素人のための法学入門 #19

19~


刑罰とリンチ

 
先生 「人間っていうのは怖いものでね、自分の気に入らないと思う人に対しては、悪い噂を流すこともあるんです。それが集団的な嫌がらせとか、いじめに発展することもあります。こうしたことが最も恐ろしい事実上の刑罰なんです。
 『口を尊ぶ』というのが噂です。つまり口を重んずる。言うことをそのまま真に受けるということですね。人は自己保存を第一にして動きますから、まずその噂を聞いた人たちは、噂を本当のことだと考えて行動します。するとはずれがありませんからね。嘘であればそれはそれでOK。本当のことであれば警戒していてよかった、ということです。」
 
学生B 「僕もすぐ噂を信じちゃいます。」
 
先生 「また、死刑が見せしめとして私たちの意思をコントロールしてくるように、噂とか、私刑というのも、自分達が動いてほしくないように人を動かすために用いられることもあります。噂の原因はそれであることも多いのです。以前問題になった、世論操作というのも、噂の一つですね。」

先生 「噂というのはね、何気ない日常会話からも生まれるんですよ。噂は特高警察と一緒なんです。物事の真偽はともかく、そうなんじゃないかっていう徴候を見せれば流されてしまうのですから。それは、特高警察の前でちょっと怪しいそぶりを見せればつかまるのと同じことです。周りの目を意識する人たちは、刑罰なんかよりずっと周囲の目を恐れているように思いますね。そういう人たちにとって、周囲の目はもはやランダム監視カメラです。やっかいなことに、ゴシップ(誰かの良くない噂)がものすごい好きな人たちもいますからね。だからね、『~という噂でもたったらどうするんだ!』っていうセリフ。頻繁に私はドラマでも耳にしたことがあります。まるで、周囲の人たちが警察官であるかのように気にしますよね。」
 
学生A 「怖いですね・・・。」
 
先生 「刑罰というものは、結局は人間が作り出したものなんです。つまり、刑罰の由来は個人にあるのです。」
 
学生A 「え?刑罰って国とかがするんじゃないんですか?」 

先生「例えば、ロシアは自分達にとって邪魔だと思う人間がいると暗殺をしますよね。これと同じように、個人が気に入らないと思った別の個人に刑罰を科すことは当然ありうるのです。これをリンチ(私刑)といいます。リンチこそが刑罰の原形といっていいのですよ。自然権国家であるロシアで行われている暗殺は、法律の手続きに基づいた刑罰ではないので、リンチなのです。日本だって、リンチは良く行われています。表立って殴り合いをすると人から悪く思われてしまいます。だから、陰湿な攻撃を思いつくものなのですが、嫉妬による攻撃的言動とか八つ当たりとか、これらももちろんリンチです。ネット上の悪質な書き込みもリンチです。裁判官は刑法があるおかげで、法律に根拠のないリンチを宣告することはできませんが、私人の場合は、却ってこれが歯止めなく行われてしまうのです。
 私たちが人と付き合うということは、無数の自然権の行使者と付き合っているわけです。そのため、私たちは他人の中にあるルールというものに怯えて生きることがあります。もしそれに歯向かってしまうと、リンチを食らってしまうからです。前のお話で、ついカッとなってやってしまった、という人がいるように、噂もつい流してしまった、という感じでやってしまいますからね。」
 

先生 「一方、リンチができるということは、リンチをし返すこともあるわけです。すると、お互いがリンチをしあう状態になります。これが喧嘩と言われます。噂を流されたら、逆に噂を流し返したりしますよね。逆に、仕返しというものを全く行わないで、相手に言われっぱなしで動く人もいます。この場合は、一方的ですから、いじめとか虐待と言われるわけですね。ネット環境だと、自分が特定されることがなかなかありません。だから、相手から反撃を食らわずに噂を流すことができます。噂をつい流しちゃう人、噂好きにはたまらない環境だと思いますよ。」
 
学生A 「っていうことは、このリンチがいじめの正体なんでしょうか。」
 
先生 「そうですね。私刑という意味ではそうです。ただし、いじめそれ自体を解読するにはもっと情報が必要になります。もっといろいろな角度からの情報がね。自然権だけでは語れません。
 ですが、こうなると次第にわかってくると思います。人の胸三寸に法が存在しているということが。」
 

学生B 「ということは、個人間でも、ある個人の中のルールに背くような行動をとると、死刑ではないにしてもいろいろと不快な目にあわされるということですね。」
 
先生 「そういうことです。個人は国です。国とは複数の自然権の集まりだと言いました。では、世界にもし一人しか人間が存在しなければどうでしょうか?その場合でも、国はその人間のいる場所にあるのです。例えば私であれば私のところにあります。私の立っているところが私の領土です。そして私自身が最低限の住民です。
 しかしながら、現実には私以外にたくさんの人が居ます。そして、私は幼いときは親に、そして次は学校や会社に。私、そして親や学校、会社は国に、その国はまた別の国に支配されていると言っていいでしょう。そう考えれば、私たちは生まれながらにして自分の自然権を自分以外の自然権に支配された状態で生きてきたのだ、そして今もそうなっているのだと考えることができます。
 人が自分の仲間を増やしたり、自分が命令できる存在を求めるのは、自分が自分の国を作ろうとする気持ちの原形であるのだと思います。その国は、私たちの国のような上下関係ばかりではなく、横のつながりであるかもしれません。こうなると、横に信託し合うつながりの国というのもありうるのでしょう。いずれにしろ、そうして国は自然と作られて行くものなのです。国はなぜ作られるのか・・・という理由もここにあるでしょう。」

先生 「家庭とは、最初に出会う支配国です。親は暴君かもしれませんし、教祖のように洗脳してくるかもしれません。あるいはすごい人格者かもしれません。ですが、やっぱり親も自然権の行使者なのです。問題となっている家庭内での虐待の正体は、自然権の行使主体である大人たちが、自分の子供なり、シングルマザーの子供に対して、激しいリンチをすることです。自分の胸三寸のルールに子供が背いた場合、とどまることなく彼らは弱い存在に対してリンチを行う。誰も止めてくれる人間がいない上、彼らはその国から簡単に出ることができないので、彼らは『げられることを機』するほかありません。国が国であるということは、結局個人が国であることを基本とするものなのです。」
 
学生A 「確かに・・・。個人も国も似ていますね。というか全く同じだ。国も結局は少数の個人が動かしていることを考えれば、国の行為も、結局は個人の胸三寸で決まるっていうことなんですね。」
 

先生 「そうですね。人づきあいが煩わしいと感じる人は、こういうところに敏感な人も多いのだと思います。たいてい、個人の自然権を多数の自然権の行使者の意図に反して実行しようとすることを、わがままと言います。子どもにわがままなのが多いのはこのためですね。で、一人で居たがる人、他人との付き合いが悪い人もわがままに見えてしまうことがあるのはこのためですね。子どもは単なる欲望の充足を訴えて来ることが多いのですが、大人のわがままは、理屈が通っている場合も多いです。そういう意味で、私は個人的にわがままって大切だと思うんですけど。全員が全員の流れに沿って動いていたら、違いなんて全くなくなってしまう。これの何が悪いのかというと、多数者の方が間違えることも多いからです。多数者の間違った流れはわがままだとは言われないんですよね。子どもが反抗期を迎えるのは、親の支配から脱却するためだと言われていますね。この反抗期というのも、やっぱりわがままなればこそなんですよね。」
 
学生A 「・・・なるほど・・・。そういうことですね。」

先生 「最近は、『毒親』という言葉もあるように、親だからといって必ずしも子どもにとっていい存在とは限らないぞ、ということが社会的にも認知されるようになってきました。昔は親であれば当然のように親を立てていましたが・・・。今でもそうでしょう。親は家族からの信託を受けた自然権国家のようなものですから。つまり、国と同じように暴走をすることがあったり、どこか精神が病んでいると変な命令が伝わったりするものなのです。
 逆に他の家族からすると、家族同士とはできれば仲のいい方向で進みたいものです。一方で、仲が悪くなるとその国の中にいる人たちも同じように思われるのは、国同士の問題と似ています。
 また、自然権国家の人間も他国の敵対的な主要人物と出会うときは態度が変わるように、家庭の場合も外に対しては態度が変わることも珍しくはありません。」
 
学生B 「自然権を本当に正しく行使できる人がいい人なんですね。」
 

先生 「『本当に正しい』というのも、結局は線引きなのです。それに、こうした家庭内で発生する問題は、いじめと同じで自然権についての知識を深めただけで解決する問題ではありません。理解の一助になることは確かですが、もっといろいろな問題が絡み合っているのですよ。そして、自分の精神の命令にあらがうというのは、とても難しいのです。それができない人の方が圧倒的に多いですからね。パワーハラスメントやモラルハラスメントなんて言うのも、根っこをたどれば、自分を制御できない人間、あるいは、線引きがかなり一方的な人が大勢認知されてきたことによります。」
 
学生B 「それって、元々行われていたことが、最近になってハラスメントだと認定されるようになったって聞きますけど。」
 

先生 「パワハラ側の胸三寸のルールにある線引きと、そのパワハラを受ける人間の行動が、全然噛み合っていないということでしょうね。それに、行動を求める方は、行動を求められる方よりもずっと楽であることは間違いありません。そして、胸三寸のルールは、ルールに従えと要求される側の目には見えないのですよ。刑法であれば明文化されていますが、(それでもわかりにくいですが)上司とか、周りの友人とかは、自分達の胸三寸のルールをわざわざ紙に書き出してはくれません。彼ら自身、自分がいら立つ感情を言葉にして書き出すのは難しいこともあるくらいですからね。そういう人の場合、書いても結局はすぐに気分で変更されることも多いです。そして、そのルールに抵触してしまうことがあるのです。いわば、地雷を踏んだようなものですね。だからこそ彼らは、胸三寸の世界で、刑罰権を何度も対象に対して行使しまくるということになるのです。相手からすると何が悪いのかわからない。一方刑罰を下している方は、確実に自分の胸三寸のルールには違反してくる相手を見ている。こういう状況は、人と人が接触すれば出てくるものなのです。しかも、その胸三寸のルールは、道徳とか法律とかとも違い、その人個人のルールですからね。」
 

先生 「また、リンチは積極的なリンチと消極的なリンチがあります。たいていは消極的なリンチが行われます。これはコミュニケーションの断絶を引き起こすことが多いです。だから、どうしてそんなことをするのかというそもそもの理由が、相手に全く伝わらないことが多いのです。
 虐待の対象が子どもたちである場合、子どもたちは怯えて、そのハラスメントや虐待者の目を意識するばかりなのです。リンチを受けている側からすれば、ちゃんとあなたのルールを全て外部に書き出してくださいとお願いしたいくらいでしょうね。気に食わないと思われることが、嫉妬心だったり、恥ずかしいと感じる理由だったり、自分勝手な理由であれば、ハッキリと口に出すことはありませんから、永久にこの関係は消えなくなるのです。多くの人はそういう人と出会ったら、すぐさまその世界から抜け出すようにするのでしょうけれども。
 また、積極的なリンチでも、自分が悪いとは思われたくないので、相手が悪いことに乗じて行われることがよくあります。このパターンはリンチを加える側が『正義の行使』のような感覚になっていることも多いので、余計に歯止めがききにくくなります。」
 

学生B 「こっわ。人の胸三寸のルールに違反する場合に刑罰が来るというのはよくわかります。でも、ただのイライラをぶつける人もいるんじゃないでしょうか?」
 
先生 「そうですね。どっかの誰かによってイライラした気分が溜まり、機嫌が悪くなっただけ、ということはありますね。しかしこれはもう少し別の話になります。刑法や刑事訴訟法などは、こうした身勝手なすれ違いが起きないようにしているのですが、個人国だと手続きが滅茶苦茶なのですよ。」
 
学生A 「じゃあ、国が虐待なんて始めることもあるんですか?」
 
先生 「当然あり得ますよ。いろいろなタイプの虐待者がいますが、北朝鮮も虐待国です。ミャンマーの軍部が国民を殺していくように、自分の目的を達成するまでは攻撃をやめないタイプとか。ルールというのは正しさも間違いもなく、線引きを強制するものですからね。特に中国やロシアなんて年がら年中線引きに夢中っていうイメージですね。自分達の支配する場所の線を引いて、それを認めさせるのに夢中になっています。自然権国家は、セルフルール国家といってもいいですね。」

先生 「で、家庭内の虐待に歯止めがきかない大きな理由なのですけどね。さっきも言いましたが、胸三寸のルールに沿わない動きをすると、虐待を始めるものなんです。で、ルールに沿わない動きをするたびに、その人間のルールに抵触します。そのたびに刑罰が発動するんですよ。だからね、何度も何度も刑罰刑罰なんです。
 もちろん、ルールを破らせないように相手に行動を強いてくることもありますよ。それもまた自由刑という刑罰なんです。
 国レベルの刑罰だと、被告人の人権などを考え、一回の犯罪には一つの刑罰なんですよ。複数の犯罪を行っても、併合罪とかで、一つにまとめられたりするんです。後は、一回の刑の量が増えたりね。そういうことはありますが、刑が行使されるのは1度なんですよ。
 虐待のように、何度も何度も刑罰が行使されるということはないです。
 そして、当の虐待者は全く悪いことをしたと思っていないんですね。だって、彼らにとっては、ルールを破った相手が悪いのですから。自分のルールを決めて、それを破ったらその人が悪いと言って、そして刑罰を下すものなのです。」

先生 「これも国と一緒ですね。国の刑罰は、犯罪行為なのです。死刑は殺人だし、禁固は監禁だし、移送は誘拐だし。税金は窃盗と詐欺だし。そして年金も詐欺です。あ、税金と年金は刑罰ではないですかね。でも似たようなものか。しかし、これを行っても国は当然だとしている。一緒ですよね。自分達が正しいと思っているんです。自分達が正しければ、相手には基本的に同じような犯罪行為を行っても胸が痛まないのですよ。彼らには法律に従っているから自分たちの行為はいいことなんだ、という意識がありますからね。
 相手が悪いと思い、自分が正しいと思えば、刑罰に服するのは当然であると思う。そして自分を悪く思わないので、虐待にストップがかからない。これがよくあるパターンの1つなのです。そして、自分のルールに従わせようとして、線引きを守るよう要求する。そしてその線引きを相手がまた破っちゃう。刑罰執行。そしてまた線引き強要。また破っちゃう。刑罰執行。そして死へと至る。家庭とは国の縮図とはよく言ったものですね。」
 
学生A 「それって・・・一種の精神病じゃないんですか?」
 
先生 「私もそう思います。実はね、国って多かれ少なかれ精神病んでるんじゃないかなって、個人的には思ってるんですよ。」
 
学生B 「・・・。」
 
先生 「裁判官に刑法で歯止めをかけなければならないという理由がよくおわかりでしょう?裁判官もこうした人間の一人なのですから。
 刑法も、殺人罪の下限は5年以上ですが、もし刑法がなければ、裁判官は自分の気分次第で死刑にしてしまうこともできるわけですね。そりゃ、むかっ腹が立つ犯罪者もいますし。皆さんが裁判官に同情したくなる時だってあるはずです。
 一方、虐待者やハラスメントを行う人の心の中には、恣意的な裁判官が住んでいて、自分法に基づき、自分法に違反した者に対して、何発もの刑罰権を発動しているということができるでしょう。『ああ無情』という小説には、恣意的な裁判官と検察官が登場しますので、読んでみられてください。」
 
学生B 「どうにかして止められないんですか?」
 

先生 「難しいですよ。基本的に、家庭の問題には警察は入れないのです。例えば、学問の自由を理由として、学校にも警察は入れない。学校の自治にまかされているため、いじめも見つかりにくい。警察が入れば解決する問題かというとそうではないかもしれませんけどね。児童相談所とかもあるんですけど、役に立ちません。
 だから虐待は今でも頻繁に起きているんですよね。
 もう一つよくあるパターンが、子どもが自分の敵となるパターンです。敵とは、自分の欲求を妨げたり、自分に属する変数値を減少させてくる者ですね。例えば金とか、名誉とか、命とか。
 そうしたとき、子どもは排除対象になったりするんですよ。するとリンチが開始されるわけです。そういう子は、国にたてついたのと同じですから。
 で、北朝鮮と同じで、自国の情報は外にシャットアウトする。そして外部からの介入をしにくくさせるわけですね。
 今まで刑罰は国のルールに違反した人間に対してのみ行われるように言ってきましたが、個人国はもっとめちゃくちゃです。相手への当てつけとして、最初は虐待しようと思っていなかった子どもの方へ攻撃をすることもあるわけです。もう理屈や道理なんてないのです。自分法のルールに従うまでは相手への攻撃をやめないですし、手段を択ばない鬼になるのです。手続き法もマイルールですからね。」
学生A 「刑法って犯罪者を懲らしめるための法律だと思っていました。けど、裁判官の恣意的な刑罰権の行使に制限をかけるためだったんですね。そして、裁判官は人格が優れているから裁判官なんだと思っていました。」
 
先生 「裁判官が人格に優れているなんていうことはありません。彼らは法律を他の人よりも知っていて、他の人よりも詳しく勉強しているだけの人です。人格がいいかどうかはそう言うことでは定まりません。刑法は、犯罪の自由に対する憲法といってもいいでしょうね。法律があるからこそ犯罪がある。私たちは何もやっていないのに、私たちの行為が犯罪とされることさえあるのですから。つまり、全ての行為は犯罪であり、犯罪ではないのですよ。犯罪であるかどうかは、結局胸三寸のルールで決まるのです。しかしそれだとさすがにまずいので、その胸三寸のルールのうち、広く国民全体に共通して認められ、許容されているものが法律として抽出されているだけなのです。だから、個人も自然権を国へ信託した以上は、法律の制定に全く無関係ではないのです。しかし、結局信託というのは見なしですからね。自然権を国に信託したのだと解釈すれば一定の筋が通る、というだけで、私たち個人個人が本当にそれを意識して行ったわけではないのですよ。そもそも新しく生まれてくる赤ちゃんからすれば、なんのこっちゃ?という感じでしょうね。だから、その個人が持つルールと国が持つルールとがずれることがある、ということは普通のことなのです。」
 
学生A 「なるほど・・・。」
 
先生 「福沢諭吉が『一身独立して、一国独立す。』という言葉を残しました。国民といっても実に様々な人間がいるわけです。自然権が全員に認められているといっても、その中身の人間たちはめちゃくちゃな人も多いわけですね。自然権認めないほうがいいんじゃないかっていうくらい。ですから、自然権を国に信託するという以前に、人間性自体に問題があれば、結局は自然権の行使も良くない使われ方がなされるということです。国をよくするには、まずは自分を知ることです。例えば、医者は、健康の悪い人の悪いところを特定して原因をつきとめます。そして、決してその原因から目を逸らさない。目を逸らしてしまうと、治るものも治らないのです。心臓が悪いのに腎臓を治してどうします?体のことなので、それが心臓に作用して治るということはあるかもしれませんけどね。これと同じく、自分も、自分の中にある問題から目を逸らさない。じゃないと、結局自分の中にある問題は治らないのです。しかし、人間は、自分の欠点を見つめるということを避けていくものなのです。人は根源的に、自分というものは完全でありたいという欲望を持っています。パーフェクトベイビー願望ならぬ、パーフェクトヒューマン願望みたいな感じですね。しかし、人間というのは結局欠点だらけの存在なんですよ。
 つまりね、法律とかルールとかっていって、外から抑え込んだり、脅かして従わせるんじゃなくて、内から変わっていこうっていうことです。
 教育は、本来これを目指して行われるべきなのだと私は思います。でもね、そこに何らかの恣意的な作用が介入してしまうと、北朝鮮の洗脳行為を許すような話にもなっていくんですよ。だからなかなか難しいのです。教育とはある意味洗脳ですからね。
 虐待や若者の自殺が相次いでいる今の日本は、国とか云々の前に、国の基礎としての個人が揺らいでいるのです。民主主義の危機って言いますけどね、個人自体がそもそもやばいんですよ。個人が成り立っていないところに民主主義なんて持ってきたらそりゃだめになります。」
 

学生B 「自分を知る。最大の敵は自分っていうことですね。」
 
先生 「その通りです。」
 
学生B 「でも、自分を知るなんて難しいですね。どうすれば知ることができるんだろう。そして、どうすればストップができるんだろう?」
 
先生 「私が思うのは、精神構造を解析することですね。そして、私たちは皆違うようで、皆同じなのだということを知ることです。自分達は完全な更地だと思ってください。そして、その上にいろいろな構造物が立っている。そして、自分のわがまま放題したいっていう精神の命令が、レーザーのようにその構造を突き抜けようとする。その構造次第によっては、穴があるためにそのまま通り抜けちゃったりする。だから、その命令をそのまま受けて、身体が動いちゃう。それが良くないことにつながっていく。みんな自分の好き勝手なことをしたいというのは変わらないのです。それを止めて、ガードする構造物は、人それぞれなのです。
 人の目を意識しているだけの人は、人の目というのが構造物になっていて、人の目がある間はその場所を通過することがないんですよ。ところがね、人の目がなくなると、構造物がなくなりますから、どこまでも通過していってしまうということになります。
 『自然権の行使』の立ち位置は、精神の命令が発動した後の話なんですよ。ですから、自然権だけを学んでも世の中はよくなりません。もっと他の勉強も重要なのです。脳の構造を把握したり、精神の分析も必要になるのです。そういう意味で、自分を知らなくてはね。
 そして、いろいろな本を読み、様々な人の考えにふれることですね。私も人のことは言えませんけど。」
 
学生A 「そうなんですか・・・。難しそうですね。」
 
先生 「そうですね。特に精神は目に見えないから、推測するしかありませんけどね。
 厄介なことに、優しそうに見えて、問題のある家族もいるんですよ。周りからは子供が甘やかされているように見えて、実は親自体の支配欲だったりすることもあるんです。自分がいい親であることを演じるというようなね。
 また、どれだけ親に問題があっても、大抵周りの人は親に面と向かって文句はいいませんね。」
 
学生A 「どうしてですか?」
 
先生 「まだまだ日本は上を立てるという風潮が根強く残っているのです。後は、たいていそういう親は自分を否定されるとねちっこいからとか。
 例えば会社なんかでも、上司を訴えたり、文句を言ったりとかすると、却って周りの人間が被害者の方を非難してくることがあるのですよ。」
 
学生B 「どうして被害者を悪く言うんですか?」
 

先生 「自分を守るためですよ。どれだけ上が悪かったとしても、上を悪く言うと、今度は自分の方に刑罰の矛先が向いてしまうからです。だから、強い方につこうとします。学んだはずです。人がルールを守るのは、自分を守るためだと。ですから、刑罰の刃がこちらに来ないようにしなくてはならないから、弱い立場の人を責めて置いた方がよく、刑罰権を行使する上司側も、彼らが自分の味方をしてくれるとわかれば、彼らに対する刑罰の行使は控える可能性が高まるのです。そして、ルールとは線引きでした。そうであるとすれば、その場その場で線引きを押し込んでやればいいということになるのです。
 それにね、上に反逆をする奴だ、という目で見られると、その上司ではなくとも、次の上司からも警戒されかねないのですよ。
 逆に、上が自分達全体を守ってくれないとわかると、今まで味方をしていたはずの人たちも、別の態度をとるようになりますけど。
 学校で教師に反発した子は、周りの生徒からは近づかないでほしいと言われることもありましたからね。
 親や上司なんていうのも、今まで自然権を行使することができていたのに、そこに急に制限が加わると、どうしてもストレスや欲求不満を覚えるものなのです。新しい制限に対しての心の準備というか、人格が備わっていないから、人間の器がまだそこに収まるようにはできていないのです。」
学生A 「・・・。なるほど。」
 
先生 「それに人はね、そこまで物事を深く考えない人の方が圧倒的に多いのです。強いか弱いか。目立つか目立たないか。派手か地味か。有名か無名か。上か下か。多いか少ないか。青信号か赤信号か、この二つのわかりやすいマークで物事を判断するものなのです。ルールは正しいからルールなのではありませんでしたね。結局は一定の線引きなのだと。これを、正しいか間違っているかの二つのマークで見分けてしまおうとするのも何の不思議もないのです。また、個人のルールでは、その線引きは非常に個人的な都合で決まっているものなのです。仮に個人のルールがサッカーグラウンドの形をしているとすれば、ペナルティエリアが相手のペナルティエリアを割り込んでいるという場合さえありますし、センターラインがゴールの手前になっていることもあるのです。」
 
学生B 「うわ~。それは最悪ですね。」
 

先生 「ええ。たいてい個人のルールはフェアではありませんね。自然権は自然の制約によって制約されるといいました。もう一つは、法律による制約ですが、個人の場合は、自分自身で自分を律しなければなりません。ところが、人は自分には甘くて他人には厳しいものなのです。
 また、状況はより厄介で、個人とは限らないのです。例えば、その身勝手な個人と同じ考えを持っている人間が身近にいれば、それは集団化してしまい、多数の人間が少数の人間にルールを押し付けるということもあるのです。で、その押し付けに脅威を感じたら、そのルールに従い、しかもそのルールを強要する兵隊のようになってしまう人もいるわけですね。その多数側は、それで自分達の方が正しいと考えることもあるのですよ。良くないグループとか、組織ができるのも結構こういう感じですね。
 ですが、自然権が自然の制約には逆らえないように、どれだけ上の立場にいても、物事の道理には逆らえない。自然の制約っていうのは目に見えないんです。物事の道理も目に見えません。上司によっては右に行きながら左に行け、ということを平気で命令してくる人もいるのですよ。物を買う人と売る人は、対等な立場を前提としていました。しかし、上司と部下だと、最初から上司の方が立場が上なのです。立場が上ということはね、最初から他の国に支配されているようなものなのですよ。」
学生B 「なるほど・・・。だから国が暴走するように上司も暴走することがあるのですね。右に行きながら左に行けって例えばどういうことですか?結局真ん中に行けってことですか?」
 

先生 「 『右に行きながら左に行け』ですが、私が見たことがある例は、部下に仕事を教えないことですね。仕事が大切だと言っている割には、仕事は教えないけどミスをしたら叱るとか。あるいは、他人が仕事の失敗をするとどこかで喜んでいるとかね。表向きは仕事を一番大切にしていると言っているくせに、仕事よりもプライドを大切にしていることに気が付いていないから、プライドを優先して失敗している人とか。失敗は許されないとかいいながら失敗を繰り返し逆ギレしている人とか、同じく仕事が大切と言いながら部下の失敗に乗じてマウントしてくる人とか。無知を一生懸命隠そうとして結局それを隠すことを優先し、失敗してしまう人とか。仕事が大切といいながらメンドクサイと感じると人に丸投げする人とか。上司とか部下とかの立場ばかりにとらわれすぎてて、共に仕事の完成に向けた行動っていうものには頭が全然向かってない人とか。ぱっと思いついただけでこれだけ。諺でいえば、二兎を追うものは一兎をも得ずということです。つまり、プライドも保ちたいし、仕事もしっかりとしたい。でもどちらか一方しか取れないときに、どちらも守ろうとして失敗する感じですね。心と外見が違っている、私の語の定義からすれば、ただの悪人なんですよ。
 仕事自体よりも別のところに頭が引っかかっちゃってるっていう感じですかね。」
 
学生A 「・・・。それってありそ~。(先生、自分の上司のこと言ってない?)」
 
先生 「部下からすれば、その上司に信託を寄せた覚えなんてなく、会社側の都合で勝手に決まったものですし。この人が上司であるといいなぁという考えは通用しないのですよ。それは皆さんもお分かりの通り、自分の好きな担任とは限らないってことです。」
 
学生B 「そういえば、うちの父さんは、雇って仕事を教えると、独立してしまう。かといって教えないと使い物にならないから雇いたくないって言ってました。」
 
先生 「私はBさんのお父さんは賢いと思います。頭が悪い上司は、どっちも取ろうとして仕事がうまくいかない結果になるんですよ。そんな気持ちなら雇わないほうがよいのです。上司にとっては部下は競争相手になりうるのですね。だから、自分の立場を守るために、部下が常に自分には到達できない存在だと頭にわからせておきたいと思う欲望があったりするのですよ。それはちょうど、国が国民に対して、自分達がすごい立派な人間なのだと見せたがるようなものです。信託を預けてくれなくなったら困りますからね。」

先生 「『毒親』と言われる存在には、いろいろなタイプがいますが、自分の子供自体も競争相手だったりすることで、子どもの成功を邪魔してくる親もいたりします。一方では子どもの幸せを願っているといいながらもね。とりあえず、そういうことがあるということです。少なくとも、言っていることと実際にしていること。心と体、発言と行動が一致していない人が多いのですよ。つまり、『不誠実』な人というべきですね。上司は、ある意味国よりも暴走しやすいものだと思っていいかもしれません。国のように法治主義さえまともにとられていないでしょうから。
 一つ面白い話があります。学歴コンプレックスを持った上司が、仕事に学歴は関係ないって言っているんですけどね。その部下が仕事で失敗したら、『お前本当に~大出か?』とかいうのです。矛盾していることに気が付いてないでしょ?」
 
学生A 「あはは。本当だ。」
 

先生 「右に行きながら左に行けとは、こんな感じです。とにかく、刑罰を与えれば、こうした人間個々人の線引きがバランスのとれたものになるのではなく、強制的にそうさせないようにすることができているだけなのですね。
 ルールなんて言うのは、人間の中身をよりよくするという意味では、全くと言っていいほど役に立たないのです。こういうことで役に立つのは、どちらかというと、道徳とか、哲学とか、文学、思想といったものになるのですよ。やっかいなことに、自分勝手な人間ほどこういうものから縁遠かったりするんですよ。そして、こうしたものは金にならないので、あまり人気がないんですよね。何やら小難しいし。その場の楽しみとして消化されているというくらいです。私個人が考えているのはね、こういうことを学んでしまうと、今まで大手を振って自分の線引きを強要していた自分が、とても欠点だらけの罪深い人間だったと自覚してしまうことから、逃げたくなるからじゃないか、と思ってたりします。」
 
学生A 「なるほど。」
 
 

この章のまとめ
① 刑罰の由来は、結局のところ個人にある。
② 個人的な刑罰の行使を、リンチ(私刑)という。
③ 私刑と私刑が行われあうことを、喧嘩という。
④ リンチがあるのは、人の胸三寸にルールがあるから。
⑤ 個人のルールを犯すと、リンチが発生することがある。
⑥ 刑罰は、人間を外からの圧力で律するようにすることしかできない。
⑦ 自分をよく知ることは、刑罰におびえて自分を律するよりも有益であり、大切なことである。
⑧ 個人のルールが他の個人にとっても都合のいいルールである場合、個人は集団化し、集団がそのルールを自分達よりも弱い存在へ押し付けることがある。
⑨ 上司や、親など、自分より立場が上位のものは、自分達が信託を預けていないのに、一方的に決まってしまう。現代では、上司ガチャとか、親ガチャと言われる。彼らの胸三寸のルールに抵触すると、リンチが始まることがあり、これがパワハラや虐待の原因となることが多い。
⑩ 自然権を行使したいというのが人間の基本的なところであるから、自分がある集団で上に立つと、歯止めが利かなくなることがあるのは国と一緒。

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