古代の薩摩940年 #81
最終章 隼人の乱 終焉(しゅうえん)
西暦720年に始まったいわゆる隼人の乱は予想に反して長引いた。薩摩軍の殺さぬ戦争に朝廷側は最初は面食らったのか、なかなか攻め懸けてこなかった。勇気を出して挑戦したものことごとく林弥五郎軍によって退却させられた。中央からの厳しい命令が届き、焼き払うという.火戦に持ち込んだ朝廷軍は翌年5月にようやく勝利をおさめ、鹿児島は跡形もなく燃やされつくした。1400名見事な最期(さいご)だったという。940年に及ぶすばらしい薩摩の国は大きな歴史の波に飲み込まれて沈んでいった。続日本紀(しょくにほんぎ=日本書紀につづく2番目の歴史書)によると、723年、薩摩が朝貢してきたとあるから、おそらく甑島に待機していた鮎川ら3組60人だろう。その後の彼らの動静はなにもわからないが、天皇の宮廷の護衛に薩摩隼人が活躍した旨の記述はあるから、機会をうかがっていたのかもしれない。しかし平安時代になると、もはや薩摩隼人の存在は杳(よう)としてわからないのである。
(完)
(番外編)薩摩は鎌倉時代から江戸幕末まで「島津氏」主導で日本にかかわり、関ヶ原の戦いや木曾川治水工事、明治維新、日露戦争など我が国の発展に寄与した。薩摩隼人の名を今に残している。