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長編小説【三寒死温】Vol.1

プロローグ


樹齢百年は優に超えているであろう黒松の一枚板が、黒檀こくたん色の鈍い光を放っている。足元も覚束おぼつかない最低限の照明のみが灯る薄暗い空間の中、一直線に伸びているはずの境界線は闇に溶け込み、手で触れなければその存在を確認することができない。

カウンターの上では、等間隔に落ちるスポットライトのまばゆい光が、ほの白いグラデーションの波紋を広げていた。
その中心で静かに佇む、シングル・モルトのグラス。
直径10㎝にも満たない円筒の中できらめくアイスボールは、琥珀色の宇宙に漂う新しい惑星のように見えた。

俺は、仕事が一区切りつくと一人でこのバーに立ち寄り、ウイスキーを飲むことを習慣としていた。極上のシングル・モルトを一杯。納得のいく芝居を演じることができた時の、自分への些細な褒美として。

ふと、久しぶりであることに気づいて苦笑いが込み上げてきた。前回、このカウンターに座ったのはいつのことだ? 思い出せない。ここしばらくの間はろくに仕事もできず、従ってこの店に来る機会もほとんどなかった。

俺が主戦場としている舞台仕事ではなかったけれど、今回のオファーは格別だった。事前に口約束は交わしていたものの、実際に自分の芝居でこれほどのギャランティーを手にしたことはなかったので、未だに嬉しさよりも信じられないという驚きの方が大きい。

正直なところ、芝居が上手くいったのかという意味では疑問が残っていた。それは、今回のオファーが、正解の見つけようがない未体験の仕事だったことにも起因しているだろう。それでも、ある種の自己満足は非常に高かった。それが、芝居に対する納得とはイコールではなかったとしても。

多少の方向転換があったとはいえ、これで当面の目的は果たせることになる。安堵のため息を一つ吐いてから、ロックグラスをそっと持ち上げて静かに傾けた。口の中いっぱいに広がる重厚で複雑なピートのコクと、鼻から抜ける燻製のような香りのバランスが、とてもいい。初めて飲む銘柄だったが、俺の好みに合っている。

目を瞑ると、長距離を走る前の準備運動として首をくるりと回した時のような小さな遠心力を、脳の内側に感じた。忘れかけていたアルコールの感覚に、俺の体も驚いているようだ。それもそのはず。この店に来るのはもちろん、酒を口にすること自体、本当に久しぶりなのだから。

船頭の拍子に合わせて右へ左へと傾く木製のかじのように、ぎいいときしんだ音を響かせながら扉が開く。
その奥から、一人の男が顔を覗かせた。
くるりと店内を見渡すような仕草を見せたその男の唇が、「懐かしい」と動くのが分かる。俺は、彼に気づかれないよう一つだけ短く息を吐いてから、お久しぶりですと声を掛けた。

俺の頭をこつんと軽く叩きながら、その男が隣のスツールに腰を下ろす。
「スコッチか?」
返事をする代わりに俺が小さくうなずくと、彼はバーテンダーを呼んで「ジャック・ダニエルを。」と言った。
「今でも、ここによく来るのか?」
「いいえ。かなりご無沙汰です。」
バーテンダーが、ジャック・ダニエルが入ったグラスを、彼の前に音を立てずに置いた。
「実は、酒そのものも久しぶりです。だから、頭がくらくらしている。味わうより前に、まずは慣れないといけないようです。」
そう言って俺は、シングル・モルトの入ったグラスをもう一度傾け、舐める程度の微量を口に含んだ。

すぐにも煙草と合わせたくてたまらなくなったが、今、ここで吸ってしまうとますます体が驚くだろう。どんな反応を見せるか、予想もできない。
下手をしたら、その場で一発退場の危険もある。
自分の言葉通り、もう少しアルコールに体が慣れるまでは、煙草を控えておいた方が懸命のようだ。
「お前、煙草は?」
俺のそんな心の葛藤を見抜いたわけではないだろうが、その男はそう一言添えてから、ジャケットの下に着ているボタンダウン・シャツの胸ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
そして、慣れた手つきでZIPPOを鳴らしながら火を点けた。

ゆっくりと時間を掛けて吸い込み、同じくらいゆっくりと時間を掛けて煙を吐き出す。その煙は、彼の目の前に真っすぐ落ちるスポットライトの光が作り出した円錐えんすいをより一層白く輝かせる。しかしそれも束の間、真っ黒に塗り潰され空間に飲み込まれ、唐突にその姿を消した。

程なくして、いぶされたような香りに辺り一面が覆い尽くされてゆく。否応なしに、ウイスキーと煙草が口の中で交わって絡み合うイメージが脳裏に流れ込んでくる。
俺は小さく頭を振りながら、苦みとコクの混沌を早く味わいたいという渇きをぐっと抑えて、ピスタチオを乱暴に口の中へと放り込んだ。
「もう少し、様子を見ますよ。先輩。」


その男は、俺が今いる(正確には、ついこの間までいた)劇団に入るきっかけを与えてくれた人物だった。一足先に劇団に入っていた彼から声を掛けられなかったら、恐らく俺は役者を続けてはいなかっただろう。

同じ学部の二年先輩だった彼は、大学公認の演劇部で座長をしていた。
そこで彼は、自分で脚本を書き、演出し、主演までこなしていた。一部の熱狂的なファンたちからすれば、彼はちょっとした有名人だったようだ。

もちろん、芝居にも劇団にも興味などなかった俺が、そんなことを知るはずはない。その演劇部のとある女優に入れ込んでいた俺の友人に連れられて、たまたま公演を見に行っただけなのだ。
後から聞いた話によれば、友人はその女優に無理やりチケット裁きの手伝いをさせられていたらしい。実現するはずもないデートを交換条件として。

当時、俺はシーズンスポーツ(夏はテニス、冬はスキーが常套句だった)とは名ばかりの飲み会サークルに籍を置いていて、一年のほとんどを酒とバイトに費やしていた。
いい加減、そんな代り映えのしない生活に飽き飽きしていた頃だったからだろう。何の気はなしに見た彼らの芝居が、俺の目には新鮮に映った。
それまでこれといった特技もなく、何かに情熱を燃やして打ち込んだこともなかった俺には、陳腐な言い方だが、舞台で汗を飛び散らせる彼らの真剣な眼差しが、輝いて見えてしまった。気がつけば俺は、大学の演劇部から劇団へと、彼の後を追うようにして芝居の世界にのめり込んでいった。


「お前、今でも売れない役者を続けているのか?」
「結局、『売れない』が肩書きから外れる日は来ませんでしたね。」と言って、俺は大袈裟なため息を吐きながら首を振った。
先輩は返事をする代わりに、苦笑いを浮かべた。

この世の中には、売れていようが売れていまいが、飯が食えていようが食えていまいが、この「売れない」を枕詞にして自己紹介する役者が実に多い。何を隠そう、俺もその一人だった。
しかし、残念ながら俺の場合、業界の慣例で名乗っているわけではなかった。謙遜でも何でもない。本当に売れていないだけ。こんな言葉を使わずに済むのであれば、早くそうしたいものだと常々思っていたけれど、もうそれも過去の話だ。

「それじゃ、どうしてここに?」
納得のいく芝居ができた時の自分への褒美として、極上の酒を味わう楽しみを教えてくれたのは、この先輩だった。
最初にこの店に連れてきてくれたのも、彼だ。
「昨日まで、ちょっとまとまった仕事をしていたので、言ってみれば、一人打ち上げのようなものです。」
「なるほど。それは、芝居の仕事か?」
「舞台でも映像でもないので、芝居と言えるかどうか分かりませんが・・・一人で三役をこなさなければならない、大変な仕事でした。」
「舞台でも映像でもない? まさか、現実の世界で芝居をしてきたとか言い出すんじゃないだろうな?」
「だから、これが仕事と言えるかどうか分からないんです。でも、どうしても金が必要だったもので。」

またしても先輩は、返事をする代わりに苦笑いを浮かべた。
そして、指に挟んでいた煙草を灰皿に垂直に押し当ててから、くるりと一回りさせてきれいに火を消した。立ち上る一本の弱々しい煙の筋は、今まさに息絶え昇天する死者の魂のように見えた。
「まあいい。で、話というは何だ?」


俺が結婚したのは、今から5年ほど前のことだった。
相手は、同じ劇団に在籍していた同い年の女優。同世代の役者は数多くいたけれど、まったくの同い年だったのは彼女一人だけだった。

その劇団は、グループとしては何ともいびつで居心地が悪かった。年齢構成のバランスが、極端に偏っていた。
俺が入団した時、40歳を超えていたのが主宰者とその公認の仲だったヒロイン役のおつぼね女優、それから旗揚げの頃から主宰者を支え続けているベテラン俳優の三人だけで、その他の役者はすべて三十路前。中間管理職がいないベンチャー企業のように、およそ民主主義の時代にはそぐわない風通しの悪い劇団だった。

「懐かしいなあ。あの三人組は元気なのか?」
「まあ、元気と言えば元気です。道楽三昧の歌舞伎野郎かぶきやろうも健在ですから。」

そのベテラン三人組が好き勝手やりながら少ない利益を『三人占め』して、若い役者は食えなくてころころ入れ替わる。
そんな、どこにでもある小劇場そのものという感じの劇団だった。
株式投資の成功で一財産を築いたことから「歌舞伎野郎(もちろん「株」と掛けている)」と陰で呼ばれていた物好きなパトロンがいなければ、とっくの昔に解散していてもおかしくない。

「みんな、苦労していたもんな。それこそ、バイト入れ過ぎて稽古に遅れて来るヤツもいたよな。本末転倒もいいところだ。」
小劇場とはいうものの、その劇団には専属の役者が20人近くいた。
しかし公演のギャラ、つまり役者としての収入だけで生活ができていたのは、もちろんそのベテラン三人だけだった。その他の劇団員は全員、アルバイトをいくつか掛け持ちして何とか飯を食いつないでいた。

コンビニエンスストアやカラオケBOXの店員に宅配ピザの運転手、それから警備員や交通整理。入り用の時には、土木作業員。

俺も思いつく限りのさまざまな種類のアルバイトを同時にこなしながら、どうにか役者を続けていた。
「それにしても、劇団員同士の恋愛は禁止だっただろう?」
「座長とお局は公然の仲だったくせにね。でも、陰ではあちこちでくっついたり離れたりしていましたよ。」
「そもそもあれは、座長が『誰も彼女に手を出さないように』って作ったルールだ。」
「こちらこそ、願い下げですけれど。」
「案外、お局が若い燕を捕まえないようにするためだったりしてな。」
「まあ、色恋沙汰がいろいろ悪い影響与えるのは、どこの世界でも同じですね。俺が学生時代、演劇部に入る前にいたサークルも、それで潰れたようなもんでしたから。」

そんな理不尽な決まりごとのせいで、どちらかが劇団を辞めることでしか、俺と彼女が結婚することはできなかった。
そして彼女は劇団を辞めた。
そもそも俺と元妻が付き合い始めたきっかけが、彼女が座付きの作家にしつこく関係を迫られて困っていると相談を受けたことだった。

たった二人だけの同い年ということもあり、俺と彼女は普段から稽古終わりによく飲みに行っていた。それこそ、我々役者にありがちな演劇論を朝まで戦わせたこともあった。必然的に二人で込み入った話をする機会も多くなり、いつしか本音で物を言い合える間柄となった。そんな彼女からすれば、劇団内で何かあった場合の相談相手は俺以外にはあり得なかった。

だから、役者を辞めるかどうかはさて置き、彼女が劇団を辞めるのは、我々の結婚に関わらず時間の問題だったという言い方もできるだろう。

そうして結ばれた俺と彼女だったが、残念ながら夫婦生活は長くは続かなかった。

結婚した当初、妻は「私があなたを支える」と言って定職に就いて、生活費を稼いでくれていた。おかげで俺はバイトを減らし、その分の時間を役者仕事に回すことができた。

二回目の結婚記念日を過ぎた頃、彼女が妊娠していることが分かった。
俺も彼女も、心の底から喜んだ。
しばらく仕事はできなくなるものの、彼女は正社員として働いていたため産休も育休も取得することができる。引き続き生活は苦しいままだが、やり繰りできないことはない。
またバイトを増やせば済むことだから。
そう言って俺は、彼女と抱き合って喜んだ。

歯車が狂い始めたのは、娘が生まれて一年後、通常の育児休暇期間が終わろうとしていた頃だった。
いわゆる待機児童問題の主人公となってしまったのだ。

俺たちは、アパートからほど近い場所にあった保育園への入所を希望していた。しかし役所からは落選の通知が届き、妻は仕事を再開することができなくなった。
仕方なく、彼女は育休期間を延長した。ただし、延ばせるのは半年だけ。その上、彼女の手当ては半額にまで目減りした。だからといって、年度の途中で保育園に入るのは更に難しい。
その結果、残りの半年は無認可の保育施設に娘を預けながら妻は仕事を再開し、翌年からの保育園への入所を目指すことになった。

この無認可保育施設への出費が、生活を逼迫ひっぱくさせる主な原因となる。
通っていた保育園そのものは、設備にしても保育士にしても全く申し分なかった。しかし保育料は、自治体の認可を受けた保育園に比べると桁が一つ違っていた。

そして、こんな時には不運が重なるものだ。
妻が仕事を再開してから三ヵ月も経たないうちに、俺は舞台稽古で怪我をしてしまった。殺陣たての練習中に、相手の振り下ろした木刀が空を切らずに俺の右手首を直撃したのだ。
診断名は橈骨遠位端骨折とうこつえんいたんこっせつ
手首の骨折としては一般的なもので、程度もそれほど重くなかったのだが、それでも一ヵ月はギプスでの固定が必要となり動かすことができない。リハビリも含めれば、元通りになるまで二ヶ月近くかかる計算だった。

右利きだった俺にとって、それは利き手が使えないことを意味していた。
必然的に、生活のあらゆる場面で苦労させられることとなった。
もちろんアルバイトも休まざるを得なくなり、その結果、掛け持ちしていた三つのアルバイトのうち、二つはクビになった。俺が結婚する前からずっと働いていたコンビニエンスストアのオーナーだけが、応援するよと言って、復帰を待ってくれた。

しかし、手首の骨折が完治するはずの二ヶ月が過ぎる前に、妻は娘を連れて遠い実家へと帰っていった。
俺のアルバイト収入がなくなった我が家の財布から、五万円という保育料と2Kのアパートの家賃を引いたら、ほとんど残らない。その上、ただでさえ娘の寝かしつけや夜泣きなどで睡眠不足に陥っていた妻は、家事や育児を手伝うどころか自分のことすらままならずにイライラしている、片腕を釣った木偶でくの坊の面倒まで見なければならなくなったのだ。
体力だけでなく精神的にも追い詰められてしまった彼女を、誰もとがめられるわけがなかった。


「先日、離婚が決まったばかりなんですよ。」
そう言って俺は、スツールの背もたれに掛けておいたポーターのショルダーバッグに手を伸ばした。
そして、自分と妻の名前が書かれた離婚届を取り出した。

もう我慢の限界だった。きっと、視界に入ってしまったからだろう。
俺は開けっ放しのショルダーバックの中から煙草とライターを取り出し、ファスナーを閉めてぽんぽんと二度ほど淵を軽く叩いた。
元々はもう少しはっきりした深緑色だったのだけれど、長いこと日に晒されたせいか、もやのかかった淡いモスグリーンのように色褪せて見える。
ふと、そのバッグが妻から贈られた最初の誕生日プレゼントだったことを思い出した。

フィルタを下にして、煙草を親指と中指でつまんで持ち上げる。
そのままとんとんと二回、カウンターに軽く落とす。
口に咥え、ライターで火を点ける。

大きく息を吸い込むと、久しぶりのアルコールと相まって、一瞬にして顔が熱くなった。まるでアマゾン川のポロロッカのように、全身の血液が一斉に頭を目掛けて昇ってくる。
目を瞑ると、その流れは更に勢いを増した。恐らく、こんなことは生まれて初めての経験だ。俺は、座りながらにして立ちくらみを覚えた。

どうにか目を開けると、隣でグラスを傾ける先輩の視線が、カウンターの上に置かれた離婚届の上で止まっているのに気がついた。
「『金が必要だった』って言ってたのは、慰謝料のことか?」
「妻には、あなたからお金は貰えないと言われましたが、俺にはそんなことは許されない。妻と娘を愛しているのはもちろんですが、どちらかと言えば、ちんけな『男のプライド』の方が大きかったかも知れません。」

ただし、そうは言っても俺にはお金がなかった。いくらプライドが高くても、実際に渡すお金がなければ、どうにもならない。
最初に考えたのは、生命保険だった。
「娘が生まれた時に、思い切って妻と二人で生命保険に入ったんです。大した掛け金も出せないから、いざ死んだところで、下りる保険金なんてたかが知れているけれど。」

俺はもう一口だけ煙草を吸って、灰皿の上で揉み消した。
二度、三度と深呼吸を繰り返しても、なかなか動悸が治まらない。まだ煙草は早過ぎたみたいだった。
最後まできちんと話し終えることができなければ、意味がない。
「でも、生命保険の免責期間がいつの間にか三年に延びていました。まったく知りませんでしたよ。てっきり一年だと思っていたもので。」
「自殺。するつもりだったのか?」

先輩は、押し殺したような低い小さな声でささやいた。
バーテンダーや他の客も含め、俺たちの話が聞こえるような距離には誰もいなかったが、恐らく、そんなことを心配したのではないだろう。
彼自身が話の展開に困惑し、委縮してしまったに違いない。
「一般的には、免責期間が過ぎていれば保険金は下りると言われています。でも、よくよく調べてみたら、その自殺が保険金目当てだと認定されてしまった場合は、支払われないみたいですね。俺の場合、大した額じゃないから疑われるかどうかは分かりませんが。」

先輩はしばらくの間、何も言葉を発することなくグラスを傾けては煙草を吸い、煙草を吸ってはグラスを傾けていた。
「障害は免責期間だけではなかった。死ぬ前に気づけて良かったですよ。」
俺も先輩にならって、自分の目の前にあるシングル・モルトのグラスを持ち上げた。途端にアイスボールが、カランという乾いた音を立てて滑らかに回転する。どうやら、ずいぶんと話に夢中になっていたようだ。
俺は苦笑いを浮かべながら、やや薄くなったシングル・モルトを胃の中に流し込んだ。
「ところで、その『金になる一人三役の仕事』とは、どんなものだったんだ?」


離婚が決まった二日後、あとは俺が署名すればいいだけの状態となった離婚届が、郵便受けに入っていた。代わりに俺は、元妻の私物と今後も必要になると思われる荷物をすべて、彼女が帰っていった実家に送り返した。
その翌日、俺は一段落ついて気が抜けたのか、自分でも驚くほどの高熱を出して寝込んでしまい、身動きが取れなくなっていた。

布団に倒れ込んだまま見上げた安普請の天井は、異様に広く感じられた。あちらこちらに汚れや染みがあり、それらが重なり合って不思議な図形を描き出していた。今日この日まで、天井にあったこれほど多くの模様など、まったく目に入らなかった。
そんな些細ささいな事など気づく必要もないほど濃密に、慌ただしく過ぎて行った日々。それと、誰もいなくなった部屋に一人高熱を出して寝込んでいる今この瞬間が、俺の中では上手く結びついてくれなかった。
寂しさに、自然と涙が溢れ出した。

40度もの高熱を出したのは、恐らく子どもの頃以来だろう。
正確に言えば、子どもの頃にもここまでの高熱を出したことがあったかどうか、確証はない。
いずれにせよ、必要なのは睡眠だ。寝れば何とかなる。寝ないことには始まらない。風邪を引いた時などは、それこそ目を瞑っていればすぐにでも眠ってしまったし、いつまでも寝ていることができた。疲れが溜まって怠さを覚えた時でさえ、そうだった。
睡眠をとって回復しないことには、何もできない。

ところがこの日は、いくら目を閉じても一向に眠ることができなかった。
ずいぶん前に病院で処方されたロキソニンが残っていたので飲んでみたが、全身がぐっしょりと濡れるほど汗をかいても熱が下がるのはその時の一瞬だけ。うとうとしかけてもすぐにまた全身に気怠さが充満し、熱を計ると体温計は40度を示していた。
水を飲むのが精いっぱいで、食べ物は何一つ喉を通らない。
もしかしてこれは、自分の知らない何か重篤な疾患なのではないか。
そんな不安を感じ始めた時のことだ。

目を瞑っていると突然、とある風景が眼前に現れた。
まぶたの裏の毛細血管や赤血球が織りなすカラフルで不可思議な幾何学模様が、デジタル化する前のブラウン管テレビが電波を拾えない時のような砂嵐になったかと思うと、次の瞬間、広大な砂漠の風景となった。

その砂漠は、昇る朝陽なのか沈む夕陽なのかどちらか分からない太陽に焼かれて、全てがオレンジ色に染まっていた。
俺はその、ルソーが描く静謐せいひつな夜の砂漠とは真逆に位置する攻撃的な景色の中を、ひたすら歩いていた。どこまでも、どこまでも。いつ果てるとも知れない中、黙々と歩き続けた。

唐突に砂漠の景色が消え、目を開けた時、俺には「眠った」というはっきりとした自覚はなかった。それどころか、微睡まどろんだような感覚すらない。アルバイトの夜勤中、あまりの眠気にほんの数秒間だけ目を瞑っている間に夢のような映像を見たことがあるが、それに近い感覚だった。
しかし、時計の針はきっかり三時間分、進んでいた。

俺は再び、ぐっしょりと濡れたスウェットを着替え、一度は電子レンジで温めたものの手を付けることができなかったコンビニエンスストアの弁当を再びテーブルの上に広げた。何とか食べられるものだけ口に入れ、気が遠のいていくのを必死につなぎ止めながら飲み込んだ。冷めて固くなっている分、咀嚼そしゃくするのに時間はかかったが、舌の機能は完全に麻痺していたので不味さを感じることはなかった。
そしてまた、布団にもぐって目を瞑った。

三時間ほどの睡眠では、頭の重さや体の怠さまでは治してくれなかった。まだまだ、圧倒的に睡眠が足りていない。
俺は、先ほどの砂漠の景色を思い起こせばまた眠ることができるのではないかと思って、何度か試してみた。しかし、眠ることはできなかった。覚えている限りそっくりに再現してみても、その景色は俺を向こうの世界には連れて行ってくれなかった。
残念ながら、こちらの意思が関与する余地はなさそうだ。向こうからやってくるのをじっと待つしかないのだろう。そういう仕組みらしい。

俺は砂漠の景色をイメージすることをやめ、大きく長い深呼吸を二回してから、改めて目を瞑った。しかし、できるだけ何もイメージしないようにと思えば思うほど、様々な風景や場面が瞼の内側に浮かび上がってきてしまう。
もどかしく思っていると、突然、一人の男が目の前に現れた。

その男は、どこにでもいるごく普通の老人だった。
朝、散歩に出かければ、柴犬を連れて歩いていそうな爺さんだ。昼間、電車に乗れば、茶封筒を抱えたまま優先席でうたた寝していそうな爺さんだ。別れた瞬間にはもう細部が思い出せなくなってしまうような普遍的な顔をした、そんなどこにでもいそうな年老いた男が、一歩一歩、確実な足取りで俺の目の前まで歩いてきた。そして、
「すみませんが、私の仕事を手伝っていただくことはできませんか?」
と言った。

眠りに落ちた実感はなかったが、かといってこれが現実の出来事であるという確信もない。それでも俺は、彼が口にした「仕事」という言葉に吸い寄せられたのか、気がつけば二つ返事で承諾していた。
「これから死にゆく方に、一日だけ、寄り添っていただければ結構です。」
そう言って年老いた男は、満足そうに二度、三度と頷いた。

死にゆく方って、誰のことですか? 俺はそう聞いた。
いや、自分としては言葉を発してそう質問したつもりだった。
しかし、まるで水の中で喋っているかのように声としての音を成さず、その台詞はどこかに吸い込まれて消えてしまった。
「ご安心ください。私がふさわしい方をご紹介します。」
爺さんの返事を聞いて、俺はほっと胸を撫でおろした。
読唇術なのか精神感応なのかは分からないが、俺の台詞は声にならなくてもしっかりと彼の耳に届いている。

そして、これは先ほどの夢の続きなのだろうと理解した。


つづく(第一話 第一章へ)


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