「錦光山(きんこうざん)宗兵衛伝」を読み終えて

著者である錦光山和雄氏が彼の曾祖父6代目宗兵衛と祖父7代目宗兵衛を中心とした陶芸家錦光山家の歴史を資料も駆使しながら丹念に執筆された名著。江戸時代中期から昭和初期までの血のにじむような努力を積み重ね、「京薩摩」という素晴らしい作品が完成し世界に流通する過程を克明に追跡されています。
さて私のような未熟者が書いていいものか迷いましたが、ジャーナリストの田中拓二氏の次のような推薦文を見て、塾の先生の血がさわぎました。それは「幕末から明治の動乱期を経て昭和初期に至る歴史を文化と経済の相関性を絡めて冷静に分析した力作」というもの。
この本を理解するために最初に初心者(もちろん私も)用の用語解説をします。
①    土器と陶磁器;釉薬(後述)の使用・未使用で区分する。縄文土器・弥生土器・須恵器までを土器という。つまり縄文時代から古墳時代くらいまでが土器。奈良時代以降中国から釉薬が伝わり。陶磁器生産が始まった。
⓶ 陶磁器;土や粉末状の鉱物(良質の粘土や・石英・長石等)を練って、成形し素焼きにしたのち、釉薬(ゆうやく・うわぐすり=耐水性を保ち絵付けができる)をぬり、1200度C前後で焼いたものが陶器とよばれ、吸水性があり透光性はない。厚手で重く、たたくとやや鈍い音がする。
一方さらに焼く温度をあげ、1300~1450度Cで焼いたものを磁器と言い、吸水性はなく、半透光性で硬くたたくと澄んだ金属音がする。
③    用途;日常生活で使う茶碗や皿類から伝統工芸品の芸術作品(花瓶・
            栽花盆・ティーセット・高盃・菓子器・香炉・茶器)まで多種多様。
④    日本の陶磁器産地;瀬戸(陶磁器一般をセトモノというほど
               普通名詞化した代表的愛知県の瀬戸市)
     京焼(粟田焼=あわたやき・清水焼=きよみずやきなど京都市)
     薩摩焼(鹿児島県いちき串木野市周辺。白薩摩・黒薩摩・ひび)
     伊万里・有田焼(佐賀県=陶工柿右衛門で有名)
     九谷焼(石川県)、益子焼(栃木県)、信楽焼(滋賀県)、
     備前焼(岡山県)など。
⑤    抹茶(まっちゃ)と煎茶(せんちゃ);抹茶は千利休でおなじみの茶
                    の湯で使われる粉末状の緑茶。
           煎茶は茶葉をお湯を注いで飲む緑茶。普通のお茶。

ここで本題に入る前に私事ではありますが、この名著を読み進むうちにふと一体自分の祖先はとルーツ探しをしたくなり、4代前までさかのぼれましたが、明治時代はさっぱりわからず、関係者は誰も生存しておらず。わからずじまいですが、私の「祖先は倭寇だったらしい。」というとんでもない話がでてきました。真偽のほどは不明ですが、ちょっと脱線させてください。
私の故郷は鹿児島県薩摩半島の南端「南さつま市」です。
近くに鑑真が6度目の渡航でようやくたどり着いた秋目海岸があり、その先は坊ノ津です。ここは奈良時代から室町時代まで博多津(はかたつ)=福岡や・安濃津(あのつ)=三重県津市とともに三津(さんしん)とよばれ貿易港として栄えました。倭寇という言葉は教科書では鎌倉時代から室町時代前期に朝鮮や中国の海岸を荒らしまわった悪どい海賊として書かれていますが、あれは表記が不十分です。今の若者にはワンピースのルフィーと思ってもらえばわかりやすいです。貿易船ですが、もちろん武装はしています。商品を売買するわけだから、東南アジア系の本物の海賊とも遭遇するかもしれません。中国でも値段交渉で折り合いがつかないときは武力に訴えたかもしれません。結局永楽帝と足利義満の間で勘合貿易を正式にすることで合意していますが、しかしその後も今ほど国家統制はできていなかったでしょうから、暴れまわったことでしょう。さらに江戸時代になると薩摩藩は堂々と琉球と密貿易をしています。私の祖先も活躍したことでしょう。皆さんも自分のルーツを調べてみたくありませんか? おっと話が大きくそれてしまいました。
実はこの本の紹介と感想を今から書くわけですが、この本は著者が敬愛してやまない曾祖父と祖父が主人公だからです。つい自分の祖先のことを考えてしまいました。私がこの世に存在するためには父と母がいる。その父と母にもそれぞれ両親がいる。10代さかのぼって江戸時代を考えると私が存在するためには1024人がいたことになる。このうちどこか一か所でも狂うと私は存在しないわけです。まことに幸運であった、自分を大事にしなければと改めて思う次第です。しかし歴史に名を遺した人物は一人もいませんが・・・。
それに比べるとこの本の主人公はスゴイ人たちです。まず、いくつかメルクマールになる出来事から始めたいと思います。最初の飛躍のきっかけは3代目喜兵衛の時、徳川「将軍家御用御茶碗師」に選ばれたことでしょう。将軍家の食事用などに錦光山家の粟田焼で作られた茶碗類一式を毎年納めるのす、名誉この上ない。
しかし江戸時代も中期になるとそれまで主流だった禁裏・公家・大名家などのいわゆる上流階級の茶の湯(抹茶)の茶器需要から町人階級の経済力の伸長による煎茶中心の茶文化が興隆してきたため、錦光山家は時代に乗り遅れてしまいます。そのことで粟田と五条坂の大抗争が勃発します。時代背景と商売に対する取り組み方の違いがよくわかります。ここは読みどころの一つです。苦しい試練を強いられますが、何とか幕末の6代目宗兵衛の登場によって息を吹き返すことができました。彼は開国後の海外への輸出という発想転換に成功し道が開けていきます。この間の日本のマニュファクチュア(工場製手工業)の陶磁器製造過程の説明が面白くてよくわかります。明治時代になり、世界の大都市で何回も博覧会が開かれ、ジャポニズムが沸騰します。「京薩摩」が人気を博し、6代目は大成功をおさめますが、バブルはすぐにはじけてしまい、失意のうちに世を去ります。「京薩摩」は7代目がさらに改良をすすめます。水金(みずきん)と呼ばれる上絵の具の一種で、ドイツのマイセンで開発された油と金の化合物です。これを塗って700~800度で焼くと表面に金の幕ができ、光彩を放つのだそうです。7代目はこのような釉薬技法の開発、意匠(デザイン)改革、アメリカ向けのティーセットなど日用品製造、工場設備の近代化などの改良をかさね、産業としての陶磁器業を完成させました。企業家としての才能を持ちながら。世界一の細密描写絵付け陶器を発表するなど、芸術家としても超一流でした。
巻頭の26ページもの写真群を見ていただければ一目瞭然です。
8代目、9代目の登場はないのでしょうか!本当にすばらしい本でした。

京都粟田焼窯元「錦光山宗兵衛伝」   錦光山和雄著
    開拓者  定価 2800円  (税別)

いいなと思ったら応援しよう!