その天井を破れるか?
自分の母の親友に辰さんと言うおじさんがいて、自分が学生の頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。
辰さんは酔っ払うとよく昔の話をする典型的なおじさんで、何度も聞いた話の一つに昭和28年の西日本水害のときの話がある。
知らない人の為に説明すると、昭和28年は国内の観測史上最大規模の記録的な豪雨が降り、日本全国で水害にみまわれた。
その中でも最も甚大な被害を受けたのが九州北部で、福岡、佐賀、熊本では主要な河川がすべて氾濫し死者行方不明者合わせて1000人を超える未曾有の豪雨災害が起きた。
その半数以上が熊本での被害だ。熊本市中心部を通る白川には当時17ヶ所橋が架かっていたが、そのうち15の橋が濁流に破壊されて流された。
熊本人なら誰でも子供の頃、年寄り連中から一度は聞く話だ。
当時、辰さんは小学校に上がるか上がらないかぐらいの小さな男の子だった。
自宅への浸水が始まったと思ったらあっという間に水かさが増していき、気がついた時には父親の脇に抱えられて天井が間近に迫っていたそうだ。
お母さんとお兄さんはすぐ隣りにいて、親父さんは辰さんを脇に抱えて立ち泳ぎしながら必死に天井を叩き続けていたらしい。
今の石膏ボードなら誰でも簡単に破れるだろうが、昭和28年なら石膏ボードはまだ使われていない。
そんなに厚くはないだろうが、天井は何らかの木の板だったと想像できる。
足場がしっかりした場所ならば、どんなに貧弱でも大人の男が死ぬ気で殴れば割ることができる板だろう。
だけど、その時の辰さんの親父さんにはしっかりとした足場どころか踏ん張れる足場そのものが無い。うねりのある水の中で立ち泳ぎしながら、片手に幼子を抱え、水面から天井までの僅かな距離での0距離パンチだ。
この体勢で天井板を打ち破るのはプロの格闘家でも厳しいのではないだろうか?
親父さんは何度も何度も天井を叩き続けるが天井はびくともしない。そうしてる間にも水面はどんどん上がって、天井との隙間がなくなっていく。
辰さんは子供心にこれは無理だ…と諦めたそうだ。辰さんのお母さんも死を覚悟したらしい。
だけど、ただ一人親父さんだけは諦めていなかった。客観的に考えれば、その体勢で天井を破るのは無理だ。でも、無理でも糞でも親父さんはドン!ドン!と何度も天井を叩き続けていた。
天井と水面の隙間はいよいよ頭一つ分もなくなって、いよいよ無理だ、死んでしまう。
と辰さんが覚悟を決めたとき、奇跡が起こった。
ベキッ!と音を立てて親父さんの渾身の拳が天井を突き破った。
すぐさま親父さんはその裂け目に手を突っ込んでベリベリッ!と人がギリギリ通れるぐらいに広げた。
辰さんが今でも鮮明に覚えているのは、
破った天井の隙間に突っ込む親父さんの手がズタボロで血まみれだったことらしい。
その後、天井裏から屋根に登って救助を待ち、辰さんの家族四人は無事に災害を乗り越えたそうだ。
「熊本水害では500人以上死んだけど、あのとき親父が天井を破ってくれなかったら、間違いなく犠牲者は4人増えてた」
ほろ酔いの辰さんはいつも、父親を誇らしげに、そう話を締める。
若い頃、初めてその話を聞いたとき、果たして自分がその立場にあったとしたらどうだろう?と考えた。
手を血まみれにしながら最後まで諦めずに天井を殴り続けることができるだろうか?
いや、殴り続けるだけでは意味がない。
その天井を破ることができただろうか?
答えはすぐに出た。絶対無理だ。
「ごめん…無理だわ」と途中で諦めてるに違いない。
それに、自分は辰さんの親父さんに会ったことが無かったので、その話を聞いて想像していたのはガチムチマッチョのパワフルな
いかつい親父さんだった。
初めて辰さんの親父さんの写真を見たのは、辰さんのお母さんが亡くなったときだ。
辰さんのお母さんがいよいよもって無理そうだとなったとき、辰さんに
「カアチャンの葬式で流す想い出ビデオをチャッピー君に頼みたいのだけど、頼まれてくれないだろうか?」
と依頼された。
当時、自分は動画編集が趣味だと自分で吹聴していて、ニコニコ動画にハマって投稿をしていた。
それを辰さんも見ていてくれたみたいだ。
辰さんには返しきれないほどたくさんの恩があるので迷うことなく引き受けた。
お母さんの人生を振り返る、若い時からの大量の写真を預かってチェックしていると、
当然その途中からは隣に親父さんの姿が現れるようになる。話では何度も聞いていた親父さんの写真を見るのは、それが初めてのことだった。
意外だった。
親父さんはガチムチマッチョどころか気弱そうな、良く言えばすごく優しそうな普通の人だった。
格闘家でも難しそうな無茶な体勢で子供を抱えながら天井を突き破ったパワフルさは微塵も感じられなかった。どの写真を見てもそうだった。
辰さんのお母さんが亡くなって程なくして、
自分も人の子の親になった。
実は自分はそれまで子供があまり好きでなくて、どっちかと言うと理屈が通じなくて動物みたいにギャーギャー騒いでる子供が嫌いだった。
だから、子供が生まれるまでは、自分の子供を愛せるのか少し自信がなかった。
でも、全然違った。
やっぱり自分の子は可愛い。
もう、とてつもなく可愛い。
これが生き物の本能なのかと思い知らされた。
辰さんの親父さんはただでさえ足場の悪い中、さらに脇に子供を抱えて動きづらかっただろうに、よくそんな体勢で天井を破ったりできたな。って以前は思ってた。
それは逆だ。
怯えて自分にしがみつく、まだ幼い辰さんをその手に抱えていたからこそ、
自分の限界を超えた力を振り絞れたのだろう。これはただの根性論で片付けられる話ではない。
これは生き物の本能で、利己的遺伝子論で言えば、生物はほぼ例外なく自分に最も近い遺伝子を後世に残すことを目的に活動している。
その最大目的のためならオーバーリミッターモードのパフォーマンスを発揮できるのではないだろうか?
誰でも一度はテレビなどで見たことがあると思う。
我が子を守るために捕食者である肉食動物に立ち向かう草食動物の姿を。
これは生き物の本能なのだ。
「母は強し」
実は、ジェンダーフリーの今の世ではあまり使ってはいけない言葉らしい。
この言葉を使うと、
お母さんだけに強さを求めるな!
とクレームが入るのだ。
でも、この言葉の本来の意味は、
可弱い女性でも子を守るためになら、
どれだけでも強くなれる。
と言う生物の本能的な強さを表したものだ。性差にどうこう言うのは見当違いなクレームだ。
自分ならその天井を破れたか?
初めて聞いたときには即決で答えが出せたが、今は少しだけ考える。
少し考えて、
自分でも子供達の命が掛かっていたらきっと破れる。
そう答えたい。
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