よくわかる法律入門 #7 憲法第13条について

第十三条すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

個人の尊重と幸福追求の権利
 
先生「憲法第13条の個人主義とか、幸福追求の権利というのも、これもまた自然権が十全に認められていることを示していますね。ただし、公共の福祉に反しない限りですよと書かれているわけです。これはこれまでのお話を理解していただいていたら、わかる内容です」
 
学生A「ほんと・・・。謎だった条文が、今では不思議とよくわかります・・・。」
 
先生「そう言っていただくと、話をした甲斐があるというものです。ただ、かなり説明しにくいところではあります。明瞭さが無いと、本当にわかっていただけるかどうか、不安になります。」

学生B「ですけど、個人として尊重される・・・の「尊重」ってどういう意味なんでしょうね。」

先生「そうですね。尊重というのは、自然権を軸にして考えると、十全なる自然権保持者として扱うこと、という意味だと考えています。例えば、子供も生まれながらにして自然権の保持者なのですが、親は大体子供の意思や意見は無視する人が多いですし、制限しまくるのが普通ですよね。これは、子供を尊重してはいない、ということになりますね。
 人は線引きを弱い立場の人間に押し込んできます。そういう人も、やっぱり尊重していませんよね。相手が自分と同じ権利保持者だと言うことを意識することです。それが、個人として尊重される、ということの意味です。もし線引きを強要するなら、法律の根拠がなければならないでしょうね。」

学生B「そうか・・・。仕方がない面もあるけど、そういうことなんですね。」
 
先生「条文を読んでいただくと、特に言及することは無いように思うんです。幸福追求の権利が認められるのは、自然権が認められる以上当然ですから。
 でもね、憲法を学ぶとき、ここで『新しい人権』という話が出てくるんですよ。例えば、知る権利とか、プライバシーの権利、自己決定権、肖像権、日照権、平穏権とか。いろいろな権利があり、それらは幸福追求の権利だとされています。」
 
学生B「それはそうでしょうね。自然権はなんでもしていい権利ですから、どんなことでも幸せにつながればそれを権利として主張するのが当然ですよ。」

先生「私の自然権の理解と、この『新しい人権』の理解をドッキングさせると、こういうことになります。自然権は、くどいですが何でもしていい権利なので、私の考えだと、『新しい人権』と言われるカテゴリーも、元々は自然権の内容に当然のこととして含まれていたものです。そういう意味では、新しくない。ですが、何でもしていい、と言う言葉自体、包括的で曖昧な言い方です。殺人や強盗などもしていい権利だ、とは前著でも申し上げました。だけど、具体的には、人々がその権利を頭の中に思い浮かべるまでは、陽の目を見ることがないわけです。」
 
学生A「そうでしょうね。何でもしていいよ。って、じゃあ具体的になんなの?って話です。」
 
学生B「母さんから聞かれるんですよ。今日の晩御飯何がいい?って。そしたら、何でもいいよって答えちゃいます。自分、特に好き嫌いないので。すると、母さんは困るんですよね。」
 
先生「お。Bさんがいいことを言ってくれました。まさにそんな感じです。実際にその権利があったらいいな、とか、そういう必要性に迫られるまでは、そんな権利を思いつくことはなかなかできません。
 このことを分かりやすく考えるために、前著で言ったことに言及してみます。原始時代にも、宇宙へ行くことのできる権利や、マリアナ海溝の底まで行くことのできる権利を原始人たちは持っていました。当時は技術力が全くなかったので、そんなことは不可能でした。この自然の制約が自然権にとっての唯一絶対の制約であったと言えます。
 しかし、もう少し考えると、もっと他の制約も見えてくるのです。それは、原始人がそんなことをしようとはそもそも思わないのではないか・・・。ということです。自分達の意識に登らなければ、どれだけ権利があるとしても、それを使おうとは思わないのです。
 物を盗むということが頭をかすめたこともない人間は、窃盗の権利を行使することもないでしょう。」
 
学生B「あ~たしかに・・・。自分達が主観で考えていないことを、自分たちがすることはない・・・ということですね。」
 
先生「はい。どれだけ権利が認められていても、その権利を考え付けなければ、実行しようと思いませんからね。
 ですから、新しい人権は、まだ人々の意識の上に登ってきたことがない。あるいは、長らく忘れられていた人権のことです。自然権は無数にある権利の束です。私たちの意識の上に登って、その権利がはっきりと見えるようになる。つまり、その束から分化して枝分かれしてくるのです。その束が、未分化の状態であるとすると、新しい人権は、未分化の人権から新しく分化した人権と言えますし、自然権は、まだまだ未分化のままの人権だ、と言うことができますね。
 では、日照権について言ってみます。これは、今までは十全に満たされていたのに、突如満たされなくなった権利、そういうタイプです。この分類自体にはあまり意味がありませんが、他と違うところを言えば、そうなります。
 建築技術が発達するにつれて、高い建物が至る所にできるようになりました。ところが、そのおかげで自分の家に太陽の陽が当たらなくなってしまったんですね。日照権は原始時代からあったものなのですが、他の建物のせいで、自分の家が陰になって困るという経験はつい最近までないことでした。だから、いざその不快感を感じた時に、建物を建てて日光を遮らないでほしい、という欲求が頭に浮かび上がったのでしょう。欲求は、自然権発動のトリガーでしたね。そういう意味で、『新しい人権』というのは、私の言葉で言えば、新しく人の意識に登って来た(欲求として浮かび上がってきた)具体的な自然権の一つ(未分化の人権から、分化した人権の一つ)と言い換えることができますね。『新しい人権』と言った方が、コンパクトで何だかかっこいい気がしますけど、私の解釈によれば、分化してきた人権と言ったほうが正確な気がします。だって、新しい人権ってことは、そうじゃない人権は古い人権なのか?って言われると、今でもありますから、全然古くありませんよ。」
 
学生A「そうそう!そういえば、『新しい人権』というの、まだ習っていませんけど、教科書で読んだことがあります。日照権で思い出しました。」
 
先生「はい。『新しい人権』、そして幸福追求の権利、これは結局、私が最初から言っている、自然権のことだと考えて間違いないでしょう。幸福追求の権利と言う名前であるとしても、自然権とは別の権利であると考える必要はないでしょう。でも、自然権はなんでもやっていい権利だけど、その中でも、自分の幸福を追求するために行使する権利のことを幸福追求権と言っているのだと言えます。つまり、この権利だけ特別にカテゴライズしている、グループ化している、という感じですね。」
 
学生B「結局は自然権ですね。」
 
先生「まぁ、そうですね。そういう意味では、第13条を書かなくても、第11条で十分だ。という考えも成り立ちえます。でも、あえてこの権利については、国も最大限尊重するように!と強調しているように思えますね。あって困るものじゃないから、いいですね。」
 
学生A「確かに・・・。」
 
先生「一言多いかもしれませんが、これ以外はそこまでの尊重が必要じゃない、と言う意味にも受け止められてしまうかもしれませんが・・・。」
 
先生「で、日照権と言うのが主張された時、この権利が認められるかどうかが争われるのです。」
 
学生B「えっ!自然権なのに認められない?」
 
先生「ええ。自然権だからって、全てが認められるわけじゃないことは再三申し上げてきたことですけど。」
 
学生B「あ、そうか。すいません。でもなんか変な気分。幸福追求の権利なのに?」
 
先生「確かに、幸福追求の権利は最大限尊重するとは書かれていますが、絶対無制限に認められるわけではないのですね。なぜならば、高い建物を建てたいという自然人の自然権があり、そちらも保障しなければならない、という問題があるからです。高い建物を建てたいと思っている人たちが、結局幸せになろうとしているわけですし。」
 
学生B「あ~なるほど。国も国としては自由に色々なことがしたいわけですからね。それによって、個人の自然権が侵害されることがある。つまり、日照権を憲法上保障することで、そういう建物を国側が立てられなくなる。それが憲法上保障される。そこに国と自然人たちの、建物を建てる線引きが作られる、ということになるわけですね。」
 
先生「ええ。これは国だけとは限りませんけどね。これは日照権ではありませんが、国が絡んだ具体例をあげましょう。京都学連事件という有名な事件があります。この事件の際、警察官が本人の承諾なく、勝手に写真撮影を行いました。動機は、デモ行進の様子を証拠として保全するためですかね。すると、写真撮影をされた人は嫌なわけです。この事件をきっかけに、自分の肖像をみだりに撮影されない権利、つまり肖像権が新しい人権として、憲法上保障されるに至ったのです。」
 
学生A「自然権は何でもしていい権利。だから、その肖像権も本来認められるはずの権利ですよね。逆に言えば、国側からすると、いくらでも写真撮影してもいい権利があり、それが衝突するわけですね。それで、国は個人をみだりに撮影してはならない。ここに線引きが引かれたことになるわけですか。」
 
先生「ええ。しかし、いくらでも写真撮影していいということになると、個人は不快感を覚えるものなのです。実際、電車の中で有名人と出会った人が、携帯電話のカメラ機能で写真を勝手に撮影したところ、その有名人がかんかんに怒って殴りかかってきた、という事件も起きました。人は勝手に自分の写真を撮られると、カチンと来ることがあるんですよ。私も、そういう人に出会ったことがあります。」
 
学生A「ひえ~。こわい・・・。」
 
先生「でね、最高裁は、この肖像権が憲法上保障される、と言うことを認めたわけです。幸福追求権から分化した権利の中で、この肖像権だけが、最高裁判所によって認められました。つまり、国側が本人の承諾なく、自然人の写真をバシャバシャとっちゃいけません、ということを認めたのです。そこで、自然人は自分の肖像を同意なく撮影されない権利が憲法上保障されました。」
 
学生B「えっ・・・。ってことは、自然権を信託した結果、いろいろと自分達の人権が国側によって脅かされても、憲法上保障されていなければ、そのまま国側の自然権を行使されてしまっても文句言えないってこと?じゃあ、肖像権の侵害以外は、向こうは何だってやっていいことになっちゃうんじゃないんですか?」
 
先生「勘違いしないように。これはあくまでも『新しい人権』の話です。新しく分化した人権の中で、まだ保障されていないものがあるのです。『新しい人権』があるということは、『古い人権』は当然保障されています。別に古くありませんけどね。
 つまり、社会が今まで続いてきて、段々と技術が発展し、今までは突破できなかった自然の制約が取り払われ、人々の出来ることが増えてきた。その当時はカメラ撮影自体が珍しかったでしょうし。そうすると、自然の制約が取っ払われた自然権が分化してくるわけです。そうなることで、人に出来ることが増えるわけです。すると当然、国側もそれを自由に利用できることになる。でも、一方で、その権利の行使によって脅かされる個人がいる。ここで話題になっているのは、そういう次元の話ですからね。だから、新しい人権というのは、新しく意識に登って来た権利があるんだけど、それを憲法が保障しているかどうかはまだわからない。今回、そういう権利のうち、肖像権については、憲法上保障することに決めたのだという、そういう段階のお話なのです。」
 
学生A「何だ・・・。よかった。」
 
学生B「当時は最先端の話だった、ってことですね。」
 
先生「はい。既にその当時だって、様々な法律ができていましたからね。国側もおいそれと私たち個人の自然権を脅かす自然権の行使はできません。それだと、戦前とおなじこといくらでもやっていいことになりますから。でも、日照権とか、警察官による写真撮影については、ちょっとまだ考えてなかったです・・・と、こういう話です。」
 
学生B「ええっと。じゃあ、国が自分達の自然権を個人に対して行使してきたとき、憲法上の保証がなきゃ、そのまま引き受けなきゃいけないってことになるんですかね。」
 
先生「はい。そういうことになりますかね。もし肖像権が認められなければ、ばしゃばしゃと警察官がシャッタ―を切ってもいいってことになりますね。」
 
学生B「そっかぁ・・・。でも、ここはまだまだ先を学んでいかなきゃいけないなぁ。」
 
先生「では、次は順当に、法の下の平等である第14条に話を進めてみましょうか。」
 
 
学生A・B「はい。」

この章のまとめ
 
自然権はなんでもやっていい権利なので、幸福追求の権利は当然その中に含まれているはず。ただ、憲法第13条は、幸福追求の権利だけを特別扱いし、国の最大限の尊重を要求しているように読める。自由主義の要請から、自然権の保障は最大限認められて当然なので、本来はいらない規定だと言える。
 
権利の濫用を行うことにより、公共の福祉を損なうことは、国⇔個人の自然権の行使において、控えること。これが憲法12条で求められている。権利と自由は、公共の福祉のために利用すること。(私の考えでは、自由とは、権利と、それに対する義務と責任が一セットになっていることなので、自由と書いておくだけでいいかもしれないという気持ちはある。)
 
公共の福祉は、『私たち皆の違いを同一水準へと導き、さらにその水準を向上させていくこと』が字義通りの意味だが、権利の濫用によりそれを脅かすことを防止する必要がある。私たちが公共の場で権利を行使するとき、常に他者の自然権が関わってくるのが普通。例えば、建物を建てると日を遮る。カメラで肖像をバシャバシャとると、取られた個人はカチンと来る等。このようなことが無いように、相手の人権のことも考え、自分の権利の行使を、調整する必要がある。そのための原理として働く。
 
国としては、写真撮影をしたい。逆に、自然人は、勝手に写真撮影されたくない。
そこで、国⇔個人の、お互いの人権(自然権の行使)が衝突し合う。だから、お互いの人権が損なわれないように調整する必要がある。公共の福祉は、人権相互の衝突を調整する原理と言われるのは、このためである。では、その調整が行われたとして、その調整を損なわない範囲で自然権の行使を行った場合は、権利の濫用とはいえなくなるだろう。
 
 (憲法を学べば、それを判断するための基準が考え出されていることがわかる。だが、どうしても曖昧であり、国側の判断が尊重されやすいな、という印象はぬぐえない。)
 
特に、国⇒個人の自然権の行使で、まだ具体的になっていなかった権利、例えば肖像権を考えてみる。国側とすれば、自然権なのでいくらでもカメラでシャッターを切ってもよい。だが、それだと個人が困る。そこで、肖像権を憲法上保障する。このことにより、国⇒個人の関係で、自分の肖像をみだりに撮影されない権利を憲法上保障された。つまり、個人をカメラで撮影する国の自然権は、憲法により、遮断されたということができる。国側がその権利を自ら放棄したのだと考えることもできる。
今までは意識の上に登ってこなかった権利。しかし、写真撮影という新しい技術が普及し、自分の姿態が一方的に撮影されるという新しい現象が発生するようになった。そのため、その権利が具体性を帯びて、意識の上に登ってくることになった。
 
このように、今までは抽象的であった権利のうち、新しく具体性を帯びて人の意識の上に登って来た自然権のことを、『新しい人権』といい、中でも、憲法上の保障を受けた権利をそのように呼んでいるようだ。
 
著者に言わせれば、自然権はなんでもやっていい権利なので、『新しい人権』も、本来は自然権の中に当然含まれていたものである。そういう意味では、全く新しくはない。しかし、具体的な事件が起きなければ、人々の意識に具体的に登ってくることがないのが現実である。だから、新しい人権というのは、今まで人々の頭の中で具体性を帯びていなかった自然権の一つのことを言うと考える。
 
このようにして認識された権利は、憲法上当然のように保障されるわけではない。国側にも、自然権の行使を行うそれなりの理由があるからだ。例えば、警察官が写真を撮影するのは、証拠の保全のためだとする。それを尊重すると言う流れも当然出てくるのである。
 
じゃあ、肖像権以外は、憲法上保障されていないのだから、国は個人に対して自分達の自然権を行使し放題なのか?というとそうではない。『新しい人権』と言う言葉があるならば、古い人権もある。古いというのは、時系列ではそうだというだけで、今でも十分尊重される人権である。
 この章で問題となっている自然権は、何度も言うように、まだ具体的に想定されていなかった人権のことであり、古い人権は、憲法上当然保障されているといえる。だから、肖像権の侵害以外はなんでもやっていい、ということにはならない。まだ私たちがそこまで深く学んでいないだけで、国⇒個人の自然権の行使や、制限については、戦前の反省の下いろいろとルールが設けられている
 このような疑問が持ち上がってきたのは、まだ憲法の人権論を学び始めて間もないからである。

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