母との確執
思い起せば、小学生時代の頃からだと思う。よからぬことをしたことから小さないたずらまで、母から怒られることは多くあった。そんな時の母の口癖はいつも「大事な時期だから…こんなことをしないでね、やることがあるでしょ?(勉強すること)」と涙ながらに言われてきた。黙っていると、「(自分の言うことは)はい、と素直に聴くもんです。」と諭されてきた。
大人になって気づいたが、母は勉強がしたくてもできない環境で育ち、私たち子供には(私には兄がいる)に勉強し、良い成績をとることが一番価値があるのだと教育されたと言っても過言ではない。中学生になって、意気、多感が盛りの時期に高校受験の壁があった。同時に恋愛を禁止された。ショックだった。理由は恋愛に夢中になると、勉強がおろそかになるからだった。この件は絶対的だった。勉強で良い成績をとることが一番価値があり、いつの間にか私自身もそう思っていた。だが、漠然と高校に行って、大学にも行きたい気持ちは自分の中でも芽生えていたのは確かなことだった。
私は中学の部活で、陸上競技を始めた。勉強と部活に関しては母は自由に選択させてくれた。陸上を始めたきっかけは以前から苦手だったマラソンを克服したいと思いがあり、そのことをはっきり自分で意思表示したのも記憶している。体力が一番ある中学の時は本当に驚くくらい、自分の思うように身体が動き、マラソンを克服し、校内一になることもできた。陸上をやっていく中で、長距離より短距離が自分に向いているのではと思い始め、短距離と走り幅跳びにシフトする。そして、地区大会では優勝することもできた。走ることが楽しかったのは中学3年間、満喫できていた。
無事に高校に入学、高校生活も勉強の成績が一番価値があるのは変わらないままだった。高校生くらいになると、自分の意思で、物事を決定できる時期だと思うのだが、何かの意思決定を中々自分で決めることができなかった。高校の時も中学同様、恋愛禁止令は発令中だった。部活も中学と同様、陸上競技を選んだ。最初は自信があったが、ハードな練習についていけずに高校2年の途中で挫折する。
高校では勉強のできる人は上には上がいて、トップの成績を目指そうなんてことには到底叶うことではなかった。この頃には母からは自分の物差しに合った大学を目指すことがいいと話したのを覚えている。結局大学は1年浪人させてもらい、自分が入れそうな大学を選んで、行かせてもらった。
私自身が上記のことを踏まえて思っていることは、中学、高校の頃に恋愛を禁止されて、人を愛することや性への目覚め、そして人間同志の深いつき合い…このようなことが理解できないまま大人になっていった。
時を経て…社会人になり、20数年、母とは、「人を愛すること」を話す場面ではいつも衝突した。具体的に何を話したかは細かい所までは覚えていない。こんな話し合いの中で、母は祖母との話が出た。母が初めて社会人になり、給与をもらった時に祖母に1万円を渋々渡したことを話した。しかも涙しながら…返して欲しいと言うと、祖母は母が働いた1万円を投げつけて返したのだそうだ。私は初めて母が祖母との関係で癒されずに生きてきたことを理解した。この時にいろんなことが繫がった。
母は勉強したくてもできない環境だったため、子供の私に勉強できるように託した、元々他者の意見を鵜呑みにする傾向があったため、周囲の意見を絶対だと信じ、恋愛を禁止した、祖母からこころの傷を癒せずに大人になってしまい、子供の私に攻撃的になってしまったこと…など
簡単にまとめたが、徐々に高齢になった母とは適切な距離を保ちながら穏やかな口調で話すようにしている。小さな苛立ちが大きく発展する可能性があるので、気をつけている。母からはヘルプのサインがないために、母のこころの傷を癒してあげたいと思うが、何も言わずに様子をみている。私自身も新たな気づきがあれば、こころに留めて、このように記事にしてみようかなと思っている。
最後まで拙文を読んで下さり、ありがとうございました。