ホモ・サピエンスはなぜ戦いをやめられないだろうか?

人間も動物の一種である。もしかしてDNAの中に生存競争を勝ち抜くための本能として「戦え」という言葉が書き込まれているのだろうか?
先日、テレビで地震で崩れたがれきの下から7歳の女の子が72時間ぶりに救出された映像が流れた。一人の少女を助けるために世界中から集まった救助隊のプロが全身全霊を傾け、必死で作業に当たる様には本当に感動した。
そして意識があるとわかったとき、世界中が涙したことだろう。
ところが一方で、同日ウクライナの子供を含む70余人がロシアのミサイル攻撃で死亡したという。なんという人間社会の矛盾だろう。あんなに一人を救うために必死だった人類が、あっという間に多くの人命を奪うのに躊躇しない酷さ。戦争を指導する世界のリーダーたちはあのがれきの下から見つかった女の子に無関心なのだろうか?そんなことはあるまい。それならなぜ戦争をするのか?原因・理由・言い分・言い訳け、そんなことを学者は分析する必要はない。戦争をやめろと言えばいいのではないか!私は太平洋戦争末期の生まれで、鹿児島市でアメリカのB29の洗礼を受けた。母親の背中で聞いたあの爆音は一生忘れられない。よくも生き延びたものだと思う。甲突川には焼けただれた死体が散乱していたそうである。痛くて痛くて川に飛び込み冷やそうとしたのだろう。こんな思いから一念発起して先月「古代の薩摩940年」を書き終えた。縄文時代から奈良時代までの940年を資料も乏しいまま、理想の共同社会としてえがいた。幸いというか薩摩には前方後円墳はない。つまり絶対権力は存在しなかった証明になるとかってに解釈した。原則は①王はつくらない。⓶一国平和主義を貫く。つまり他国を絶対に侵略しない。③税は取らない。④リーダーの選び方と在り方を民主主義の基本である選挙という方法をとらない。どうしても衆愚政治に陥る可能性が高いからだ。今の世界を見れば一目瞭然。どうしても自分を支持してくれた勢力に利益供与をせざるを得ない。強いリーダーをのぞむ風潮だが、であればなおさら、大変なことになる可能性を否定できない。日本がようやく弥生時代になろうかという紀元前5世紀にギリシャで民主主義というすばらしい方法を編み出したアテネは天才政治家と今も世界が認めるペリクレスなきあとはあっという間に衆愚政治に陥り滅んでしまう。私は独自の方法を編み出し、提起したつもりである。この4つの原則を守り抜くためには様々な工夫が必要であった。詳細は読んでいただければ・・・。
どうしても戦わねばならないのなら、スポーツで特にサッカーで決着をつけようではないか。ひとりも死なせずに済む。ロシアの若者もウクライナの若者ももうこれ以上死なせるのはやめにしようではないか。2500年前のアテネではオリンピックの間だけは休戦協定が結ばれていたそうである。
「一人を殺せば死刑、しかし1万人を殺せば勲章。」という昔からよく言われてきた矛盾。議論百出大歓迎!

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