蒼天航路 勝手に解説⑨ 儒学をダメにしたのは儒学者たち 何晏の考え

久しぶりにこのコーナーです。

蒼天航路では、何晏という人が出てきます。何だか退廃的なキャラクターに見えますね。ドラッグを自分で作って広めているっていうから、すごいですね。

しかし、論語を解読するなど、文才は非常に高く評価されているようです。

論語と言えば、儒教の祖 孔子の教えが書かれているもので、まさに儒教の経典ですね。

曹操がいる時代には、物凄く多くの儒学者たちがいました。何晏は論語を読みながら、儒学者たちが列をなして歩いているのを見てこういいます。

『儒教をダメにしたのはあいつらだよね。』

これはどういうことでしょうか。今日はそのことについて考えてみます。

1.学者のパラドックス

学者というのは、私たちよりも専門的な物事についての知識が多いですね。イメージに囚われやすい人からすれば、学者というのはなんでも知っている人、というイメージを持つ人も多いでしょう。

ところが、儒学者たちを見ていると、おかしいな?と思うことに気が付かないでしょうか。

何がおかしいかというと、儒教というのは、孔子の教えなのです。ということは、『孔子一人がいればOK』だった学問です。

しかし、孔子の死後、幾万を超える儒学者たちが登場しました。
これは何を意味するのかおわかりでしょうか?

それは・・・

彼らは儒教の真相なんて何もわかっていないっていうことです。

どういうことかというと、学者の仕事は、真実を発見することにある、と私は考えています。
仮に、本当に仮にですけれども、この世界のありとあらゆる謎が解け、全ての真相が明らかになれば、学者はもう必要ありません。

だって、真相は既に明らかにされているからです。それ以上何を調べる必要がありますか。

そして、儒教というのは、孔子の教えでもあるわけですから、孔子一人いれば完結していたと考えることができます。

一方で、それを研究するために多くの儒学者がいるということは、これは結局、孔子の考えの真理に全く到達していないということです。

これだ!という真理に到達すれば、学者はもう必要ないです。

つまり、彼らは儒学について何もわかっていないのです。到達していなければ0.到達すれば1の、オールオアナッシングの世界です。極端な話、孔子と全く同じ考えにならなければ、孔子その人にならなければ、儒学を大成したとは言えないでしょう。

では、それにもかかわらず、どうして彼らは儒学者を名乗っているのか・・・。

それは、保身面子です。

そのため、私たちのイメージからすれば、儒学者というのは賢そうだな・・・とか、学者って偉いんだろうな・・・ってイメージが先行して、なかなか気が付けないのですが、少なくとも蒼天航路の中に出てくる儒学者の大半は、単なる保身目的のおじさんたちです。

蒼天航路では、何晏がぼやいたように、儒学者を全く高く評価していないのもこのためです。

董卓などをはじめ、曹操や他の登場人物たちも、儒学者を高く評価しないのも、やっぱりこのためなのです。

そして、儒教というのは今も研究され続けています。でも、私が今言ったように、研究されているということは、真理に到達していないことの裏返しです。

儒学者たちは、果たして、この真理を目指して本気で考えていたかというと、非常に怪しいです。逆に、真理が出てきても、自分の保身や面子のために、その真理を捻じ曲げてきたのではないか・・・と、そう思うからです。

2.3人そろえば文殊の知恵は嘘・・・?!

国会議員の数が多いと言われて久しいですね。数が多いとか、少ないとか、そういうことよりも、誰もが納得できるような一つの真理に到達しようとしていない、ということに、私は最も大きな問題があると考えます。

確かに、彼らの仕事は学者と違い、真理発見ではありません。でも、真理なんてもはやどうでもいいという状態になっているのは、とても問題だと思います。

裏金問題も、本当のところをササっと言ってしまえば、ほんの数時間あれば終わった問題でしょう。しかし、そのことについて何か月も議論し、多くの無駄な時間を使ってしまっています。

これでお金を貰えるんだから、大変羨ましい限りですね。

テレビのコメントでは、記者たちが、「~についてはどうされますか?」と尋ねても、「国会で議論します。」と言って、確答は避けますね。これ、ああ、さぞ議論が尽くされるんだろうなぁ、と感じる人たちが多いのではないかと思います。

大体、国会で討論するなんていいますが、やりたいことは既に決まっていますから、討論はほとんど見せかけだなぁと私は考えています。

真実や事実云々よりも、自分達がこうしたいな~というのがまずあって、ただそれを目指して意見を交わしているのが普通だからです。まず、欲ありきですからね。

議論というのは、自分達のしたいことを達成するための手段になってしまっています。そして、議論の場は、議論が目的になってしまっているのです。

で、結局私は何が言いたいのかというと、一つの明確な答えを出すのに、数は関係がないということです。数が多ければ答えにたどり着く可能性が高まる・・・というのは、わかりやすいですが、やっぱりその構成員の質が良くなければ意味がありません。

仏教は釈迦が、キリスト教はキリストが、相対性理論はアインシュタインが、ガウスとか、そうした(もちろん、彼らには多くの人が人生で関わってきたのだろうし、決して一人では無かったことは確かですが)、彼らにあったマインドは、おそらく、真理とか、世のため人のために行動するとか、一本の明確なラインを通ろうとしていたのではないか・・・。真理真相に到達したいという思いがあったのではないか。そう思うのです。そういう意味では、1人で到達したといってもいいのではないでしょうか。

そして、数は関係なく、そのマインドを持っていれば、真理に到達することができる・・・。素晴らしい考えに到達することができる。

保身や面子を考えている人たちがどれだけ集まっても、妨げにしかならない、と言い換えることもできます。よく言えば、彼らは反面教師になってくれる、ということでしょうか。(しかし、大したことの無い人たちなんだな・・・という正体になかなか気づかせないようなところは、非常にやっかいです。)

そういう意味で、儒学はもう、真理に到達する、ということは、恐らくない。ずっと、儒学を研究する人たちにとって、彼らにとって、これからも、生きていくための手段として活躍することになるでしょう。ああ孔子の思いはいずこへ・・・無念。彼らの考え自体が大切なのではなく、その考えを研究すると言えば、自分達の利益になるのです。儒学が素晴らしいという時代は孔子が死んだときに、既に終わっていた。後は、儒学から生み出されるうま味を味わう人たちが、そこにたくさん群がっているだけなのではないでしょうか。

それは、仏教やキリスト教についても同じことが言えると、私は思っていますし、他の学問でもそうだと考えています。真理に到達したいと思うマインドを持たない人間が、そういう学問に関わると、結局、保身や面子、利益を稼ぐための手段として、学問が汚されていってしまう。そのように思います。






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