄土に行く道、世界が平和になる道、そういったものがないにもかかわらず、あると信じていなければ、やっていけなかった。相手を仏敵と見なしていたということも手伝ったでしょう。自分達の心の拠り所をつぶしに来る存在ですから。天草四郎の乱でも、籠城し、食べるものもないのに一か月以上も耐え抜いたとか・・・。そういったことを聞きますね。私たちは、積極的に、何かを信仰する気持ちの強い人たちがいるんだ・・・という考えを持っている人は多いと思います。しかし、私の考えは逆なんです。消極的なんですよ。そういう人たちも、何かから必死で逃げようとしている。認めたくないものを認めないという気持ち。そのエネルギーがとてつもなくすさまじいから、あれだけのことができるのだと考えています。だから、宗教関係者を敵に回すのは、織田信長でも厄介な相手でした。宗教はこのように、国家権力側から見ると、めちゃんこ厄介な相手なのです。いうこと聞かないし。反抗してくるときはめちゃくちゃしつこいし。命かけてくる奴もいるし。」
学生A「逃げる・・・。それはないんじゃないかなぁ・・・。と信じたい・・・。」
先生「逃げる力がとてつもなく強く、そして、それが肉体にも非常に大きな影響を与えているため、無敵となった人間もいるでしょう。この人一体何言ってんだ?って思われるところであるのは自覚しています。けど、私はそうとしか思えないんです。もちろん、このことを逆手にとって、この私自身が、私が自分にとっての何らかの都合の悪い考えを認めたくないからこそ、今の自分の考えを一生懸命信じようとしているんだ!と考えられるかもしれませんけどね。」
学生A「うん・・・。私はそんな気がします。先生、考えすぎて頭がおかしくなったんじゃないですか?」
先生「OKです。でも、とりあえずはこの考えで進めたいと思いますよ。ちなみにオウム真理教の信者たちは、有能な人が多かったようです。けど社会からは受け入れられなかった人が多く集まっていたと聞いたことがあります。だから、サリンなんていうのも製造できたのでしょうね。自分達が、社会から受け入れられない。それを認めたくない・・・という気持ちが、却って強い結束と、反骨精神をはぐくんだのかもしれません。日本の方がおかしいんだ!って感じ?で、この流れも新興宗教と一緒ですね。認めたくないものを認めたくない。逆に言えば、宗教はそれを肯定してくれる。受け入れてくれるのです。国はオールクリーンではありませんからね。確かに。だから、悪いところを指摘していくと、その宗教の言っていることが正しく思えてくるのです。」
学生A「う~ん。憶測に聞こえます。」
先生「まぁね~。このトピックが難しいのは、本当に人の中に入って、その人自身になってきました!っていうことができないので・・・。憶測でしか言えないんですよ。この話自体も宗教じみています。信じたくない人は、信じなくていいですよ。信教の自由ですからね。」
・・・
学生B「ああ、そういえば、オウム真理教は解体されてしまったようですね。これは国による宗教への介入なのでは?」
先生「そうですね。しかし、彼らの信仰の対象自体を否定しているわけではありません。オウム真理教の信者たちは、散り散りになり、また別の団体を作り、そちらへ入信し始めたようです。」
学生A「そうなんですか。確かに、どれだけ国が介入しても、宗教の教義自体は否定できませんね。」
先生「はい。まんだら事件という有名な事件があるんですけどね、信仰の対象であるまんだら様が本物かどうかを争った事件です。でも、裁判所はそんなこと判断できないという結論を下しました。そりゃそうでしょうね。裁判所がそんなこと知っているわけがない・・・。それと同様に、裁判所には、宗教の教義を否定することも肯定することもできないんですよ。」
学生B「なら、国が宗教に介入することも問題ないのでは?あるいは、しても無意味っていうか・・・。」
先生「いえ、やっぱり問題はあります。国家神道を押し付けたり、他の宗教を排斥していくことをしましたからね。
では、国家が介入するのはどういうときか。思い出してください。さっきもいったでしょ。信仰の自由は自然権がある以上は、当然のように保障されるものなのですけれども、自然権があったとしても、権利の濫用や公共の福祉に反する使い方はダメだ・・・ということを学びましたね。」
学生A「つまり、信仰がそのラインをはみ出したら、国が介入してくることがあるわけですね。」
先生「その通りです。オウム真理教なんていうのは、松本サリン事件や地下鉄サリン事件で、大量に人を殺傷しましたから。これだけじゃなく、他にもいろいろとやってますからね。これは明らかに公共の福祉に反しています。だから、国もその団体を規制しましたね。」
先生「では、ここまでの話をまとめます。私の話だと、信仰とは、心の拠り所となる考えにすがること。もとい、認めたくない事実から目を背け続けられるかどうか、そこから逃げ続けられるかどうか・・・ということです。そうした気持ちが強い人であり、そして、逃げる方向性がよかった人が、この世界でよりよく生きることができているのではないか、ということです。逃げるは恥だが役に立つ!この言葉は、漫画やドラマでブームになりましたけど、実は私、宗教のことを考えていたとき、この言葉が有名になる前に思いついてたんです。私はドラマも漫画も見てないので、具体的な内容は知りません。私は全く違う考えから、この考えを導き出しましたからね。」
学生A「(自慢はいいわ。)なんか・・・。じゃあ、大リーガーの大谷君とか、フィギュアの羽生君とか、ボクサーの井上尚也選手も、その一人かもしれないってこと?」
先生「ええ。例えば、野球選手じゃない人生を送ることから必死で逃げているとかね。」
学生B「先生!それはさすがに侮辱が過ぎると思いますけどね!」
先生「ああ、すいません。日本国民全員を敵に回すようなことを言ってしまったかも。でも、私はそう思うんです。私一人くらい、そういう考えをもってもいいでしょう。違ったら違ったで、別にそれはそれで、大した影響力もないでしょう。思想・良心の自由です。私は今のところ、そう信じているんですよ。」
学生A「そうよ。私も今回の先生の話は納得いかないけど・・・。私たち周りの人が先生の考えを否定すると、それこそ思想・良心の自由を侵害したことになるわね。」
先生「そうですね。ですけど、信じたくないことを信じない自由も、信仰の自由の一つです。私が言っていることが、全然信じられない。信じたくないっていうのも、もちろんOKです。そして、私からすれば、BさんやAさんは、彼らがそういう人間であるということを認めることから逃げていると考えることもできるのですが、やめておきましょう。これ以上は平行線でしょう。でもね、相手の考えを否定したくなる気持ち、よくわかったでしょ?思想・良心の自由によって考え出された人の考えが外に出てきたとき、自分にとって都合が悪く、認めたくないと思う考えは、否定したくなるものなのですよ。」
学生A「はい・・・。よくわかります。」
学生B「まあ、確かに・・・。」
先生「国もそれと同じだと言うことです。国は、自分達が認めたくないと思うことを認めないために、必死で逃げ続けている。そういう存在だと言う事が出来ます。認めないために、全てのあらゆることを行っているとすれば?だから、批判されても認めない。何か問題が起きても隠蔽する。それは、全力で逃げ回っているからです。国は私たち国民の代表者たる国会議員が握っています。私たちの代表者です。つまり、私たちがそういう人間たちだから、ああいう人たちが代表になってしまっているのかもしれませんよ?彼らは、自分達に嘘をついて、その嘘を本当のことだと考えられるエキスパートです。優れた詐欺者は、自分自身を騙すことができる。だから、自分の行動に自信があるように見える。頭の中で正当化する理由を構築する頭の回転は極めて速い。私たちはそれを聞いて納得してしまう。そのよどみのない行動は、他の人を信じさせるのです。そして、メディアは政権側を批判したり、否定したり、問題視しています。メディアにとっては、共産党と同じように、世の中を騒がしてくれれば金になったり自分達の意見を映えさせる踏み台になってくれるから、実はそのままの方がいいとおもっているんじゃないか…とさえ思いますね。」
学生B「う・・・信じたくない・・・。」
学生A「あんたと意見が一致するなんてね。」
先生「私は、国自体が宗教だという考えも持っています。だから、政教分離と言っていますけど、国自体が宗教なので、絶対に分離することなんてできません。そういう意味で、憲法は、宗教っていうものがどういうものなのかよくわからないまま、戦前の宗教団体への弾圧の反省として、消極的な理由で書かれたものにしか過ぎない・・・。そう考えています。」
学生B「国自体が宗教?最初は、信じたくないことを信じることが宗教。で、次は行動規範。そしてお次は、国自体が宗教ですか・・・。先生もよくわかっていないんじゃないんですか?」
先生「その3つはちゃんとリンクしているんですよ。しかし、説明が非常に難しいのです。なんてったって、日本の宗教は、怪しい新興宗教のイメージでおおわれています。そのおかげで、宗教と一言言えば、皆の頭の中で怪しいイメージの宗教と結びつきます。そのイメージでとらえられている宗教は、宗教ではありません。しかし、日本ではそうした団体が宗教団体を名乗っています。だから、皆宗教と言えばそっちをイメージする人が多いです。国自体も、そうした胡散臭い宗教の一つです。つまり、うさんくさい新興宗教と、国という存在は、大して変わりが無いと言っています。1945年に日本という国が出来上がった。それも一つの新興宗教の成り立ちみたいなものです。そもそも、自然権の集合体である国家は、私たちが自分達の自然権を、目の前の人間たちとぶつけあうこと、それを避けるようにして成り立ったものですからね。宗教は事実から目を背けたい人が信じる心の拠り所、宗教は行動規範、という考えを否定するものではないのですよ。自分達が動かなくてもいい。国がどうにかしてくれる・・・という考えは、実は国が宗教だからです。目の前の問題に対処できるのは、私たち個人なんですけれども、目の前の嫌な事実を自分で対処したくないから、国という宗教に任せてしまっている、と考えることもできるんです。弱肉強食。食うか食われるかの世界。その残酷な世界が、本当の世界です。自然権が縦横無尽に認められ、オオカミ同士がお互いを食らいあう弱肉強食の世界がね。」
学生A「今回の話・・・私たちはちょっとついていけません。納得できる部分もありますが・・・。私の何かが壊れていく・・・。話自体が破壊力ありすぎます。」
学生B「孤軍奮闘ですね。先生・・・。今回は同意できません。全部が納得できないわけじゃないんですけど。」
先生「よくわかります。まぁ、残念です。でも、読者の方達には理解を示していただけるかもしれないので、このまま進めます。確かに、話が抽象的すぎましたし、宗教論議になってしまいましたね。憲法の方に話を戻しましょう。」
先生「はい。で、国家神道の反省から、国の政治と宗教は分離すると言う政策が取られるようになりました。それと同時に、天皇は国を運営する権利が一切なくなり、形式的な国事行為というものをするだけになったのです。」
学生B「天皇はお飾りってこと?」
先生「まぁ、そんな感じですね。傀儡政権は、権力者の権力を認めながらも、裏で別の権力者が権力を操作していること。しかし、今の政権は、天皇に権力自体がありません。権力がない、というだけで、人々からは依然として慕われています。人によっては、まだ信仰の対象として崇めている方もいらっしゃるんじゃないですかね。私は知りませんけど。一方、アンチもいますよ。たまに、皇室の人を狙った事件が起きますよね。」
学生A「アンチって絶対いますよね。」
先生「そうですね。ネットには相当数のアンチさんがいて、皇室を侮辱する発言が出ることもあります。で、このお話は憲法10条からスタートしましたが、天皇については、それ以前に規定があるんです。ここを話終えてからいろいろ言おうかなと思っていたんですけどね。天皇につきましては、私から見て闇の軍団が多い気がしてちょっと恐怖しているんですけど、そこは表現の自由ということで許していただきたいんですよ。また、今回の、宗教のお話も、闇の軍団が多い気がするんですよね。そもそも、天皇自身が人間宣言をしたわけですから、天皇を人間として語らなければ、却って天皇の言葉を無視したことになると思います。まぁいいとして、宗教の問題は、たいてい、その宗教行為が私たちの社会と衝突したときに問題になるわけです。さっきのオウム真理教のサリン事件のようにね。」
学生B「他にもあるんですか?」
先生「例えば、牧師さんが犯罪者を1週間教会に匿い、教えを説いて自首させたところ、犯人隠匿の罪に問われたという事件が有名ですね。もちろん自然権からすればそういうことしてもOKなんですけど、確かに隠匿罪にもなる・・・。宗教の自由が、私たちの社会のルールと衝突することがあるんですよね。このように。」
学生A「なるほど!」
先生「とりあえず、入門では、国家が定めた法律と、宗教側で信じられていることを実践した場合、それらが衝突することがあるんだ・・・。これを知っておいてください。憲法で論点になるのは、たいていこういうところです。」
学生A「はい。」
先生「他にも論点となるのは、国が特定の宗教を援助する話ですね。靖国神社参拝問題というのがあって、時の首相が、軍神を祭っている靖国神社を訪れる・・・ということがあるわけです。これが、韓国とか中国をはじめとした外国から批判されることがよくあります。」
学生B「ああ~。なるほど。それだと、国と宗教が結びついているように見えますね。」
先生「はい。中曽根総理の時は、公金を支出したことがあって、それが裁判にもなりました。」
学生B「それはさすがに憲法違反でしょ。」
先生「と思いますよね。でも、実際の裁判では許されています。違憲の疑いが強い!という程度でしたね。」
学生A「それでいいんですか。」
先生「やりすぎたと思いますけどね。総理大臣がそれやっちゃったって。でも、違憲判決を下すのも躊躇したんじゃないかな~って思ってます。裁判所は公立中正。法を語る口。とはいえ、結局は違うんですよ。そうじゃないこともよくあります。」
先生「はい。では、信仰ということへの私の考えが長~く続きました。条文の話に戻りましょうか。次は、【いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。】と書いてある。靖国神社は宗教団体ですから、時の首相が公金でお金を支出するってことは、これは国から何らかの便益を受けたことは確かです。ですが、「特権」、つまり、特別な権利を与えられた、ということまでは言えませんけどね。でも、周りの人はこう思うかもしれない。「あれ?時の首相が参拝してお金まで出しているってことは、あの宗教団体すげーんじゃね?」とか。(今そんなこと思う人は小学生くらいかもしれませんが。)特権というのは具体的にどういうものなのかはわかりませんけれども、特別な権利を与えることで、他の宗教団体と差がつきますよね。つまり、不公平な状態になる。これはやめましょうということ。次の、政治上の権力を行使してはならない・・・というのは、どんなケースかというと、宗教団体が政党として活動するって感じですね。実際にはそういうことは起きえないのですけどね。どういうことかというと、例えば幸福実現党から選挙への出馬をしている候補者がいましたね。オウム真理教も出馬したことがあったかな。支持母体は幸福の科学だったっけ?なんですけど、これで政権を取ってしまったら、宗教団体が政治権力を行使する問題になる。だから、あれは本気で政権を取る気はなくて、宗教の宣伝を選挙活動を利用して行っていると言われています。だから、全然得票数ないのに、なぜか出馬してくるでしょ。落ちるのがわかっている。其れよりも問題だとささやかれているのは、公明党の支持母体が創価学会であるということです。創価学会の意思が公明党という仮面を通して反映されていると言われますし、自民党の腰巾着だと言われており、希望の党が強くなったと思えばそっちに泳ぐ。与党と連立政権を取っており、憲法違反ではないか・・・と言われています。旧統一教会は、民主主義を悪用し、自分達の宗教に有利な政治家を後押ししていました。だから、宗教的中立性を徹底するならば、宗教団体をバックに資金を受け取ることもやめなければいけません。」
学生B「ちょっちょ、ちょっとまった~。創価学会がバックについてるって、公明党って宗教団体じゃないですか。」
先生「いえ、政治団体です。」
学生A「ですけど、どうしてそんなことが許されているんですか?」
先生「民主主義の穴と言えば穴ですね。宗教団体に加入している個人も、民主主義を構成する1個人です。その個人が、特定の政治団体を支持するのは別に駄目なことじゃない。それがたまたま公明党なんです・・・っていうことなだけなんです。すると、公明党に票が集まる。これは、宗教団体だけじゃなくて、税理士会とか、司法書士会とか、弁護士会とか、そうした特定の団体も似たようなことをやっていると思いますよ。むしろ、問題は、個人の投票の自由が事実上脅かされているということですね。そうした中間団体によって。でも、それは大抵の場合同調圧力みたいなもので黙殺されるわけです。勿論、それやったら問題ですよ。」
学生B「え。ってことは、宗教団体が特定の政党を支持しても問題じゃないんですか。」
先生「ええ。宗教団体自体が政権を取るのではなく、ただ、特定の政党を支持しているだけ、と言えばそれだけなんです。宗教団体も、1個人であり、政党は政党で別に動いている・・・という形を取っている。」
学生A「政治家から宗教団体へ公金が流れたり、逆に宗教団体の方から政治家へお金が流れたりすることは?」
先生「あったらアウトです。
〔公の財産の用途制限〕
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
と憲法に書いてある。だから、中曽根首相の公金支出は、もろにこれに嵌ってると思うんですけどね・・・。
公明党と創価学会の関係って政教分離に違反しているんじゃないの?っていう疑問については、公明党QアンドAの最初に、そのことが述べられています。【憲法が規制対象としているのは、「国家権力」の側です。 つまり、創価学会という支持団体(宗教法人)が公明党という政党を支援することは、なんら憲法違反になりません。】と書いてある。創価学会が公明党を支持すること自体は、確かに問題にはならないでしょうね。でも、彼らの考えには誤りがあります。憲法は国家権力を制限する法律である一方、個人の自然権を制限する法律でもあります。権利の濫用と公共の福祉はその根拠となっていましたね。だから、自分達は国じゃないですから!とかいって、好き勝手やるとすれば、ダメですよね。憲法第10条でお話しましたが、本来私たちは、国籍を秒速で変える自然権の行使をすることさえできると語りました。しかし、それだと困るので、国籍法を作り、日本国民であることを、国籍変更の手続きが行われるまでは固定するようにした。これも、憲法による、私たちの自然権の制限でしたね。憲法は、国家権力と個人の権力の調整を行うための線引きを行う法律でもあります。個人の権力も制限する法律でもあるのですよ。いずれにしてもね、世の中がよくなるのであれば、それほどまで線引きを強調しなくてもいいんですよ。逆にやばいのは、よくする気がないことですね。線引きだけ守っておけばいいんだ、っていう考え方ですね。これだと、いつまでも世の中はよくならないでしょうね。」
先生「民主主義の観点から言えば、どんな団体が政党を支持していようと問題ありませんが、その中にいる個人の投票の自由を脅かすことはできません。そして、それは脅かされているわけではないのでしょう。問題になっていないってことはね・・・。ですけどね、政治家サイドから見ると、団体の支持を受けるってことは、その中の構成員全員が、同じ人たちに見えてくるんですよ。で、彼らにとって、自分が得票数を得られるかどうかが重大な関心事になっているため、結局は創価学会がどう考えるかによって自分がふらふらと意思を変化させなければならないことになります。ということは、間接的に政治家の意思をコントロールしているのと変わりがないんですよね。つまり、政治権力に影響があるんです。しかしそれも、国民の意思だと言えば、文句が言えないし、宗教団体じゃなくても、他の有権者の目を意識しているわけです。それが、団体となっているがために、政治家からは芋づる式に得票できる可能性が高くなる。何考えているのか、が個人より特定しやすい、というわけで便利なんですよ。
でもね、こういう団体的なものの存在を許してしまうと、政治に参加する人間としての、独立した個人が少なくなっちゃうってことは問題ですよ。こういう個人は、浮遊層と言われていて、どれを支持するかわからないぞと言われています。政治に参加するには、あまりにも無関心だし、無知だし・・・で、表面的なイメージだけで選んじゃう・・・。民主主義!っていいますけど、選挙が行われる前では、コミュニケーションが不完全な状態で行われているのが実情です。民主主義はすごい!というイメージを持っている人は多いかもしれませんが、民主主義はやばい制度なんだけど、他よりはましなだけなんです。ギリシャの哲学者は、愚民に何が出来るって感じでしたからね。それよりは立派な哲人を育てろ!という考えでした。愚民に任せるのは超やばいっていってました。わかる気がします。」
学生B「確かに・・・。色んな考えの人がいますけど。愚民って・・・。侮辱ですね。」
先生「愚民っていう言葉は確かにね。ですが、民主主義がそれほど大切なことならば、私は、確かな情報を、国民との間に届けなければならないと思います。そして、国民自体が、自分で政治のことについて関心を持ち、考えなければならない。国民一人一人をしっかり育てなきゃいけない。それは間違いがないです。でも、そうはなっていません。それが出来て初めて民主主義を名乗れ・・・ということです。確かに、政治についていくってことは、毎日の自分の時間を、最低2~3時間くらいはそのことに割かなきゃいけませんからね・・・。大変です。
ルールって、正しくもくそもないんですよ。ただの線引きにしかすぎないんですよね。だから、ルール守っているから問題ない、という態度は、本当はくない。ルールは、最低これだけは守りましょうっていうセーフティネットでもあるわけです。だから、ルールを守るなんて言う意識は、いつしか最低限のことさえ守っとけばいいんじゃん?っていう方向ばかりに向いて、民主主義がよりよい民主主義として機能するようには動かないわけですね。ルールさえ犯してなければOKって感じになる。最低賃金と同じです。ルールが持っている危ない副作用です。最低賃金が目標になり、最低賃金で社会を動かそうという話になるわけ。よりよい社会なんていうのは、なかなかできませんよ。ルールを守ることが目標になっているような社会ではね。で、旧統一教会と国会議員の癒着が問題となりましたが、これは、恐ろしいことに、ずいぶんと長い間癒着が続いていたようです。会員を秘書として押したりしていたようですし、彼らが押さなければ、今までの首相も出てこなかったと言われているようです。本当のところはわかりませんけどね。創価学会が、疑問視されているだけで、社会から叩かれていないのも、グレーゾーンで足を止めていられるからでしょうね。私も実像っていうのはわからないんですよ。だから、どうとも言えません。」
学生B「一体何を信じればいいのやら。週刊誌の記事も信用できないし、メディアも信用できないし、政治家も信用できないし・・・。」
先生「そうです。事実を報道するっていうのは、実は不可能なんですよね。
いや、可能ではある・・・。可能ではあるんですが、それはかなり時間をかけなければならないことが多い。メディアって、切り取った情報しか私たちには提供できないので。でも、ないよりはずっとましかな・・・って思います。私たちも、身の回りのことでさえ、自分達の視覚でとらえたレンズ内の情報しか基本的にキャッチしませんから・・・。人のこと言えませんよ。」
学生A「そうですね。」
先生「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。これはいいですね。あまり説明する必要はないと思います。」
学生B「はい。わかります。」
先生「では次、【国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。】これなんですけどね。例えば、キリスト教の十字架のネックレスがあるじゃないですか。ロザリオっていうの?あれを身に着けた教師が、授業をして問題になったことがあります。」
学生A「それだけで?」
先生「はい。やっぱり、教師の言うことを生徒は信じちゃうことがありますからね。そうした教師が特定の宗教を信じているということになると、やっぱり生徒たちに影響があるんですよ。」
学生B「そうでしょうね。その教師がめちゃくちゃ仁徳に優れてたりすると、逆にその宗教が素晴らしく見えてくるかもしれませんね。」
先生「はい。で、さっきした話をもう一度言うんですが、国も結局宗教活動しているんですよ。学生に書道で、「納税意識」とか書かせてたり、「確定申告」と書かせたりするのはちょっと面白かったですけどね・・・。」
学生A「確定申告ってなんですか?」
先生「その話は他の人の記事を読んで下さい。ノートにはその手の記事を書かれている人が多くいらっしゃいます。で、そう言うのを書かせるのは宗教活動ではない、というのが国の立場なんでしょうけど、私からすればがっつり宗教ですね。
宗教→私たちの考えを広め、世界をよくしましょう。→お布施をしてください。→個人が貧乏へ
国→私たちが国をよくし、皆さんを幸せにします。→お布施(税金)を払ってください。→個人が貧乏へ
同じ流れでしょ?ですが、宗教というもの自体が、どういうものであるのか、ということについては、あらゆる人の中で相違がみられるのです。金払えば払うほど国がよくなるんならいいんですけど、お金に出来ることってたいしたことじゃないし。結局国の中にいる個人が鍛えられてないとダメなんですよ。極端な話、国が行っている教育自体が、一つの宗教であると言えるのですけどね。」
学生B「そこまで行くと、全部宗教って思えてきました。」
先生「グレートです。Bさんのおっしゃる通り。すべて宗教です。人は自分の考えを持っている。其れだけで既に宗教です。それは事実とは異なる考えかもしれない。だから、宗教は事実から目を背けた状態で信じられている。しかし、その考えは確かに私たちの行動に影響を与えている。だから行為規範になる。例え本当のことを信じていたとしても、人は事実が事実だから事実として捉えているのではなく、その事実が自分にとって都合がいいから信じているだけなのではないか・・・と考えることができます。そういう意味で、例え信じている対象が事実であるとしても、事実から目を背けたいと思っている気持ちが無ければ、事実自体を事実と思えないのではないだろうか・・・。そういう気さえしてくるのです。そこに、宗教が大切なことでもあり、同時にやっかいなところでもある・・・。私は今そう考えています。」
まとめというかなんというか・・・
先生の立場
信仰は、事実から目を背けたいと思う気持ち、信じたくないものを信じないという気持ちをきっかけとして生まれる、人間の弱い心を守るためのよりどころとすること。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。では、創価学会や統一教会はどうだったのか?宗教団体がバックで支援していることは、多かれ少なかれ、政治家の動向に影響を与えるため、間接的に政治権力を行使していることになるだろう。ただ、これは他の利益団体であっても同じことなので、創価学会のみが中傷を受けるいわれはない。
憲法は国側を規制するためだけの法律ではない。自然人の権利も制限している。
統一教会は、会員が政治家の秘書になったり、政治家を招いて演説させたりと、その癒着ぶりが顕著であったこと。山上氏の暗殺により、日本中で注目を浴びたことから、叩きが活性化した。詳しくはそれ関連の記事を読むこと。癒着ぶりはかなり深かったとみられる。
創価学会が問題にならないのは、グレーゾーンからははみ出していないからだと思う。具体的な動きは、内部の人たちにしかわからないだろう。
宗教は、私たちが心の拠り所としている考え。逆に言えば、それが私たちの行動を決めていることにもなる。行為規範。
権力者が死をコントロールして、人を動かすように、死から逃れようとする人間のエネルギーはすさまじいものがある。私たちは生きたいからこの世界に生きているのではなく、死にたくないから生きているのではないか・・・。死から逃げているからこそ、この世界で生きる力を得ているのかもしれない。実は、この世界で活躍している人たちは、この逃げたいと思う気持ちがとてつもなく強く、さらに、逃げ込む先がこの世界で生きるためにとてもいい場所になっているからなのかもしれない。
我々の正体は、死である。私たちが死を意識せずに毎日を生きていけるのは、それだけでも宗教加入状態だと思う。
仮に一つの宗教が正しいとしよう。仏教の~派であるとする。ということは、裏を返せば、それ以外の宗教とその派閥は全て誤りだということになる。ほとんどの人間は、嘘を本当のことだと思っているからこそ、宗教が成り立っていること、その何よりもの証拠である。
例え事実を信じていたとしても、それは、その事実を信じることが、その人にとって都合のいい話だからではないだろうか・・・。逆に言えば、事実を認めたくないと思う心が、事実を認めさせている。私たちは、宗教からは一生涯逃れられないのかもしれない。