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過去との再会(小説メモ)

送られてきた本を、少しだけ読んだ。
一番最初のページに、「謹呈」という文字と彼の名前が書かれた白い紙が挟んであった。

実家からその封書が転送されてきたとき、大手出版社の名前が入っていたので、すぐに書籍だとわかった。
そのまま捨ててしまおうかという想いもあった。
しかし、本好きの性で、まるきり新しいハードカバーの本をいきなりゴミ箱に捨てることなんてできなかった。
あれからもう20年弱経過しているのだから、私にとっても彼は過去になっているし、時間があるときに気が向いたらと、とりあえず本棚にそのままの形で突っ込んであった。

でも、先日本棚の整理をしていた時、その封書の存在自体が面倒になり、だんだんと読まずに捨ててしまってもいい気がしてきた。
捨てる前に、せめて最初と最後の行だけでも読むかと思い直した。

封を開けると、丁寧にぴっちりと透明ビニールで包装されていた。包装をゆっくり剥がして手に取ると、紙の表紙はまったくヨレておらず、さらっと心地よくて、いかにも届きたてという感じがした。

開く前から、あらかた予想がついてるのに、なぜ開いてしまうんだろう。
やはり、自分の中に僅かでもわだかまりがまだあるのだろう。


自分のわだかまり。
そして20年前も感じ、その後も長年感じていたことの本質を確認する為に、私はまた彼の本を開く。

数年前に著書が送られてきたときも、同じだった。

全く異なる作品なのに、数行パラパラと読んでみて、やはり同じ感想・感覚を抱く。作品の世界観や文体、視点のせいだろうか。なぜかみな似たような感じがするのだ。

彼には大きなテーマがある。いわゆる「コンセプト」と言っても過言ではないテーマで、社会的な問題に根付いた歴史的な背景とも言い換えられる個人的なテーマだ。いわゆる重ためのテーマだ。

しかし、私は知っている。

そんなテーマとは関係なく、彼自身は非常に裕福な家庭で育ち、子供のころから誰かにいじめられた経験もなく、実に円満な恵まれた環境(物質的豊かさ、人間関係ともに)で育ってきた人で、何一つ不自由はしたことがない。

見た目も人好きするし、空気を読むのが上手なので、一見するとだれかれにも好かれるようなタイプだ。

でも、内実はとても我がままで、自分が正しいと思ったことが通じないと、相手がおかしいと攻撃する攻撃性をもっていた。世の中は「正しい」ことがすべて正しく行われることなんてほとんどなくて、「正しさ」を理解はするが、殆どの人が何かしらの差別や偏見をもって生きている。それでも、彼は自分が正しさの側に立って、教科書通りの「正しさ」みたいなものを押し通す激しさをもっていた。

それに強欲だった。彼女がいても、他の女と関係をもったり、そのために男女関係で面倒なことになり、友達と決裂していた。今思えば、若さゆえの過ちといってもいいかもしれないし、そんな火遊びの一つや二つ、彼だけの話ではないかもしれないが、トラブルに巻き込まれた人たちからの彼の憎まれようが凄まじかったので印象が強く残っている。

新しく届いた本では、彼は20代前半の学生を主人公に書いていた。それをすこしだけ読んでいて、ああ、こういう事かと思った。いやあな気持ちになった。その年代に彼の身近にいただけあって、その小説の内容に既視感をもってしまうのも嫌だった。

そして小説を少しだけ読んで、すぐに思った。

やっぱり、何も知らないみたい。
何も学んでいないみたい。
自分の外側がなにもない人。
自分の内側しかない。
自分の内側の問題を、外界に投射して、すべて自分の都合の良いように理解するので、いつまでたっても本当の「他者」との出会いにならない。

「あなたが、うまくいかないのは、そのアイデンティティのせいではなくて、あなたが自分のことしか考えない人だからなんだ。
自分が本当は恵まれていて、何一つ困ったこともないのに、
いつでも「私は困ってる人」「悩んでる人」みたいに自分を主張するから。」

相手がそこにいるかのように、私は呟いた。
世間には、もっと本当に「困ってる人」「悩んでいる人」「不幸な人」がいる。そして世間の人はそれを経験し、身近に見聞きしているので、彼の作品を読んでも薄っぺらに感じるんじゃないだろうか。
なにかのコメントでやはり同じことを指摘している人がいたから、私は私と同じことを感じる人がいるのだと納得したのを覚えている。

おそらく、彼の作品が評価されるのは、ごく一部の人に限られていると思う。
彼と似たようなバックグラウンドを持つ人か、
そういう文学が好きな人のみ。
そういう文学のテーマが好きな愛好家、一部の研究者かマニアの人。
そういう人たちに囲まれて、
彼はきわめて安全な場所で、同じようなことをずっと20年弱考えてたんだなと感じた。

誰か教えてあげないのかなと思う。
いいかげん、教えてあげないのか?と。
でも、考えてみたら、昔からそうだった。
彼の周りにはそういう人しか残らなかった。
ある意味で彼をスポイルする人しか残らない、あのやり方では。
でも、彼も知りたいと思わないのかもしれない。
「外の世界」があるということ。「他者」の存在も。

わたしも、彼から離れていった人間の一人だけど、どうして離れたかについて本人に説明したかどうかすら、もう忘れてしまった。

若い時はばかだったなあ。青臭くて恥ずかしい数々の出来事を思い出す。
あれから随分時間が経過し、その20年弱の間、わたしも酸いも甘いも経験して、今やあの頃とは全く違う人間になっているかもしれない。でも、本質的に変わっていない、変われなかった部分もあるだろう。

でも、絶縁して良かったと思っている。

彼と別れて、自分は自分の道を歩もうと思って、彼とは全く違う方向へグングンと歩いて行った結果の今が、こうしてここにある。

あの頃では想像つかなかったような気付きや感情や感動を沢山味わって、今ここにこうしてあることを、自分はとても満足している。だから、彼と絶縁したことは正しかったんだと思った。

わたしのその幸せについての価値観や人生観について、彼は一生、永遠に知ることはないかもしれない。だけど、それは知らなくていいのだろう。

本がいつまで送られてくるのか、わからないけれども。数年おきに送られてくるたびに、いつもこんな風に確認することになる。定点観測の現状認識?。

初めのころは、一応、御礼の葉書を簡単に一枚送った気もする。

今回も書くかどうかで迷ったけれども、もう、いいかなと思った。

「お互い、過去は過去として、今を生きよう」と言ってやりたかった。

彼が思っているよりも、私は変わってしまったのかもしれない。いつまでも変わらない彼と、しっかり成熟したおばさんになってしまったわたし。

自分の書いた本を送ってくるのは、昔から変わらない彼流の自己顕示欲か、
成功している今の自分を相手に知らしめる行為の一つなのかもしれない。俺はこれだけ立派にやって、成功して、夢をかなえているよと。そして、自分の書いたものを読んでほしいってことでしょうけれども。

彼のその投げかけへの、ベストな返信は「無反応」「沈黙」。

永遠のディスコミュニケーション。それが私からの回答だ。











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