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思い出ぽろぽろ アニメ文学読解



あらすじ

タエ子は27歳。東京でOLをしている。10日間の休暇を取り、山形の田舎に行く。そこで、小学校5年生の時の幻影を見る。

東京生まれの東京育ち。祖父母も東京。だから、よくある「田舎」とは無縁な環境で育つ主人公。

友達が夏休みに田舎に帰るのが羨ましかった。大人になり、念願かなって田舎の農作業などを体験し、充実した日々を過ごします。

厳格な父と、父を立てる母親という昔ながらのコテコテの家族。

三人姉妹の末っ子として生まれた主人公。

大人になって、子供のころの思い出を振り返る。
27歳になって突然、小学校5年生の頃の思い出を振り返り始めます。どうしてそのような気持ちになったのか、自分でも不思議に思います。



自分の過去の回想を思い返したり、トシオに話をしたりして、ほつれた糸をほぐし始めます。

話が飛び飛びになっているのは、断続的にタエ子の頭に思い浮かんだ苦い経験がベースだったからだと思います。

熱海へ旅行

夏休みにどこか行きたかった主人公は、母親にねだる。

そこで、おばあちゃんが熱海に行くことを勧める。

二人の姉妹もそれがいいという。

母親は姉妹、主人公、おばあちゃんの4人で行ってきなさいというものの、姉妹はなぜか遠慮する。

なぜ?

「あのとき、むろん姉さんたちは、熱海になんか行かなかった。」

なぜ姉さんたちは熱海に行かなかった?

 単純に興味がなかったからだと思います。おばあちゃんのいうように、熱海には良くいくことがあるらしい。

「大野屋は?大野屋なら、良くいくから、一部屋くらいあけてくれるんじゃないかい?」

二人の姉は、すでに何度か行ったことがあるようだし、彼女たちも夏休みだ。温泉は嫌いじゃないかもしれないが、夏休みを熱海で過ごすのはもういいのだろう。主人公とは大分年が離れている。長女は大学生。二女は高校生。三女は小学5年生だ。

食べ残し事件

読書感想文が学校に評価され、それを嬉しそうに母親に語るタエ子。

しかし、パンにおなます(玉ねぎ、ダイコンやニンジンを酢であえたもの)を挟んで持って帰ったことを叱られる。

作文がうまいよりも、食べ残しをしない子の方がよっぽど偉いと言われる。

タエ子はとても悲しそうな顔になる。

パンごと台所の流しに捨てるお母さん。私は、お母さんが食べればいいのに…と思ってみていたが、きっとお母さんもおなますが嫌いなんだろうと思った。普通に考えて、食べられないことはないはずだからだ。パンにおなますを挟んで食べられなくなるということは断じてない!

親は基本的にその場その場の、子供の悪いところにしか目が行かないことが多い。

母親は学校の別の子のことを見てはいない。目の前のタエ子の悪い所だけを見ている。「氷山の一角」であることが頭から抜け落ちているのだ。

例えば、次の日、脱脂粉乳を飲み干しているタエ子を見て、隣の男の子が、「すっげぇ、良く飲めるなそんな不味いもん。」という。

母親は、タエ子だけが食べ残しをしているかのように言っているが、現実的には給食が嫌いな子は多いみたいだ。また、タエ子は他の子が嫌っている給食を、ちゃんと食べているのである。

学校では、1種類の食べ物ならば食べ残しをしてもいいというルールがあった。おなますが嫌いなタエ子は、それを残す。しかし、残り物を給食バケツの中に入れるのも忍びない。残したというのがみんなにバレるのも嫌だ。しかし、おなますはそのままでは持ち帰るのが難しい。だから、パンに挟んだのだ。こうしておけば、汁がパンの生地に吸われるから、カバンが汚れることもない。もう一つ理由がある。パンとおなます2つ残してしまうと、ルール違反なので、パンに挟むことによって、1つしか残さなかったように見せかけたのである。

母親には、こうしたルールがあること。おなますを給食バケツの中に戻すのは遠慮したかったこと。そして、自分なりに工夫して残り物を持って帰ったのだと言うこと。こうしたことを母親に伝えることができたのであれば、良かったのではないかなと思う。

「どうしてパンに挟んでくるの?」

「だっておなます嫌いなんだもん」

たしかに、これではなかなか伝わらないだろう。質問と答えが噛み合っていないのだ。

学校で起きていることは、家族には一部しかわからない。学校も社会もコミュニケーション不足だ。


昔の人にありがちだが、教育を、「悪い所を直す」という視点でとらえている。「いい所を認める」「見えないところに思いを巡らしてみる」「一方的に事実を決めつけず、対話をする。」という他の選択肢がない。悪い所があれば、いい所を含めて全否定される。これだと、いい所も潰されてしまう。

食べ残しをしない人と、作文がうまい人、どちらが偉いかというのは、結局母親の価値観でしかない。


パイナップル事件

 パイナップルをみんなで食べる。皆あまりおいしくないと思う。二人の姉はタエ子に上げるといって押し付ける。

 タエ子は無理してパイナップルを平らげるのだった。

「フルーツの王様は、バナナだった。」

ところが、世界の常識では、フルーツの王様はドリアンだ。

タエ子が食べてみたいと思ったフルーツを食べてみて、そしてそれはあまりおいしいものではなかった。もしこの家族だったら、どう言うことを考えるだろう。

食べたことのないものを、買うのはもうやめようとか、そう思うかもしれない。井の中の蛙、大海を知らずだ。少しでも知らない世界を覗こうとしたタエ子に、もう少しエールを・・・。


モテるタエ子

野球のエース広田秀二がタエ子のことを好きだった。それがクラスの女子にバレて、揶揄われてしまう。

「雨の日と、曇りの日と晴れと、どれが一番好き?」

「くもり」

「あ、おんなじだ」

タエ子が曇りと言った瞬間、ボールがミットにズバンと入る瞬間がきた。この後、広田君とどうなったのかはわからない。

この恋はこのまま消えてしまったのだろうか。

多分漫画版を見ないと、こうしたミッシングリンクは埋まらないかも。

この事を思い出して、大人のタエ子は一人で笑い出す。

大人になりたいと思わなくても、体は自然と大人になっていく

子供は、やがて成長して大人になる

それは体の成長だけではない。

心も育っていく。

性の話は学生時代の大きなテーマだ。差別と偏見、無知と傲慢に満ち満ちた話題。受け皿が整わないうちから、自分達に一方的にやってくる話題。

大人でも、性についての正しい答えはわかっていない。

子どもたちは、恥ずかしいことではないと言われるのにもかかわらず、恥ずかしいことだと考えてしまう。

どれだけ体の仕組みを学んでも、それが恥ずかしいことか、恥ずかしくないことなのか、すぐに答えを出せる学生はいない。

しかも、皆真面目に取り合わないため、余計に性というものをしっかりと認識しようとは考えなくなり、その話を避け始める。

同級生のリエは、母親から言われた言葉を信じている。

先生の言うこともだ。

「恥ずかしいことじゃないって、うちのママ、言ってたけどなぁ。」

好きな男の子に正直に話をしてしまったのは、この事も手伝っているのだろう。

主人公は周りの環境に流されて生きてきただけだった

「青虫は、さなぎにならなければ、蝶々にはなれない。さなぎになんかちっともなりたいと思ってないのに。」

「あの頃をしきりに思い出すのは、私にさなぎの季節が、再びめぐってきたからなのだろうか。確かに、就職したての数年前とは何かが違っている。仕事でも、遊びでも、私たちは男の子たちより明るく元気がよかった。」

「私たちは飛び立ったつもりになっていた。しかし、今思えば、あれはただ無我夢中で羽を動かしていただけだったのかもしれない。」

 私たちは、なぜか学校に行き、学校を卒業すれば就職をする。それが一般的な道だ。だけど、これは自分自身で選んだ道というよりは、周りがそうさせてきた道に思う。

 学校から卒業し、就職するということが、さなぎから蝶々になるかのように感じていた。

 色々なことをそのままおいてけぼりにしてきて、だけど自分以外の外の世界は勝手に動いて、自分達はいつの間にかそれに気を取られて、そうこうしている間に自分から目が離れて、そして、いつかその事自体も忘れていってしまう。

 そして、それがやがて自分の人生なのだと考える人もいるかもしれない。

 自分の人生を正しいと評価したい。間違いの無い物だったと思いたい。それが普通の感覚かもしれない。しかし、正しい人生なんて絶対にないし、人生は常に他の人間や環境から影響を受けるものだ。つまり、偶然に作用されることが多い。

 それよりは、自分の過去においてけぼりにしていた様々なことを、しっかりと見つめなおすことが確実なのではないだろうか。過去を振り返るなとか、過去に縛られるな、という言葉があるのはよくわかる。しかし、過去は確かに自分を作っている。過去を振り返ることは、自分の成り立ちを理解することだ。

 自分の道を進もうとすると、まず自分をしっかりと立たせなければならない。そのためには、自分を知らないとダメなんだろう。どうして自分は田舎で農作業を手伝いたいと思ったのか。それは、夏休みに皆が田舎へ帰るという話を聞いて、羨ましいと思ったから。

 そこから話は始まっていく。



分数÷分数が意味不明事件

分数を分数でわるってどういうこと?

わからないことがわからない。これは頭のいい証拠だ。頭が良くない人は、わかっていないことも分かった気になるものなのだ。

ところで、ヤエ子姉さんは秀才だった。でも、分数で分数を割るテクニックだけを身に着けていただけだったのである。


私がタエ子のお姉さんだったらこう教える


タエ子「分数を分数で割るって、どういうこと?」

4分の1を3分の2で割るという不思議。

(注:本編では3分の2を4分の1で割ると言う話です。)

まず、話を簡単にしてみます。1を4分の1で割ると考えます。

1の中に4分の1は4つあります。だから答えは4です。

これでわかりにくければ、4ぶんの1は0.25だと考えるといいでしょう。0.25は1の中に4つあるので、4であるということができます。


まず4分の1を1に直すという手もあるでしょう。4分の1に4倍すると1になります。だから4だとしても正解です。

4の中に1は4つあります。だから4割る1は4です。4は1を4倍したもの。だから答えは4であるとも言えます。ということは、0.25を4倍したものが1なので、だから答えは4だということができます。

では、4分の1を3分の2で割ると?

今までの話の流れで考えると、4分の1の中に、3分の2はいくつあるのか?という話になります。あるいは、3分の2に何倍したものが4分の1になるのか、ということです。

3分の2は、0.66(小数点第3位切り捨て)だとします。これに何倍かしたら、4分の1,つまり0.25になるということで、その数を求めればいいということになります。

0.66 × 何か =  0.25ということになる。

方程式を学んだ人はすぐにわかるでしょうが、小学生だとこの考え方はできないでしょう。しかし、一応これも一つの答えです。

じゃあ、0.66は0.25の中にどれくらい入るのか?という話に置き換えてみましょう。と思ったらあれれ?

0.25よりも0.66の方が大きいので、入りきらないぞ?今までとは違いますね。割る数の方が割られる数よりも大きいのです。

これだと今までの考えは通用しません・・・。

じゃあ、これも一旦簡単な話に置き換えて考えてみましょう。

例えば、4分の1を1で割ってみます。


4分の1は0.25だから、1よりも小さい。0.25の中に、1はいくつ入るでしょうか?これは、さっきと同じ話のように、入りきりません。だから、1を縮めてやる必要がある。1を縮める?どれくらい縮めなきゃいけない?

0.25は4分の1なんだから、4分の1に縮める。上の数式の答えは、そのまま4分の1になります。つまり、1は0.25の中に、0.25分しか入りませんよ。ということなのです。

これと同じように、0.66を0.25に縮める必要がある。じゃあ、どれくらい縮めなきゃいけないのでしょうか?0.66の中に、0.25はどれくらいあるのでしょうか?

ここで、0.66の中に0.25がどれくらいあるのか。つまり、0.66分の0.25だと考えてみましょう。


じゃあ、0.05を一つの単位とすると、0.25は0.05が5つあるから5。0.66は0.05が13.2個あるから、13.2


こういうことでしょ?

これは正しいです。今までの話の流れからしても、良くできた回答です。小数点が邪魔ならば、132分の50であり、通分して61分の25ですね!

この問題は少数で計算してはダメ

少数で計算すると、上の答えも正解です。だけど、今は分数同士で計算をしてくださいという問題。それにもかかわらず少数に直して説明したのは、こちらの方がわかりやすいと思ったから。だけど、分数同士で計算した場合は、ちょっと事情が違います。理由は後で説明します。

分数同士では、分母を取ってやるとわかりやすくなります。

分母をとるためには、その分母と同じ数をかけてやればいいのです。しかし、今は3分の2と4分の1、分母が2つあります。こういうときは、それぞれの最小公倍数をかけるとよいです。二つに12をかけてしまえば、どちらの分母も消えてなくなります。


3つの式

だから、答えは8分の3です。

3分の2を4分の1で割る答えは、8分の3です。

どうして最小公倍数12をかけたの?

分母をそろえて綺麗にするためです。この方が説明しやすいからです。例えば、8÷2=4ですよね?じゃあ、8に12をかけると96。8だけにかけちゃうと96÷2になっちゃいますから、2のほうにも12をかけなければいけません。このことは分数でも同じことなのです。そして、どちらの分数も消える最小の数字が12であったということです。

最小公倍数をそれぞれにかけてもどうして同じ結果なの?

例えば、1を0.25(4分の1)で割るのも、4を1で割るのも、同じ結果でした。これは、それぞれに4をかけた状態で割り算したものです。じゃあ、どんどん4をかけていってみましょう。16を4で割るのも4だし、64を16で割るのも4です。このように、割る数と割られる数両方に同じ数をかけても、割り算の結果は同じになるのです。

もう一つ正解がある それは少数で計算した場合

一方、


0.37878787・・・・・・・・・・となります。

どうして2つの答えがあるの?どうして少数と分数で結果が違うの?

分数で計算をすると、8分の3なのに、少数で計算をすると

となってしまいました。

私は今まで、分数を少数に直して説明をすることがありました。

ところが、分数を少数に直すことは、大きな問題があるのです。

例えば、2分の1は0.5です。これはいいとしましょう。

でも、3ぶんの1は、0.3333(無限)なのです。


分数は、少数だと無限でキリがないものを、丸めて表現したものなのです。

だから、分数の計算を少数に置き換えて考えてしまうと、どうしても分数によっては誤差がでてしまいます。


先ほど、この分数を示しました。これも4分の1÷3分の2の正確な計算です。こちらの方が正確といってよいでしょう。少数に引き直して考えたらこうなってしまいます。

でも、分数の計算は少数を丸めた状態で計算するのです。だから、分数の計算で答えを出しなさいと言われると、これは間違いになってしまうのです。(とくに学校はこういうことにうるさいと思います。)下の説明を読んでいただくと、このことがもっと理解できると思います。

分数は見なし計算

1を3で割ると、少数では0.33333333(無限)となる一方、分数では、

とあらわされる。少数は正確で細かい計算ですが、分数は、見なし計算なのです。つまり、おおざっぱな計算ということです。

では、試しにこれを考えてみましょう。

これは、少数で考えると、1の中に0.33333(無限)がいくつ入るか?という話と同じです。答えは3ですね。

でも、0.3333(無限)を1の中に3つ入れてみると、

0.9999(無限)が1の中にすっぽりと入るわけです。しかし一方で、

0.0000....(無限)....1ほどスペースが空くことになる。私もどれくらい続くのかわかりません。

分数は、見なし計算なので、最初からこのスペースについては考えていないのです。だから、分数同士の計算をしろと言われているのに、分数を少数に直して計算するということは、やってはいけません。分数を少数に直すのではなく、分数を、整数に直すとよいでしょう。つまり、わかりやすく説明したり、分数としての正確な計算を行いたいのであれば、分母に最小公倍数をかけて、分母を消すという計算を行うしかなくなるのです。

これで分数を分数で割る話は終えます。

台詞変えちゃった事件

こぶとり爺さんの劇で最後に登場することになったタエ子。

そのリハーサルで、良かれと思って台詞を勝手に変えてしまう。

先生からは、台詞通りにしましょうと言われる。

上に抑え込まれてもめげない修正力・発想の転換力がある

「台詞にないところは、動作で表現すればいいんだってことに気がついたのよね」

普通の子なら、台詞通りやることだけに注力するだろう・・・。

これができるのは、台本だけを見ているわけではないから。自分が立たされた役割と、世界観を掴めているから。本当にカラスが飛んでいる夕暮れ時の情景を思い浮かべて、自分がその場所に立っている。その想像力があったからだと思います。


学校も家族も、会社も国も、ステレオタイプですから、そういうものが、個性を殺していくということへの危機感を感じますし、その抑圧を受けたとしても、自分の発想次第で、どちらもwin-winの関係のまま、物事を良くする方法があるのだということが学び取れます。

出演依頼拒否事件

ひょっこりひょうたん島が放送される夕暮れ時、大学生がタエ子に出演を依頼する。しかし、玄関口では常に母親が出て、応対するのだった。

タエ子の演技力が一目置かれているということについて、父親以外は褒め合うが、みな父親がどういう反応をするか内心ひやひやしている。

父親は芸能界なんて駄目だと一蹴。それで母親は、父親が出演自体も拒否しろと言ったのだと考え、大学生の誘いを断る。父親が決めたことなら、他の人間たちは逆らえない。母親の頭からは、タエ子の才能云々や、タエ子自身の気持ちよりも、そちらが優先される。そして、その事以外はもうどうでもよくなってしまうのだった。

姉さんにどうして芸能界なんて言ったのかと問いただすも、お姉さんはさっさと脱衣所へ入ってしまう。

タエ子が望んでいたのは、日大のお兄さんがタエ子の演技を見て、土曜日に来てほしいと言ってきている、ということだったのに。周りが変に話を膨らましてしまい、話が変な方向へ向かってしまったのだ。

タエ子は大陸から切り離されたひょっこりひょうたん島のようだった。自分の声は全く大陸には届かない。今の沖縄のようだ。登場キャラクターのドン・ガバチョとトラヒゲがタエ子の心情とマッチしている。

そもそも、父親は日大の学生がタエ子に出演を依頼しにきているということを父親に話したのだろうか?父親の顔色を窺ってばかりで、うまく話ができていないように思う。

母親にごねる事件

 1組の青木さんがタエ子の代わりに出演することになった。それを母親に話すタエ子。タエ子は、自分が出演したかったということを母親にほのめかすが、それを伝えることができないのだ。そして、自分が出演依頼を受けたことに対して、母親を自分の会話に引き込もうとする。

 しかし、母親はもうそんなことはどうでもいいという感じで、どちらかというと、青木さんの心情に配慮し、今のようにタエ子が学校で同じことを話しはしまいかと心配するのだった。

男心がわからない?

アベ君のエピソード

あべ君が引っ越すとき、お前とは握手してやんねぇよ。という言葉から、自分を嫌っていたと考えるタエ子。


コミュニケーションを通して生きていくとすれば・・・

思い出ぽろぽろに文学性を見出すとすれば・・・コミュニケーションというものの大切さかもしれない。

舌足らずなことが多かった若い時代。自分の言葉を人に伝えることもできなければ、相手も自分の言葉を聞いてくれることは無かった。

もしその一つ一つが、ちゃんと正確に噛み合っていれば、人生はもっと違うものになっていたかもしれない。

上の大人たちと、下の子供たち。口だけで伝えても、周りにはまったく理解されない。一言言えばそれで相手がわかると思っているだけで、わからないのはどうしてなのかということがわからない。

分数をひっくり返してかければいい、と一言言えばわかると思っている。でも、どうしてなのか、それだけだとわからない。

生理は恥ずかしいことじゃない。でも、どうして恥ずかしいことじゃないの?なぜ男の子たちは、生理になった女の子をからかったりするの?

皆表面に見える結果だけを受け止め合っている。そして、それだけで話を始める。事実はもっと深い見えないところにあるのに。

でも、それはタエ子自身もそうだった。

都会の人は、田舎の景色は人間と動物の共生の歴史が作り上げた結果なのに、最初から当然のようにその場所にあるかのように感じてしまう。

アベ君はタエ子にだけは威張っていた。それでタエ子はアベ君は自分のことを嫌っていたと考える。しかし、トシオはアベ君の心理を代弁するのだった。

どうしてみんなコミュニケーションを取りたがらない?

生理になったリエは、自分の好きな男の子に聞かれたということもあり、先生や親から恥ずかしいことじゃないと言われたことも手伝って、彼女は正直なことを男子に伝えてしまうのだった。

これは、コミュニケーションがしっかりと通った場合の問題点を提起している。コミュニケーションを通すのは大切かもしれないが、話す相手の受け皿が成り立っていないと、何らかの混乱が起きることはしょっちゅうあるのだ。そういうのはたいてい、誤解と偏見、無知と傲慢が作り出すものだ。そういう受け皿を持った人間に話をしても、物事はよくいかないことが多い。コミュニケーションはうまくつながらない。

コミュニケーションをちゃんと通して、相手に自分側の情報を渡すよりは、その場をぼかして、曖昧にして切り上げる方が心理的に楽なのである。何も起きないからだ。

思い出ぽろぽろのエンディングテーマには、先へ進まずに、それをやめてしまう人間の心理が謳われているように思う。

コミュニケーションは通した方がいい?それとも通さないほうがいい?

たいてい、コミュニケーションを通したくないと考えているのは、上の立場の人間たちだ。それは現実の世界でもそうだ。彼らはたいてい保守的である。

父親がタエ子の芸能界への道を一方的に閉ざしたのも、母親や他の娘たちが父親を立てるのも、保守的だからだ。そして、学校が性教育を女子生徒にだけ行うのも、やっぱり保守的だからだと思う。男子と女子で別々に授業を行う事で、コミュニケーションは分断される。

トシオ

トシオは頭がいいし、タエ子とコミュニケーションをとることのできるとてもいい相手です。つまり、受け皿がちゃんと備わった人間です。相手の駄目な所を見てすぐにそれを非難したり、揶揄ったりすることはありません。また、タエ子の前で嘘をつかない真っ正直な人間です。男は女の前で自分を大きく見せたがるものだが・・・。こうするとコミュニケーションが成り立たなくなっていくんですよね。

結婚してうまくいく人たちは、大抵こういう組み合わせなのではないかなと思います。コミュニケーションが成り立たないと、どこかぎすぎすした、どこか緊張感がぬぐえない、そういう環境になっていきます。

だからといって、秘密を何でもかんでも話してしまっていいのだろうか。そこも重要な問題提起です。タエ子とトシオのお母さんとの間に秘密ができたように、それを伝えちゃったら・・・ということはあるものです。

このように、話し手と受け手の言葉のやり取りがしっかりとできると言うこと。そうした人間に育つためには、どうすればいいでしょうか。秘密というのは、常に悪いものなのでしょうか。出すべき時に出し、出さない時には出さない。そうした線引きができるのも、コミュニケーションに必要な素養なのでしょう。

相手に不利益を与えない。相手に迷惑をかけない話ならば、黙っておいてもいいかもしれません。しかし、何が不利益で、何が迷惑なのか・・・。この人間社会の、お互いの、目に見えない人間の素養をしっかりと打ち立てておかないといけませんね。もっといろいろな人の考えを聞いて、もっといろいろなことを勉強して、もっともっと自分の過去を掘り下げて、いろいろと分析して、新しい考え方を発見して・・・わからないからこそ、わかったこと以上のことがわかっていく。そうなりたいものですね。

おばあちゃんの一言

おばあちゃん「うちの子はみんなわがままだよ。」

おばあちゃんは、母方の親か、あるいは父方の親なのか、アニメではわかりませんでしたが、この話だと、孫の親もわがままだ。という意味を持っているのではないか。そう思います。おばあちゃんにとって、タエ子の親も子供ですからね。

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