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長編小説【三寒死温】Vol.4

第一話 人探しの得意な探偵


【第三章】幻に恋する日々

「オミナエシ化粧品の小澤おざわ 菊枝きくえです。」
自己紹介をしながら、私はゆっくりと右手を差し出した。
その男性は、私の右手を自分の両手で包み込むようにして握手を返してきた。そして、私たち二人の間を取り持ってくれたある投資家の名前を出してから、自らの氏名を名乗った。そこに、所属や肩書はなかった。

それから、私がこれまでに成し遂げてきた事業やこの屋敷に対して、一通りの賛辞を呈した。ありきたりな語り口ではあったものの、上辺だけの知識ではなく、丁寧に下調べしてあることが窺えた。

その男性の賛辞に対して、私は真剣な表情を作り、これまでにも幾度となく繰り返してきたおなじみの台詞で応じた。
「私たちの事業が上手く行ったのは、一重ひとえに、時代のおかげです。」
嘘でも偽りでもなく、これは私自身が心からそう感じていることだった。
本心から繰り返してきた言葉だった。

恐らく、過去にこの台詞を私に言わせてきた面々だって、心の中ではそう思っていただろう。時代に恵まれていたのだと。
それでも彼らは決まって、歯の浮くようなお世辞を並べ立てた。
「ご謙遜を」
「そんなことはありません」
「あなたの手腕ですよ」などなど。数え上げたらきりがない。

しかしこの男性の反応は、そんな先達せんだつとは少し違って、新鮮だった。
「奥さまは本気で、事業の成功を時代の恩恵だとお考えなのですか?」
もしこの場に使用人を同席させていたら、この男はどれだけ失礼なことを言えば気が済むのだと、怒り狂っていたに違いない。
大柄な体格に任せて掴みかかっていた可能性も、ないとは言えない。

私は、今度はしっかりとビジネス用の笑顔を作った。
「ええ、もちろん。大東亜戦争という言葉はご存じですよね?」
見えはしないけれども、私は彼の正面を真っ直ぐに見据えながら言った。
その男性は「はい」と言って頷いた。恐らく、頷いた。
「私は女性ですから、戦場には行っていません。でも当然、親兄弟や親戚のほとんどを亡くしました。私が当時住んでいた東京の外れでは、たまたま大きな空襲がなかったので、辛うじて寝泊まりする場所はありました。でも最後まで、主人は帰ってきませんでした。」

そんな私たちは、戦後、まさにゼロの状態から自分たちの生活を、住む街を、そして日本を立て直さなければならなかった。暮らしぶりは、本当にひどかった。地獄に毛が生えたようなものだった。
とにかく私たちの世代は、その悪い時代を早く終わらせようと必死だった。
出来ることなら手当たり次第になんでもやった。そして、死に物狂いで作った戦後の復興機運という土台に、やがて高度経済成長という天からの恩恵が舞い降りた。

それが例え、隣国の戦争に端を発した好景気だったとしても、あの焼け野原を知る私たちにとっては、甘受してもよい副産物に思えた。後ろめたさなど微塵みじんも感じなかった。

「高度経済成長の時期というのは、本当に夢みたいでした。それまで、どんなに必死になって作っても、どんなに頭を悩ませて売り歩いても、誰も買ってくれなかったものが、突然、黙っていても売れるようになるんですもの。それも、ものすごい勢いで。
これが、神様からの贈り物でなくて、何だと言うのですか。」

残念ながら、戦後生まれの子どもたちは、本当の意味での「悪い時」を知らない。もちろん小さい頃には、多少の貧しさは経験しているだろう。しかし、彼らが大人になって社会に出た時、世の中はすでに高度経済成長の真っ只中にあった。
本人たちは努力しているつもりでいても、実は何をやってもそこそこ上手くいく時代だった。

彼らは皆一様に、笑顔で「時代の恩恵」と口にする。でもそれは、ほとんどの場合、上辺だけの言葉に過ぎない。
時代の弊害を知らない彼らに、時代の恩恵を肌で実感できるわけもない。
心の底では、自分の能力だと信じている。

「同じ高度経済成長やバブル経済を経験しているとはいっても、彼らの世代と一括りにされてしまうのは、正直、いい気分のするものではないわね。」
「すみません。そういう意味でお聞きしたわけではないのですが、そう受け取られても仕方がないですね。ちょっと軽率な聞き方でした。」
その男性の声色からは、心の底から申し訳ないという感情が滲み出ていた。

「私も少し言い方が過ぎたかしら。
彼らは彼らで、かわいそうな世代なんですよ。ほんの10年から20年くらいの違いだけれど、良い時代しか知らずに過ごしてしまった彼らは、今、どん底の不景気を目の当たりにしても、何をどうしていいか分からず右往左往しているでしょう?
彼らに代替わりした企業が、どれだけはかなく散っていったことか。
本当に悪い時に何ができるか、どんな選択ができるか。それが、その人間の本質を最もよく表してくれるものです。」

私は一息吐いて、ミルクの入ったアールグレイを一口すすった。
「お恥ずかしながら、私の父も、奥さまがおっしゃった『かわいそうな世代』の生まれです。現役のサラリーマン時代には、それこそ確定申告が必要なくらい稼いだこともあったそうです。顔を合わせる度に、私の今の状態を嘆いています。」
ふとついて出た自嘲気味の苦笑いを隠すように、軽い咳払いを一つしてから、その男性は続けた。
「聞けば、父と一緒に働いていた営業職の方のほとんどが、父と同じくらいの給料をもらっていたみたいですけどね。きっと父は、今の時代を生きても、同じくらい稼げると本気で信じているんじゃないかな。
例えばそんな好景気の時に『中の上』だったとしたら、時代が変わっても『中の上』であることに変わりはないはずなのに。もしかしたら、『中の上』を維持するだけでも難しいかも知れない。いずれにせよ、そういった相対評価の概念は、私の父にはないみたいです。」
そう言ってコーヒーを一口飲んだその男性は、少し長めに深呼吸した。
それは、ため息ともとれるような長い吐息だった。

「私たちは、常に最高点を出さなければ良い暮らしができない世代でした。でも彼らは、平均点を出せば幸せに暮らせた世代です。あなたたちはどうかしら?」
その男性は、恐らく私の問いかけに対する自分の考えをまとめているのだろう、しばしの間、無言だった。
途中でもう一度、コーヒーを飲む気配を感じた。
「そうですね。どんなに頑張っても平均点すら出すのに苦労する世代でしょうかね。ごく稀に高得点を出したものだけが、富を得ることができる。でも、それが良い暮らしにつながるかは不透明です。何を幸せとするかも、多様化してきています。」
なるほど、この男性の言わんとしていることも、分からなくはない。

親の世代が、時代の恩恵を自らの能力と勘違いしてしまっているように、この男性の世代も、競争の激化や景気の停滞を時代がもたらす弊害として位置づけ、早々に諦めてしまう帰来がある。
彼の言葉にも、そんな世代特有の逃亡癖とも言える、冷めたようなものの見方が多分に含まれていそうな気もする。
どこか達観したような、他人行儀な物言い。
しかし、単一の価値観がもてはやされた時代から、各々が独自の価値観を構築していかなければならない時代になってきているということは、私にも実感として理解できる。
それはそれで、何とも生真面目で息苦しい時代に思えるが。

「あらゆるピースががちがちにはめられてしまって、もう完成間近のパズルみたいな世の中です。でも、必死になってラストピースを探し出してパズルを完成させたところで、浮かび上がってくるのは、素人が慌てて撮影したようなピントのずれた、ありふれた風景写真でしかない。」

この時代を生きている彼ら自身も、何でも自己責任で取捨選択しなければならない社会に閉塞感を覚えているのかも知れない。
一見すると、個々の自由に委ねられた大らかな社会にも思えるが、裏を返せば、誰もが自分に関わること以外の責任を他人に押し付けて放棄しているだけにほかならない。

「確かに、私たちの世代が生きた時代は、あらゆることが不確定でした。毎日のように変わる社会情勢に、行き詰まりなんて感じている暇もありませんでした。でもその代わり、私たちは戦後の混乱に乗じて、人の道に外れるような経験までして、今、ここに生きている。
この辺りは、もしかしたらもう聞いてらっしゃるかしら?」

その男性は、恐らく口を真一文字に結んで、静かに一つ頷いた。
そんな自分の動作を私が察していると分かっているのか、しばらくの時間を置いてから、彼は小さく「御社の社名には、憧れといましめの意味がある、ということだけは。」と言った。

◆ ◆ ◆

視力を失ってしまった以上、方向転換は致し方のないことだった。
陰影すらほとんど映し出すことができないこの目で探し物をすることは、その対象が何であれ、物理的に支障をきたす。それどころか不可能だと言っても過言ではないだろう。

もちろんこれまでだって、私一人で動き回ってきたわけではない。外部に情報が洩れる可能性をくまなく排除し、綿密な計画と厳密な統制をもって、組織的に捜索を行ってきた。
しかしそれは、私が千人単位の従業員を率いる一企業の経営者というポジションにいたからこそ構築できた体制であり、反対に、構築せざるを得ない体制でもあった。

視力を失った私に、もはやビジネスの世界で従来通りに立ち回ることなどできないし、そんな真似をするつもりもない。
このような状態で務まるほど甘い世界でないことは、この私が一番よく知っている。身をもって知っている。
取締役会や株主も含め、会社側がどのくらい私から離れてくれるかはまだ分からないし、離れてくれたとしてもそれがいつになるのかも分からない。けれど、私自身としては、もう心の整理はできている。

幼い彼女を手放したあの時から、もう二度と後悔しないようにと、私は一日一日を大切に生きてきた。
言葉にすると簡単そうに思えるけれど、実際の行動に移すとなると非常に難しかった。生きていればどこかしらに必ず妥協は現れる。妥協した方がよほど楽なこともあるし、事実、妥協が必要なこともある。
後悔しないようにと一日を全力で生きることそのものが、結果的に足枷あしかせとなり、ストレスとなってしまうこともある。

それでも私は、あの日以来、十分に生きた。それだけの自負はある。
だから、この会社を手放すことくらい、もうとうの昔から覚悟ができていた。いつそうなってもいいように、毎日を全力で生きてきたのだから。

それにも関わらず、今こうして、まったく別の角度から放たれた矢に心臓を射抜かれて後悔しているのだから、どうしようもない。

企業の代表者という肩書から解放されたおかげで、捜索の協力者にどこまでの情報を公開するのか、自分で自由に決められるようになったのは、大きなメリットだった。
従来なら、自身の立場を考えると公にするべきではない込み入った事情なども、私の裁量一つで提供することが可能になる。当然、捜索する側からすれば、より的確により効率的に網を張ることができる。

その一方で、私が長い年月を掛けて培ったビジネス上の信用と見返りを担保に構築してきたネットワークが使えなくなるのは、大きなデメリットだった。すべてシャットアウトされるわけではないが、それでも使用できる範囲は極端に狭くなる。

私の信用をベースに構築した捜索チームに、従来は公開することのできなかった諸々の詳細情報を提供することができたとしたら、もしかしたらすぐにでも娘を探し出してくれるかも知れない。

しかし、その二つを同時に成立させることはできなかった。
その上、私自身がもう捜し歩くことのできない体になってしまっているのだ。会社とは離れた別の場所で、新たに捜索チームを作り直す必要があった。状況的に言えば、一進一退。プラスマイナスゼロ。成功の確度は、上がってもいなければ下がってもいない。

ただし一つだけ、従来とは比較にならないほど大きな変貌を遂げたものがある。それは私の時間だ。私自身が捜索に費やすことのできる時間だ。
自分の足で西へ東へと駆けずり回ることはできないけれど、これまではビジネスとの二足の草鞋わらじだった時間を、捜索に集中させることが可能となる。例え目が見えなくても、私が本気を出したらどうなるのか見せてあげようじゃないの。
逆境に陥れば陥るほど燃え上がる性格は、自分で考え得る私の最大の強みだ。

ところが、程なくして私は、それが単なる過大評価に過ぎなかったという事実を思い知ることとなる。
年甲斐もなく高々と炎を上げた血気盛んな意気込みも虚しく、いつまで経っても私の元に朗報は飛び込んでこなかった。あれだけの豪語を嘲笑うかのように、すべての努力は無駄足となって、私の見えない目の前に梢高く積み重ねられていった。

後悔先に立たず。

いい歳をして、この言葉の本当の意味を実感することになろうとは、さすがの私にも予測することができなかった。
仕事においては何度も難しい局面に立たされ、その度にあらゆる可能性をシミュレーションしながら、いつ落ちるとも限らない、それこそ落ちなかったのが不思議だと思えるくらいの綱渡りのような判断をしてきた。
もちろんうまく行くこともあればうまく行かないこともあるわけだが、おおよそにおいて、私の判断は間違っていなかったと言えるだろう。
結果にはそれだけの自信を持っている。

そんな私が、予想外の展開に困惑し、自らが下した判断の失敗を後悔している。これはもう、笑うしかない。笑うしかないのだけれど、実際には笑えない。笑うことなどできない。僅かな笑みすらも浮かべることができない。茫然自失の状態で、何も考えることができないでいる。

それに、最近になってまた、ある種の不安に襲われるようになった。
例え探し出すことができたとしても、その時に娘が私に見せる表情は、必ずしも私の希望通りとは限らない。
もちろん、娘を探し始めた時から分かっていたことだし、覚悟だって決めていた。しかし、そんな不安までもが再び頭をもたげてくるようになった。
もし仮に面と向かって顔を合わせることができたとしても、私はもう娘の顔をはっきりと見ることはできない。

できないからこそ怖い。
自分の目で確かめることができないからこそ、恐ろしい。
すべてがあまりにも遅すぎた。もっと早く行動するべきだった。

いつしか私は、そう自分に言い聞かせて、心を閉ざそうと決意を固めていた。毎晩のように夢の中に現れる、自分で勝手に成長させた娘の姿。その娘に呪い殺されるのであれば、それも一つの贖罪になりはしないだろうか。

そんな自己満足を唯一の免罪符として死にゆくことを、心待ちにしながら。

◆ ◆ ◆

一呼吸置いてから、その男性は「本題に入る前に、最初にお断りしておきたいのですがよろしいでしょうか。」と言って、おもむろに話し始めた。
「恐らく、奥さまは私のことを『人探しの得意な探偵さん』だと紹介されていると思います。特殊な能力があって、人の居場所が分かる人間である、と。」
その男性が僅かな息継ぎをする間に、私は小さく一つ頷いた。

確かに私は、我々の間を取り持ってくれた知り合いの投資家から、そう聞かされていた。人探しの名人だと。
「でもそれは、彼が勝手にそう思い込んでいるだけで、私に人知を超越した力はありません。たまたま、彼の近くで見かけなくなった方のその後を言い当てたというだけです。それが二回ほど続いたというだけです。」

恐らく私の表情の変化を読み取るためだろう。その男性はもう一度、話を止めて一呼吸置いた。
そしてコーヒーを一口だけ音を立てずにすすると、話を再開した。

「どちらのケースも、私は彼の話をお聞きして、自分の中で自分なりに論理的に考え、こういう可能性もあるのではないかと予測して、見解を申し上げただけです。そして、その予測が偶然にも的中したというだけなのです。
ですので、いきなりで申し訳ありませんが、あまり大きな期待はしないでください。がっかりさせてしまったとしたら、謝ります。このような私に話をしても意味がないとお思いでしたら、今すぐにでも、もしくは話の途中でも、帰るよう言ってください。私は、一向に構いません。」

その男性の言う通り、私はひどくがっかりした。
心の底から、がっかりした。
もちろん、その男性に心の動揺を悟られないよう、表情はすべて押し殺しているつもりだった。しかしそれでも、もしかしたら顔に出てしまっているかも知れないと不安になるほど、私はとても落胆した。

諦めかけた・・・違う。一度は本当に諦めた願いだった。

そんな願いに、もしかしたら手が届くかも知れない。今後ここまで心躍ることはもうないだろうと思えるほど、私の胸は高鳴っていた。
そのため昨晩は、ここ数年記憶にないくらい眠ることができなかった。
がっかりするなと言われても難しい。

その一方で、心の底からほっとしている自分もいることに気づいて、私は愕然とした。やはり私は、心のどこかで娘からの拒絶を恐れているのだ。私の目には映らない彼女の仕草や表情から、間や音を通じて、嫌悪や戸惑いの空気を読み取ってしまうのが怖いのだ。
それ以外に、この男性の言葉を聞いて私がほっと胸をなで下ろさなければならない理由など、見当たらない。

つづく(第一話 第四章)


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