聴く喜び#117
時刻は16時。
回覧板が回ってきて、一時仕事を中断する。今日は風が強く、寒い。今夜もシチューを作りたい。
回覧板をみると、伊丹空港の近くということで、健康診断が無料で受けられるらしい。有り難い。
今まで回覧板もちゃんと見たことなかったが、昨日地域とのつながりについてジャーナリングしたこともあってか、こういうことにも目を向けるような変化を今感じた。
今朝は早く目が覚め、本を読み、8時からはエールのサポーター向けのラジオにお邪魔させていただいた。
テーマは「聴く喜び」について。
この話はいろんな観点でお話ができる。
「聴く」「喜ぶ」それぞれにも発達的な深さがあるし、それぞれが相互作用する。
例えば「喜ぶ」深さであれば、単に相手から感謝されて喜ぶことや、自分の聴くレベルに成長実感を持てて感じる喜びがあれば、自他一体となる感覚での悦びもあるだろう。
私にとってどんな時に"聴く喜び"を感じるかをきかれると、セッションではないが、家族との対話があがってきて話しした。
たとえばこういうもの
ラジオは15分で話せなかったが、これを抽象化すると、いや、抽象のさせ方自体いろんな方向があるので、そのうちの1つに過ぎないのだが、利害関係があるからこそ感じられる喜びがあるということだと思っている。
エールは、今の1on1に対する課題の1つである利害関係を越えた1on1の重要性を話するのだが、逆をいうと利害関係があるからこそ得れる喜びも当然ある。
この両方を大切にしたい。
聞き手は、私のジャーナリングを読んでくださっていることもあって、ジャーナリングと聴く喜びの関連性という良い問いをいただいた。
ジャーナリングの行為自体は、思考そのものゆえに、「今この瞬間」や「今日の体験」を、1つ1つ形あるものとして、自己の中から外に生み出すので、それが自己認識を広げてくれ、世界認識を拡張させてくれ、聴く喜びへと繋がるものと思う。
私が両親のことをジャーナルで書くが、これさえもジャーナリングをしなければ両親のことをここまで考えることはないだろう。
それは私という人間の性格上どうとかあなたの性格上どうとかだけではなく、誰もが日常は、仕事があったりして、思考の矛先は、別の引力が働いているからだ。
通常働いている引力とは別の方向へもっていく行為が、私にとっては、ジャーナリングであるし、瞑想であるし、ヨガであるし、油絵や水彩画である。
そんなことを改めて感じる今日も良い機会をいただいた。
2021年4月9日の日記より
2021年4月10日
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