素人のための法学入門 #22
22回目~ はい~ よかったね~。
ルール信仰の崩壊
先生 「もう一つ例を出してみましょう。皆さんにおなじみの、横断歩道の問題です。横断歩道のない車道をしばしば横切る人がいますよね。」
学生A 「ええ。よくいますね。おばあさんとかが平気で横断してくるので怖い。」
先生 「横断歩道があるところには、たいてい信号機があります。そこは歩行者が歩く場所というマークになっているんですよね。ということは、車はその横断歩道を見た時は、歩行者に注意しなければならないことになります。」
学生A 「そうですね。」
先生 「でもね、仮に横断歩道があって、信号機が青だとします。その二つを完全に信用して道路を横断するとすれば、どうなりますか?」
学生B 「問題はないのではありませんか?」
先生 「たいていの場合は問題ないでしょう。しかし、危険な車は横断歩道だろうと、信号機があろうとなかろうと、そして青信号だろうと、突っ込んでくるときは突っ込んでくるのです。」
学生A 「そうですね。」
先生 「つまり、横断歩道や信号機があるから、車は気をつけてくれるだろうとこちらが信用しきってしまうことは危険なんです。」
学生A 「わかります。」
先生 「ということは、結局のところ、歩行者自身が危険であるかどうかを判断しなければならないということです。」
学生B 「そうですね。ということは、横断歩道や信号機には、思ったほどの意味はないって言うことですか?」
先生 「そう言うことだと私は考えています。信号機は、歩行者が定期的に、確実に横断する時間を確保するために必要である、というくらいの意味ですね。」
学生A「それなら、横断歩道と信号機があるところまでいって、しっかりと自分が注意をして渡るっていうのが一番安全なんじゃないんですか?」
先生 「田舎道で、車だけはたまに通るのに、信号も横断歩道もないところなんてたくさんあります。そこでいちいち横断歩道まで歩いて渡れと言われると、物凄い余計な時間がかかってしまいます。特に、信号機が壊れていたりすると、それが治るまで道路を渡ってはいけないのでしょうか・・・。一方で、交通量が多い場所では信号機がないと、歩行者は渡るタイミングを掴むことができません。私の近所には、信号機はないけど横断歩道だけはある、というタイプの道路があります。そこで私が止まっていても、車は全く停止することなくどんどん過ぎ去っていきます。だから、横断歩道のない場所と大して変わりがないのです。しかも、田舎道の割には6つの方向から車が走ってくる可能性があります。」
学生A 「えっ。そんなに。」
先生 「はい。これに信号が加わると、正常な車は必ず止まってくれるとは思います。横断歩道や信号機は、我々の安全のためにあるのだと私たちの方が勝手に誤解してしまっているのですね。信号機や横断歩道も大切ですが、見通しの悪い道をどうにかするほうがよっぽど大切だと思いますね。注意しても意味が無くなっちゃいますから。」
先生 「私も、全く車が来ていない時に、信号が赤でも渡ってしまうことがあるんですけどね。それも本当に3~4歩歩けば渡れるような道路ですよ。信号機がどうのこうのというよりは、小学生くらいの子供が横断歩道の近くにいるとき、信号を無視しちゃいけない気にさせられるんです。
これはどうしてか考えてみたんですけどね。やっぱり私たちは人の目を気にしているんですよ。小学生はちゃんと交通のマナーを守らなきゃいけないって信じている子が多いです。だから私も、子どもの前で信号無視を堂々とすると、この子たちがまねをして危ない目にあわないかとか、自分の方が大人だからしっかりしたところ見せないとな、という気持ちになっちゃうんです。ところが、大人同士だとあまりこういうことがない。大人同士だと、横断歩道は闇市のように、許し合う状態になっているんですが、子どもとの間だと、まだ心の中で作られるルールを認め合うようなものが形成されていないのだと考えます。特に大人たちや、社会からこうしろと言われているようなことはね。」
学生A 「なるほど。」
先生 「私が小学生のころは歩道橋を渡りましょうといわれましたが、歩道橋は却って危険だという話をもう少し年を取ってから聞きました。なぜならば、不審者が上にいると周りからは見えにくいため、犯罪の温床になるといわれているのです。子供の背丈だと手すりに隠れて見えないのです。また、水泳の時にゴーグルをつけることは許されませんでした。」
学生B 「え。水泳でゴーグルをつけちゃいけなかったんですか?」
先生 「はい。おかげでプールから上がった後は、目が真っ赤になっていました。その後、目を洗う蛇口で目を洗っていました。」
学生A 「それはさすがにかわいそう・・・。」
先生 「でもね、こういうルールを変更するようになるのは、やっぱり私たちの自然権の行使によるものなんですよ。」
学生B 「そうなんですか・・・。」
先生 「はい。どう考えてもゴーグルを付けずに水中で泳ぐのは目の健康に悪いです。塩素系の消毒剤が溶け込んでいるうえ、水泳中は、目に水の抵抗を受け続けるわけですから。おそらく学生の何人かが、保護者に訴えたりしたのかもしれません。しばらくして、ゴーグルはつけてもいいことに変更されました。ひょっとすると、この校則は私が変えたのかもしれないんですよ。」
学生B 「えっ?本当ですか?」
先生 「はい。私がね、プールに入った後、目を洗わなかったことがあるんです。そして、家に帰って、今日はプールに入ったけど目を洗わなかった。と母に告げたら、母は驚いてすぐに目を洗いなさいって言ったんです。で、どうもそのあと学校に電話をしたんですよね。そしてそれが全国の学校に広まった・・・。だから、今ゴーグルをつけて水泳ができるのは私のおかげかもしれません・・・。なぜならそれからほどなくしてゴーグルが認められたからです。
私は水泳をした後に目を洗わない自然権を行使し、そして母は子どもが目を洗わない可能性があることを学校に伝えたのです。確かに、絶対に子供が目を洗うとは限らないですからね。」
学生A 「私もテレビで問題として取り上げられているのをよく見ます。何の意味があるのかわからない校則が多いって。」
先生 「そうですね。ですから、学校によっては学生たちが自分たちの制服を決めたり、学校の規則を見直そうという流れになっているところもあるようです。」
学生A 「え~いいなぁ。私ももっと可愛い制服にしたいんですよね。」
学生B 「僕はもっと髪を染めたり、オシャレな恰好で学校に来たい。」
先生 「粘り強く行動することによって、学校側が折れることがあるかもしれません・・・。スマートフォンを持ってきてはいけないという校則が、変わることもありますからね。」
学生A 「少なくとも、自分達で安全とかを考えて、自分達で作っていく学校にしたいなぁ。先生たちがあれこれ考えて私たちに対して一方的にこうだって決めて来ている気がするんですよね。学校って、全く民主主義的じゃないように思います。」
学校 「どうしてあなたたち生徒が民主主義を制限されているのかというとね、有権者も年齢制限が行われているように、あなたたちはまだまだ未熟だと思われているのですよ。」
学生B 「先生・・・先生は本当に学校側の人なんですか?」
先生 「私は中立的な立場でものを言っているつもりなんですよ。とりあえず、ルールは絶対ではないのです。それに気が付くということがこの話の目的の一つです。ルールを守るなと言っているわけではありませんよ?ここは注意しておいてください。もしルールが変わるべき時に変わることが無くなってしまうと、どんどん国が淀んでしまいます。また、法律が正しいと考え、それで頭が固定してしまうと、よりいいアイデアや斬新な発想というものも生まれなくなってきて、いつまでも問題が解決されなくなってしまうのですね。ですから、様々な問題が生じているのに、法律を作れば~という意見が定番になっています。」
先生「そんなことよりも、人間の創造性をもっと発揮するべきです。柔軟な思考が重要になるし、今までの常識を超えた発想が必要になるのです。皆、驚くほどのアイデアを持っているものなのですよ。自然権は時に悪いもののように思えてきますが、人は自然権が認められているからこそ、新しいことを考え付き、よりいい解決策を提示するための創造力を発揮できるのです。ルールや規制を正しいと思い込みすぎると、こうした可能性を自ら閉ざしてしまう可能性があるのです。また、人間の善性をあきらめずに育てることですね。法律をどうこうするじゃなくって。
公務員の仕事っていうのは国の仕事ですけどね、クリエイティブなものは全くと言っていいほどないんですよ。規則に沿っているか、ルールに従っているかとか、既に決められた何かっていうのに沿っているかどうかをチェックする仕事が非常に多いんですよね。ルールと一緒で、少なくとも人間の行動や発言の後から被さってくるものが多いのです。何かの基準がないと不安で不安で仕方がないという人さえいますからね。」
学生B 「確かに・・・。これが正しいって考えてずーっとそのことで固定している人間って、もうそれ以上進化がない気がする。」
先生 「ええ。この国に変化を与えているのは、国ではないんですよ。国が人間を作るのではなく、やはり人間が自分で自分を育てているのです。様々な制約を乗り越えながらね。人によっては法律が正しいという考えに囚われてしまう人もいます。人は自然と宗教を求めるのです。自分の心のよりどころとなり、自分を導いてくれる絶対者をね。それが法律だという人がいるんです。ただ、その考えに対して私はこう思います。じゃあ、人間はもういなくなってもいいんじゃないかなって。だって、法律が正しいのだから、却って人間がいると、法律を破ってしまうからです。だから、人間なんてそもそもいないほうが世の中正しくなるんじゃないかなって。」
学生A 「そういわれると、法律が正しいって思っている人は困るでしょうね。」
先生 「そうですね。これは仮想の話ですが、仮にそういう人たちだけで国を作らせてみると、やっぱり法律違反をする人が出てくるんですよね。頭の中のシミュレーションでは。守らせる立場と守る立場とでは全く勝手が違うのです。ですからね、裁判官や検察官や警察官だけで国を作ってみたらどうですか?犯罪者0の国ですよって提案してみたいですけど、やっぱり出るんでしょうね。そんな国でも犯罪者って。もし犯罪者がでなかったとしても、国として成り立たないと思いますね。ルールを破る側がいないと彼らは用がありませんから。というか、この3つの職種の人から、今でも犯罪者はたまに出ますからね。
何度もいうように、法律は正しくもくそもありません。秩序を安定させるために取られた一種の手段であり、道具です。ただのとりあえずの線引きにしか過ぎないのです。法律が正しいって思っている人は、ここを大きく誤解しているのではないかと思いますね。」
学生B 「そうかもしれませんね。」
先生 「ルールを守れと言えるのは、実は、ルールを破るような立場に立ったことがないというだけだった・・・というオチもあります。例えば大金持ちは金で手に入る物を盗む必要性には迫られないでしょう。公務員として仕事でパトロールしている警察官は、何も急ぐ必要性に迫られたことがないわけです。ですが、私たちの日ごろの生活では、急がなくちゃいけないと思うことや、うっかりと時間を過ごしてしまうこともあるわけです。そこで慌ててしまって交通ルールに違反してしまうとかね。暇で何もすることのない人はルールを破るきっかけさえ訪れません。暇な人間ほど他人に対して口やかましいといいますし。警察も、何も問題が起きなければただの暇人ですからね。犯罪者が法律を作ると言われているくらいです。見方を変えれば、ルールを守れという人たちが生きていけるのは、ルールに違反する人たちのおかげだと思います。こうなると、駄目な人間は、本当はどっちなんだろう?って思うことさえありますね。
さらに言わせてもらえば、法律は変化するということをお伝えしました。だから、ルールを守れと言う人たちは、結局法律次第で変化する人たちなんですよね。これは見方を変えれば、自分というものが全く成り立っていない。だから、ルール次第で自分もコロコロふらふらと変化してしまうのです。また、自分がルールを守れと言っているわりには、自分がルールを守ることで不利益をこうむりそうだと、やっぱり守らなかったりするんですよね。」
学生A 「そうだとすれば勝手な人たちですね。ところで、話自体はわかるんですが、結局は、何を守ればいいのか、何を守らないでもいいのか、全く分からなくなってしまいました。」
学生B 「うん。何を守って、何を守らなくていいんだろう。そりゃ、殺人をしちゃいけないとか、物を盗んじゃいけないっていうのは簡単にわかるけど。もっと細かい、自分達が知らない所の法律が、自分達と関わるようになってきたらどうしようって思っちゃいます。」
先生 「はい。例えばルールを破ってでも作られた闇市の話ですが、闇市で生きている人たちは、背に腹は代えられない、という思いだったのだろうと思います。ルールを破ってでもそうしたものが作られたのは、闇市に生きる人たちの心の中で、お互いにその存在を許し合っていたからです。ルールは心の中に生きると言いました。大多数の人間が自分達のいいと思うように自然権を行使し始めると、国が作ったルールとは違う場所に別のルールが作られて行くのです。例え国が作ったルールでも、多くの自然人たちにとって受け入れられない法律であれば変えられてしまうことが多いものです。つまり、結局私たちの心がそのルールを受け入れるかどうか、ということによってルールというものが定められていると言えるでしょう。これができるからこそ、私は民主主義なのであると考えます。そして私はもう、これが自然の在り方なんだな、とさえ思っています。ヨーロッパで起こった革命も、こうしたことが根っこにあるからです。」
学生A 「ということは、やっぱり周りに合わせるというのが、私たちのルールの根っこにあるものだっていうことなのでしょうか。」
先生 「それはそうでしょう。ただ、そこまで膨れ上がるのは、多くの人にとって、自然権への抑圧が我慢のならない限度になったり、納得のいかないレベルになったりするとそうなりますね。そして、小さな灯がやがて大きくなり周囲を巻き込んでいく。周りがそうすれば自分もそうする、というのがルールに沿った行為になる。じゃあだれが最初にそうしたのかはわかりませんが、その流れに乗るということは、結局それ以外の人間も同じような気持ちを持っているということです。だから、周りがもう従わなくてもいい、と思ったときは従わなくなるし、従うべきだと判断すれば従う。そうした全体の流れができるものなのです。特に空気を読む国民性だと言われている日本人の場合は、闇市というのは当然出来上がる違法行為であったとみていいでしょう。私個人としては空気を読むのは日本に限った話ではないと思うのですけどね。
例えば、NHKの受信料を支払わなくてもいいという流れが一度できてしまうと、途端に支払うひとがいなくなりましたね。」
学生B 「あれはすごかったですね。」
先生 「放送法第64条第1項において、『NHKの放送を受信できる受信設備を設置した者は、NHKと受信契約を締結しなければならない』と定めてあります。」ですから、法律でいえば、この受信契約に基づき、受信料を支払うというのがルールなのですが・・・。」
学生A 「チーフプロデューサーが受信料を私的に使い込んでいた件が明るみに出て、皆支払わなくなっちゃったんですよね。」
先生 「そうですね。これも、自然権が法律とは無関係のところで行使された例です。この流れに便乗した人は多かったのではないでしょうか。NHKの人たちは一生懸命受信契約を結びなおす仕事に追われました。」
学生B 「本当だ・・・。これも言ってしまえば法律を無視していますね。」
先生 「そうですね。」
学生A 「でも、法律を守るといっておきながら、結局は空気を読むことが優先されるっていうのは、よくわからない気もします・・・。」
先生 「そうですね。日本人にとって空気を読むことは自然権の行使とルールの間にある緩衝材のようなものなのですね。私たちも、ルールルールというと、日本人の間では嫌がられることもあります。」
学生B 「それでも空気を読むべきではない時ってあると思います。」
先生 「そうですね。空気を読んでどこまでも歯止めが利かなくなる、ということは、例えば日清戦争や日露戦争の勝利によって、好戦的な雰囲気が高まった時にも起きたことです。そういうときに、空気を読まないで、自分達の正しいと思った方を取るということも、捨てたものではないのです。」
学生A 「確かに。そうですね。でも、法律通りに行けばNHKの受信料を払わなければならないんですよね。私、そういう法律があること自体知らなかったです。」
先生「そう。やっぱり法律だからといって、知らない人は多いんですよ。でも本当はこれはおかしい話なのです。だって、法律って本当は私たちみんなが知らなくちゃいけないことでしょう?だから、法律を学ぶことは私たちにとって当然のことにしなくてはならず、敷居を高くするのは却っておかしいと思うんです。で、学びたい人は自由に学べばいいじゃないかっていう感じなんですが、個人が自分で法律を学ぶのは大変なんですよ。本当に何らかの手続きを取ろうとすると、そうした知識の欠如から、必ず弁護士とかを通さないといけなくなりますからね。自分のことは本当であれば弁護士などを通さなくてもいいんです。彼らはあくまでも代理人ですからね。ですが、知識がないのでそれもできない。だから、事実上は強制的に代理人を立てなければならない状態になっているのです。
つまり、法律の専門家といった存在に、知識が自然と独占されているという状態です。法律の知識は自分たちの当然の素養となるべきなのにね。国民に司法制度を身近に感じてもらおうと、裁判員制度というのはできましたが、一生に一度参加するかしないかなので、実効性はあまりないでしょう。こうなると結局、自分達が作った法律だから私たちが従っているのではなくて、『その人の言うことだから正しいのだろう。』ということになっていく場合も多いんですよ。というか、私たち一般の人間が物事の是非を判断するのって、たいていこういうパターンが多いのです。で、どんどんどんどん、主導権が握られて行くことになるんですよね。
事実を信じるのではなく、人の言うことを信じるんですね。で、その人の肩書や地位なんて言うのをフィルターとしてみるわけです。だからプーチン大統領とかあんなめちゃくちゃやってても、「大統領の言うことだから」みたいな考えの人って、不思議なことにいなくならないんですね。だから、「幹事長のいうことだから」ということで、調査のところを点検というべきだと考えてしまった人もいるんじゃないかなって思います。内心は皆さんの心が、本当のところどうなのかはしりませんよ?」
学生B 「僕たちも、先生の話だから正しいって思わないようにしないといけませんね。」
先生 「その通り。学生Bさんは大変いいことをいいました!「誰かがそういったからだ」ではなくて、自分で調べて学んでいかないといけませんね。理論もちゃんと通っているのか自分で判断することです。だから、若いうちにいろいろなことを学んで置いてほしいのですが・・・。それとね、空気を読むっていう言葉の使い方なんですが、私はちょっと腑に落ちないところが多いんですよね。だからこれも考えてみたいと思っています。物事の本音がどこにあるのかを察知することだと言われていますけどね。」
学生A 「(自分のことを正しいと思わなくていいっていうなんて、変わってるわ・・・。)」
先生 「とにかく、自分で調べ、自分の頭で考える。このスタンスを身に着ければ、私たちはみんな学問の徒であり、これができるのならば、学校の勉強に関する部分は卒業できたといってもいいでしょう。『学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし。』学校を出てからも学ぶことは山ほどあります。にもかかわらず、学校を出たとたん、考えることも学ぶこともやめてしまっては、意味がありませんからね。大切なのは、学歴ではありません。学び続けること。如何に学んだか、ということです。そして、人の意見に耳を傾けたり、相手をよく理解するという姿勢も必要ですよ。学校でカバーできない範囲のことで、大切なことなんて山ほどあるのです。そちらの方がどちらかと言えば大きいのです。自分は自分で私の話が間違いのないものだと思っているからこそ、今こうしてお話をさせていただいているわけですが、それでもこの話が独断にしかすぎない可能性もあるわけですね。正しいとあなたたちが鵜呑みにし、自分達で考えなくなるのは非常に危険なのです。」
学生B 「つまり、法律を盲目的に守るという態度や、専門家の意見をただやみくもに信じるのではなく、自分達で学び、考えていくことが大切だということですね。NHKの受信料を支払わないという決断をしたのも、実際はルールを破ったとかではなく、自分達の主体性の表れであり、それはむしろ良い事なのではないかということですね。」
先生 「ええ。繰り返すようですが、私は『空気を読む』ということは大切な性質だと思っています。ですが、これが悪い方向に向かうこともあります。日清戦争や日露戦争などで、日本が戦争に勝利することで、空気は好戦的な方向に膨らんでいきましたからね。」
学生A 「それで日本は歯止めが利かなくなっちゃったんですね。」
先生 「はい。『空気を読む』というのは、そういう意味で危険なものであることもしっかりと認識しておいた方がよいでしょうね。こうしたとき、逆にルールというのが役に立つことがあるのです。」
学生B 「といいますと?」
先生 「例えば学生同士でふざけ合っていると、一方の学生が他方の学生を追いかけまわすということがありますね。その時、廊下を走ってしまうこともよくあります。それは学校側からすると、やめてもらいたい行為であることは間違いありません。怪我をされてしまうと困るからです。」
学生B 「でも、それはそいつらのせいなんじゃないですか?」
先生 「しかし、お互いが盛り上がっているところで、どちらかが突然その流れを止めようとしたら、白けてしまうでしょう?だから、行きつくところまで行く、というのが普通行われていることですね。ですが、もしそれで大きな怪我をしてしまったりすると、それはとんでもないことになります。だからね、空気を読まずに隣から横やりを入れてくれるということも、その二人の仲を保ったまま、危険な行為を止めさせるという意味で、役に立つこともあるんですよ。『空気を読む』というのは、自然権が行使されている流れに周りのみんなもそのまま何も考えずに乗っかっていけ、といった意味合いだと言えます。自然権を軸にして考えるのならばね。」
学生B 「確かに。とすると、自然権が無制限に行使されて止まることがなくなっている状況と似ていますね。」
先生 「そうですね。自然権の束が国を作るのです。つまり、この時国民は、国がどうにかしてくれるさ、みたいな感覚なんですよね。ところが、自分達の気分が非常に高揚してきて、自分達が動いてみたいって思うこともあるんですよ。するとね、自分達の自然権を直接行使しようっていう気持ちになっていくわけです。そうすると、自分達自身に国が回帰していくかのようになるわけです。それが国民全体に広がり始めると、自然権の行使に勢いを与え、それ自体が国となって、今まで信託を預けていた国の制御を超えてやがて暴走を始めることがあるのです。つまり、信託先が自分達自身になるんですよ。唯一違うのは、国民個々人に単純に収まるのではなく、『自分達国』みたいな横につながりを持った、一つにみんなが溶け込んだような国になるんです。だからこそ、ルールがそこにストップをかけてくれることがある、ということは一つ重要なポイントなのではないかと思いますね。つまり、自然権を国へ信託するのではなく、一時的に国民自身が、国民自身へ信託してしまうことがあるのだ、ということです。こういうことは大なり小なり、日頃から起きていることなのですよ。自分達自身が自分たち自身で国となり、今ある国とは独立分離して、巨大なエネルギーとなって動き出すイメージですね。
またまたややこしいことを言うようですが、国はこういうことになってほしくないので、集団化というのは結構警戒していると思います。昔の日米安保闘争のときとかは、集会の自由とか、デモ行進の自由とかがかなりホットな話題になりましたから。」
先生 「例えば、学校の中で仲のいい生徒が二人で廊下を走っているところにも、廊下を走るという小さな自然権の行使と、小さな国の流れが生まれているのだと思います。国は自然権の集まりです。
その自然権の管理を、国のような少数の人間の管理で行うのではなく、自分達で管理しようという空気の方に熱量を与えていくと、そこに一時的な新しい国が出来上がるのです。名もなき国ですね。
すると、今まで抑え込んでいた国ではとてもじゃないが止めることのできない流れを生み出すのです。
『蒼天航路』という人気の漫画があります。長坂(ちょうはん)の戦いで、曹操軍から逃れ、荊州の民は劉備について行くことを決断します。曹操軍の将軍夏侯惇はその群れを見て、<あれが既に一つの天下なのではないか>、と言うわけですね。つまり、民がみんな劉備玄徳に信託を寄せている。例え周りから見ると、何の生産性もないただの長蛇の列であったとしても、あれこそが国なのだろうという意味です。夏侯惇は、信託が国を作るという関係をよくわかっていたわけですね。あくまでもこの漫画の中の夏侯惇ですけどね。」
学生A 「なるほど・・・。ルールを優先すべきか、空気を優先すべきか・・・。難しいですが、そういう関係もあるんですね。」
先生 「そうですね。で、肝心の結論なのですが、ルールも時と場合によって、守らなくてもいい。そういう結論になるのです。」
学生A 「それは、答えになっていない気もしますね。」
先生 「ですね。おおよその目安でいえば、NHKが我々の受信料について、契約に基づいた利用をしていなかったように、私たちの信託に背いていると見なした時には、従わなくてもいいということになるでしょう。ですから、最近は年金を払わない人も出てきているとか。先ほど話題になった、[ルールを守れ]と言っている方や、ルール信仰の強い人も、NHKの受信料を払わなかったりしてるんじゃないかな。ちゃっかり。とか思っているんですけどね。正直、こういう人は自分を守りたいだけだったり、上に立ちたいだけだったりすることが多いって感じているんで、ルールを一番悪用している人に見えています。」
学生B 「ありそうですね。なるほど・・・。そういうことか。フランスとかのように、国に積極的なデモ行為を行うことは日本人にはあまり見られませんが、消極的な反抗はよく見られますね。」
先生 「ルールというものがいかに曖昧で朧気なものかわかっていただけたでしょうか。しかしそういうものこそ、人の信仰を得てしまうものなのですね。」
この章のまとめ
① 横断歩道や信号機などのように、ルール通りに渡らなければならないけれども、信用しすぎるのも危ない。結局自分がきをつけなければならない。とすれば、結局あってもなくてもあまり変わりはない。私たちのためにあるというよりは、事故が起きたのはどちらの責任か、と他人が判断するときに役に立つから、とか、小さな子供にとってもわかりやすい、あるいは、交通整理が主な目的。
② ゴーグル着用が学校で認められるようになったのは先生のおかげかもしれない。
③ ルールを守らせる側だけで国を作ると結局は崩壊する。したがって、守らせる側は守る側に常に依存している状態である。ルールはやがて変化するものだ。だから、自分=ルールとなっている存在は、ルール次第で自分が変化していく存在である。つまり、自分がない。ひどいことを言うと、ルールだけあればよく、その人はいらないかもしれない。
④ 空気を読むことで、国に預けた自然権を自分達が一方的に取り戻し、ルールや国を完全に無視し、自分達自身に信託を帰属させることがある。これが集団と言われるものである。これはいわば、新しく生まれた名もなき国である。今の時代も、現在進行形で、少人数の集団では生じたり、消滅したりを繰り返している。国にとっては、個人や集団はある意味独立国なので、警戒すべき対象となる。例えば、オウム真理教等の宗教団体も、これはこれで一つの国であったと言える。
⑤ ルールを守ることで空気を抑え、逆に空気をルールに優先させるという関係が社会にはみられる。NHKの受信料は、ルールに反して払われなくなった。
⑥自然権の原則からすると、ルールを守らなくてもいいのは、信託を預けた国が、適切な管理をしていないと判断したときである。NHKの受信料を払った国民が、その信託を裏切られたのだから、支払わなくなったことは、むしろ正当なる行為というべきである。