私が再び言葉と向き合う決意をした理由
はじめまして。
クリエイター・表現者として生きていましたが、
思うところあって活動をすべてストップし、
数年の月日がたちました。
「自己表現が苦手」
「言えば言うほど、違う気がしてくる」
表現、特に言葉での表現に苦手意識があった私が、
再び数ある表現のひとつとして「書く」ことに
取り組もうと決めた理由を、書いてみます。
1) 苦手意識は、実際のところ苦手意識ではなかった
苦手意識っていうのが、
実際のところ何がどう苦手で苦しいのかを
よーーく考えて観察してみたんです。
そしたら、
・思うような好反応を得られない苦しみ
・伝えたいことが伝わっていないのが許せない潔癖さ
・色々考えすぎて疲れ果ててしまった
・初動の腰の重い感覚
少なくとも、こんなものが出てきたわけです。
(もっとあるかもしれない)
これって、ひとつひとつ中身を見ると、
苦手意識ちゃうやん?
それらを全部、雑にひっくるめて、
そのまま凝り固まってガッチガチになったものを
「苦手意識」と呼んでいたのでは??
ということに気づいたのです。
それがわかったところで
「そうか、じゃあ表現しよう」とはならないけど、
「苦手だと思っている」「苦手だから表現をしない」
というのは違うってことになりますよね。
なんか今、
「苦手」という言葉をこんなに何度も使っていると
ゲシュタルト崩壊を起こしてきました・・・
これで名実ともに、
「苦手」意識を破壊することができました。
2) 書き言葉にのみ存在する「話者」という立場
ここから先の項目2) 3)はともに、
知人の言葉を受けての気づきです。
あくまで私個人が解釈して納得した内容、
ということになるという前置きをした上で。
2つ目は、話者という概念に気づいたこと。
どういうことかというと、
文章を読む時って
作者や書き手に思いを巡らすことはあれど、
実際のところ、
文章として世に放たれたものは、
イコール作者ではなく、
作者から独立したものとして、存在する。
むしろその文章に内在されているのは、
作者や書き手ではなく、
「話者」「語り手」であると。
そして、作者=話者では、もちろんない。
書くたびに毎回同じ話者というわけでもない。
その時々のもの、でよい。
この見解を聞いたときに、
すごく腑に落ちたのです。
私が「なんか違う」「言えば言うほどずれてくる」
と思っていた理由が。
一度発したものは、
もはや私自身と完全に一致はしない
別の生き物の精が宿っているんだなあと。
そりゃ、
「なんか(自分とは)違う」 と感じるわけだわ!!
もう、そういうもんだから仕方ないし、
それを知ってるかどうかだけで全然変わるし、
なんなら、
そんな特性を逆に生かして
面白くすることはできるかもしれない。
恐れることはない、
避けて通る理由にはならない、
と思えたわけなんです。
3) 言葉の限界を理解していることの価値
もうひとつ、
これも知人からの見解というか励ましなんだけど。
私は、昔から国語が得意です。
例えば試験なんかでも、
だいたいここ一番では数学で大失敗するんだけど、
補って余りあるぐらいに国語でカバーされている
というのがお決まりのパターン。
今までほとんどの物事を読解力と理解力だけで
乗り切ってきたと言ってもいいぐらいです。
表現力に関しても、
自分ではうんうん苦しんで発しているけど、
なんやかやで重要なポイントだけは
きちんと押さえているらしく、
「OK」と判定されて私自身は「はあ」という感じ、
なことが多かったりします。
だから、
文章や言葉も根本的に苦手なわけでは
決してないはずなのに、
言葉を使って何か人の役に立てる可能性は
あるような気がするのに、
どうしてこんなに苦しいんだろう…
というのがずっと大きな疑問だったんです。
「それは言葉の限界を知っているからだよ」
と言われて、また腑に落ちたのです。
そうそうそう!
言葉で全てを的確に表現するって、
絶対無理なんですよ。
完璧主義を目指してしまうと、
絶対にそれで苦しくなるんです。
それで、言葉では表現できないことこそが
本当に伝えるためには大切なんだ〜って思ったり。
(それももちろん間違ってないけど)
だけど、
「言葉の限界を知っているというのは、強い」
「だからこそできることがある」
という意見を聞いて、
やってみようかなと素直に思えたわけなんです。
まとめ
というわけで、
昔書いてたブログなんかは
ほとんど消してしまったけど、
また改めて、
ここのnoteを色々使ってみながら、
最初は特にテーマも決めず徒然と、
とにかく継続的に何か書いてみようと思います。
お付き合いいただける方は、
ぜひよろしくお願いします。
毎回どんな未知の「話者」が現れるか、
私自身も楽しみです(^o^)
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