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長編小説【三寒死温】Vol.9

第二話 律儀な看護師の旦那


【第一章】用意していた台詞を飲み込む

どんよりとした花曇りの薄暗い昼下がりに見る桜は、純潔や優美といったその花言葉にはおよそ似つかわしくない、不穏な雰囲気を身にまとっている。澄み切った青空の元で見る桜の、ほんのりと頬を染めてはにかむ少女のような可憐かれんな微笑みとはほど遠い表情だ。
曇り空の下の桜は、もはや笑顔ですらない。
そこからは喜怒哀楽のどのような感情も読み取ることができない。
それは、満員電車に揺られながらひたすらに目を瞑る疲れ切った会社員のような立ち姿に見えた。まるで、かつての自分自身のような。

ニット帽からほつれた毛糸が小さく揺れる程度の、春とは思えない柔らかなそよ風を受けて、ひらひらと一枚の白い花びらが心地よさそうに中空に舞い、曇天の中に消えていった。

その様子に、私は一昨年の冬の大雪の日に見上げた空模様を思い出した。
空一面を覆い尽くす鈍い鉛色の空から舞い降りてくる大粒の雪は、薄っすらと練色ねりいろに濁り、まるで噴火直後の活火山から吐き出された火山灰のように見える。降り積もった後の雪はあんなにも真っ白でけがれのない無垢な表情をしているのに、とても同じものだとは思えない。
桜にしろ、雪にしろ、まだ何色にも染められていない淡くはかない純白は、良くも悪くも周囲のさまざまな色合いに影響を受けやすいのだろう。

そんな、左前の経帷子きょうかたびらに死化粧を施されたような桜を見ているうちに、いつの間にか私は中庭のベンチに座ったままうたた寝をしていた。
肌寒さに身震いしながら目を覚ますと、誰もいなかったはずの隣に見知らぬ男が座っている。目深に被った緑色のベースボールキャップに、一番上のボタンまで留められたダウンジャケット。彼のそんな身なりを見て、私は慌てて手に持っていたカーディガンを羽織った。

誰だろうと思いつつも、鼻の奥がつんとしてきたのを感じて、私はズボンのポケットに手を入れた。
しかし、いつも持ち歩いているはずのハンカチは見当たらなかった。

「使いますか?」
隣に座る見知らぬ男が、ショルダーバッグからポケットティッシュを取り出して、私に差し出してきた。それは、まだ封の切られていない未使用のポケットティッシュだった。射幸心しゃこうしんを存分にくすぐる眉唾もののうたい文句と派手に塗りたくられた原色が、やたらと目を引く。

そういえば、午前中に散歩をしていた時、駅前に新しくできたパチンコ店に長い行列ができているのを目にした。きっとあそこで配っていたものに違いない。その行列から流れてきた煙草の苦い香りを思い出して、私は思わず顔をしかめた。
恐らく風向きの影響だろう、行列とは道路を挟んで向かい側にあるアーケードを歩いていた私の方にまで副流煙の塊が漂ってきたため、私は細い路地に入って迂回せざるを得なかった。おかげで戻る予定時刻を少しだけ過ぎてしまい、担当の若者からつまらない嫌味を言われた。

私は、男が差し出した何の罪もないポケットティッシュに向けて、可能な限り目いっぱい大きく開いた左手をかざした。
「いえ、結構。じきに治まりますのでご心配なく。」

そうですか、と男は小さく呟いてから、よく使い込まれた布製のショルダーバッグのフロントファスナーを開け、ポケットティッシュを大切そうにしまい込んだ。そして、それが普段から欠かさず繰り返されているごく当たり前の行動であるかのように、ぽんぽんと二度、バッグの淵を軽く叩いた。
くすんだ緑色をしたそのショルダーバッグは、私に、幼き日に見た日本陸軍の水筒を思い出させた。

気がつくと私は、その男に向かって声を掛けていた。
「お見かけしたことはないと思いますが、こちらの方ですかな?」
見ず知らずの相手に自分から声を掛けたのは、かなり久しぶりのことだ。
この前、自分から誰かに声を掛けたのがいつだったのか、とっさには頭に浮かばない。

「先月から妻がこちらで働いているもので。忘れ物を渡しに。」
そう言った男の声は、はっきりとした張りの割には抑揚があまりなく、彼の見た目とは不釣り合いな落ち着いたトーンに違和感を覚えた。古く見えるよう、あえて汚れの施された塗り立ての土壁を思わせる違和感だった。

一見すると若そうに思えるが、どうやら見かけよりは年齢を重ねているようだ。あるいは、実年齢に比べて若く見られることをあまり快く思っていないがための声色なのかも知れない。
もしかしたら、私の息子と同世代くらいではないだろうか。

「そうですか。それではこちらは初めて?」
「妻の送り迎えで、正門の前までなら何度か車で来たことはありますが、敷地の中に入ったのは今日が初めてです。」
「慣れない方には、あまり居心地のいい場所ではないでしょうな。」
その男は小さく苦笑いを浮かべながら、僅かに顎を引いて頷いた。

そんなことありませんよ。
素敵なところですね。
思っていたよりも明るくて開放的です。

初めてこの場所を訪れた多くの新参者が口にしてきた、常套句の数々。
当然、彼からも、模範解答のようなありふれた嘘が返ってくるものと想像していたので、私は意表を突かれ、用意していた台詞を飲み込む羽目になった。
そう。ここにいる私たちに、社交辞令やお世辞の類はいらない。
見え透いた慰めの言葉や必要以上に大げさな感嘆にいちいち心を動かされていた時期は、もうとうの昔に過ぎ去っている。

そんな事情を知ってか知らずか、この男が見せた嫌悪を隠さない素直な反応に、私は少しだけ好感を抱いた。
「ご覧の通り、ここには生き生きしている人間など一人もいない。必死なあまりぎらぎらした目をしているようなのは、何人かいますがね。」
「少しだけですが、妻から話を聞いていました。普通の病院と変わりはないよ、と。」

やはりその男の話し方には、何かに抑えつけられているような違和感があった。単なる癖なのかも知れないし、感情を表に出したくない理由があるのかも知れない。でも、無感覚な人間の話し方ではないということだけは、はっきりと分かった。
その抑えられた感情が何なのか、彼の裏側が私はとても気になった。

「ここをホスピスのような施設と勘違いしている人間もいるみたいでね。
でも、誰も穏やかな表情なんかしていない。それどころか、ギスギスした雰囲気まである。利用者同士で激論を交わしている場面なんかに出くわしたら、そりゃ不安になりますわな。」
「妻から聞いていなかったら、きっと驚いたと思います。」
「そういう私も、初めて来た時にはずいぶんと面喰らったもんです。」

夏場は南寄りの湿った風でも涼しく感じられるように、冬場は冷たい北風がその勢いを保つことができないように、少しでも快適に過ごせるよう風の流れを計算して作られたこの中庭ではあるが、陽の光のない春先の午前中は、長い時間い続けると肌寒さを感じる。

私は、まだ少しだけ奥がうずく鼻先を気にしながら、
「どうです、少し冷えてきたので中に入りませんか?」と言った。
気がつけば、私はその男を建物の中へと誘っていた。

その男は、意外なほど相好を崩してベースボールキャップを取りながら「お付き合いします。」と頭を下げ、私とほぼ同じタイミングでベンチから腰を上げた。

◆ ◆ ◆

玄関の式台に座って運動靴の紐を結んでいると、遠くでサイレンのような音が鳴っているのが聞こえた。
「あら、まだ出かけていなかったんですか?」
ごみ捨てを終えて帰ってきた妻が、玄関のドアを開けるなりそう言い放った。どことなく嫌味が含まれているような敬語交じりの言葉遣いに、刺々とげとげしい雰囲気を漂わせながら。

それと同時に、小さかったサイレンの音が一気にその音量を上げた。遠目から聞こえてきているように感じていたけれど、意外と近いのかも知れない。

私は苛ついた感情を押さえながら、顔を上げずに「ん、そうか?」と呟いた。そっと袖をまくって腕時計を見ると、いつも家を出る時間よりも10分ほど遅い。
そう言う自分も、ごみを捨てるだけで何分かかっているんだ。
そんな台詞を吐き出す代わりに、私は小さなため息を一つ吐いた。大方、ごみ捨て場の前でばったり会ったお隣さんと立ち話でもしていたのだろう。

実を言えば、月曜日の朝はPTAの方でもやり繰りして、持ち回りで保護者を横断歩道に立たせてくれている。今日はそれほど慌てる必要がないのだ。だからといって、遅れていいということはないけれど、そもそもがボランティアなのだから、多少の誤差は大目に見てくれるだろう。

「もうみんな行ってますよ。急いでください。」
妻はそう言い残すと、私と入れ替わるようにして玄関を通り過ぎ、台所へと続く廊下をすたすたと歩いて行った。私は「ああ、行って来るよ。」と言いながらゴルフキャップを被り、緑色のベストを羽織ってから家を出た。

早々に、見慣れた子どもたちが「おはようございます!」と言いながら、私の目の前を走り過ぎていく。「走っちゃだめだぞ!」と一叫びしてから、私は持ち場の横断歩道がある交差点へと向かって歩き出した。

普段であれば、目的地まで10分弱の道のりは、ごく静かな内に過ぎ去っていく。閑静な住宅街をあみだくじのようにジグザグに辿たどる道のりは、それこそ季節によって違う鳥の鳴き声まではっきりと区別がつくほど、静寂に包まれている。すれ違う人といえば、小学校とは反対側にある駅に向かって歩く、会社勤めの若者たち数人がせいぜいだった。

しかし、ほんの10分遅いだけで、通りの雰囲気はがらりと違っていた。
すでにあちらこちらで笑い声を上げている子どもたちがいるのはもちろん、飼い犬を連れて散歩をしている老人もいれば、ごみ捨て場の前で立ち話をする主婦たちもいる。低層階の集合住宅の一室からは、掃除機のけたたましい唸り声まで聞こえてきた。

小学生たちが安全に登校できるよう、交通量の多い交差点や信号機の前で安全指導をするボランティア活動を始めてもう半年ほど経つが、考えてみれば、私が時間に遅れて行くのはこの日が初めてのことだった。


スクールガードと呼ばれるこのボランティアに登録している人間は、私を含めて四人いる。いずれも近所に住む、私と同世代のリタイア組だ。
この四人で三か所の交差点を担当していたので、比較的、余裕のあるローテーションを組むことができていた。
私が時間を過ぎるのは初めてだったが、他の連中はすでに無断で遅れたり休んだりということが、間々あった。

更に、毎週月曜日にはPTA活動の一環として保護者が見回りに参加してくれていたので、多い時には一つの交差点や信号機に四、五人が重なることもあった。それならば何人かまとめて週一日にするのではなく、月曜日から金曜日まで一人ずつばらけさせればいいではないかと進言したこともあるが、そう簡単な話でもないらしい。

PTAとて強制ではないし、当然、参加しない保護者もゼロではない。
私などからすれば、何人もいるから「私一人くらい休んでも構わないだろう」と甘えるやからが出てくるのではないかと思うのだが、実際は反対で、複数いるからこそ参加率も上がるのだそうだ。
眉唾ではあったが、そういうものかと矛を収めるほかにない。

実際に活動を始めてみると、確かに数人で示し合わせて現場に来る保護者の姿が目立った。しかし、そのほとんどが横断歩道に立ってもろくに子どもたちなど見ずに母親同士で談笑しているのだから、話にならない。
こんな状態で参加率を上げたところで、子どもたちの安全の確率は上がるはずもない。

スクールガードを始めてから知ったことだが、小学生たちの朝は意外に早い。息子が小さかった頃は私の方が家を出るのが先だったため、およそ彼らの朝の生態を把握できていなかった。
だから「通学時間帯に交差点や信号機の前に立つ」と聞いても、せいぜい始業までの10分、15分程度のものだろうと高を括っていた。

ところが、八時近くになると、今か今かと玄関が開くのを待つ大勢の子どもたちが校庭に押し寄せるほど、彼らの登校時間は早かった。
もちろん、子どもたちが集中する時間帯は短いのだが、実際に業務に当たる時間は想像していた倍、30分以上あった。
そのため、次第に我々四人の間でも「すべての時間を、四人全員で見守る必要はない」「最低一人いればいいのだから、融通を利かせていこう」という雰囲気が出来上がっていった。
PTAからも人が出てくる月曜日などは、特に。


いつもとは違う騒々しい道のりを持ち場に向かって歩いていると、その中でもやたらと耳に障る音があることに気がついた。
玄関を出る時から聞こえていた、あのサイレンの音だ。
気づけばどんどん大きくなっている。

この様子だと、もしかしたら私が受け持つ交差点を通過するかも知れない。私は、低学年の子どもたちが大騒ぎをしながら、目の前を通り過ぎる救急車に声援を送る姿を想像した。
中には、救急車を追いかけて走り出す子どももいるだろう。これはのんびりしていられないと思い、歩く速度を少しだけ上げた。
そんな子どもたちを叱ってやれるのは、私しかいないのだ。

PTAからやってくる保護者たちは、驚くほど子どもたちを叱らない。
他の家の子どもに声を上げるなどもってのほか、自分の子どもですら、道路沿いにある家の敷地内を歩いていたって、縁石の上を走っていたって、何も言わない。我々が注意しようものなら、中には子どもと一緒に「このお爺さんは誰?」という顔をして睨み返してくるような輩まで存在する。
それでも人の親かと、怒りを通り越してほとほと呆れ返る。

そういえば、あれも月曜日のことだった。確か先々週の月曜日だ。

◆ ◆ ◆

その日、私はいつも担当している場所よりも小学校から遠いところにある交差点で、スクールガードの職務に当たっていた。

私の普段の持ち場は、国道から少し南側に入った辺りを、それと平行に走るバス通りの一角にある。その通りが大きく蛇行する場所にここ数年のうちに設置された、まだ新しい押しボタン式の信号機がある横断歩道で、渡ってしまえばもう学校まで50mもない。
私が持ち場に着くと、既に職務に当たっていたボランティア仲間から、別の交差点の担当者が急遽来られなくなったので、応援に行って欲しいと言われた。

その場所は、私の持ち場から五分ほど歩いた先にある広い交差点だった。
小学校付近に比べると子どもの数が少ないため、いつも担当は一人だけだったのだが、交通量はこちらよりも多く、二方向から横断歩道を渡る子どもたちがいるため危険度にはあまり差がない。
確かに、応援が必要だろう。
自分の到着の方が遅かったこともあり、気は進まなかったが引き受けるよりほかになかった。

つづく(第二話 第二章へ)


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