映画「メッセージ」を見て、時間と自我について考える#124
「メッセージ」という映画を友人のすすめで見た。
あまりにも良い映画だったので、ここに感じたことを綴っておきたい。
【映画の説明文 引用】
突如地上に降り立った巨大な宇宙船。謎の知的生命体と意思の疎通をはかるために軍に雇われた言語学者のルイーズ(エイミー・アダムス)は、物理学者イアン(ジェレミー・レナー)とともに、“彼ら”が人類に何を伝えようとしているのかを探っていく。そして、その言語の謎が解けたとき、彼らが地球にやってきた驚くべき真相と、人類に向けた美しくもせつないラストメッセージが明らかになる
時間という前提を疑うことで得る認識拡大
この映画の原作「あなたの人生の物語」とあるように、母から娘に対して語りかけるような言葉で始まる。
「記憶って不思議。いろんな見え方をする。
人は"時の流れ"に縛られて生きているけど。
でも時に"流れ"がなかったら?」
科学考証としてサピアウォーフの仮説(私たちの認識・思考が言語によって影響されるというもの)があり、映画の中でも新しい言語を獲得することで、時間が一次元にあることを覆すものだった。
こうなると今我々が認識している因果関係自体もそもそもなくなることも多い。
ヒュームが懐疑論として、言っていたことはまさにそういうことである。私たちが時間が流れるように捉えているから勝手に因果関係をつくっているだけで、そこに因果はなくただの現象なわけだ。
この時間が一次元ではないというのは、じつは結構聞いたことがある。
確かに時間は存在してなくて、記憶のある人間にとって生まれるもの。一次次元ではなく多次元のものというような研究も聞いたことがある。
日本の哲学者大森荘蔵も「時は流れず」「時間と自我」述べている。
カントも感性によって時間と空間を人間が作り出しているといっていたのも思い出した。
となると、時間というものも、現在の自我が作り出している産物なのわけだ。
「色即是空 空即是色」の色には、時間も入っていると捉えることができるわけで、僧によっては時間さえも、流れるものではなく、ただあるものとして認識されてゆくのだろう。
自我を滅することができぬ人間に、だから何なのだ?と言われそうだが、こうやって何によって現実世界が作られているかを認識すればするほど、自己の透明化に寄与すると思っている。
とある認識は、何かに影響を受けており、それが何なのかを認識できれば、時としてそれを外すことができるし、外すことができなくても何にとってその認識が生まれているかがわかれば、受容することができるし、それが未来永劫続くとは限らないと思える。
たとえ未知のものとであっても、自己や人類と違う前提条件があるならば、それを受け入れる度量もできるだろう。先日読んだ可能世界の話も受け入れられうように思う。
時間感覚の発達理論
発達理論に時間感覚を研究した人はおそらくいないだろうが、時間感覚も発達するという話を探求仲間からきいた。
発達理論で考えると、粗く考えると、プレタイム、タイム、ポストタイム(トランスタイム)とわけることができる。(人の場合をプレパーソナル、パーソナル、トランスパーソナルとわけるように)
たしかに、時間的展望をどれくらい長いスパンで取れるかは、人それぞれ、その人の発達段階があり、発達すればするほどとれる時間軸が広がる。
時間に関する認識1つとっても、多様な捉え方はある。
その点、トランスタイムというのは、時間そのもの概念がかわり、一方向に流れるものではないという発達もあるのかもしれない。
そして、時間というのが自我の産物なのであれば、時間感覚というものは自我の発達と密接に関連しながら発達していくものになる。
運命と自由意志
さて、今回の映画の印象的だったのは、最後のシーンの、物理学者イアンと抱き合う言語学者ルイーズの何とも言えぬ表情だ。
イアンと抱きしめるときにいっていた彼女のセリフ
「この先の未来が見えたら、選択を変える?」
自分だったら、自分の娘が亡くなってしまう未来を受け入れることができるだろうか。イアンが耐えられず離れてしまうのもわかるし、自分がルイーズだったら、産むこと自体を決断できただろうか。
私たちはルイーズと違って、未来が見えないと思うかもしれないが、未来が見えぬとも、近いことで言えば、私たちは予測にとって未来をみるかのようなこともある。
たとえば、私がパートナーと高齢出産にあたり、リスクが高まることを何かしらの科学的な根拠とともに確率として理解していき未来を予測する。
あるいは、過去のことでいえば、単純に自己の力不足で、大学受験に失敗してお先真っ暗のように思ったこともあった。
単に辛い未来を予測できただけでも辛いのに、未来が見えるのであればどれほどのものだろう。
自分にとって辛い未来が来るかもしれないことに、ルイーズのように、未来を、運命を引き受けていくには、相当の勇気がいるように思う。
だが、この映画を通じて、過去、現在、未来も、ただあるだけと思えば、それを引き受けれられるような気がする。
悲しみがなくなるとは思わない。
悲しみをないものには決してできない。
ルイーズであっても、冒頭のシーン、ルイーズの娘の死を迎える姿を見てもわかる。
時として、起こることは、自己のコントロールを越えたもの、運命なのかもしれない。
だが、それをどう受け止めるかは、人間の自由意志があるのだと思う。
誰も愛さない人生よりも、誰かを愛して傷つく方を選ぶ。
その傷はないものにできないけど、必ず癒えるし、死があっても記憶の中で生き続ける捉え方もできる。
そんな引き受けて生きる生き方をしたいと思った。
2021年4月11日の日記より
2021年4月17日より