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ルーツを辿って

僕のルーツは、東北にある。

生まれは岩手県一関市。県最南端に位置していて、合併により東京23区がまるごと2つ入るほどの総面積。生まれ育ったのはその旧市街地で、古く小さな商店街だった。以前は僕の家でも店をやっていたので、未だに近所では屋号で呼ばれる。
あんこ屋の紅屋さん。曾祖父は和菓子職人だった。

岩手県は主に南部藩と伊達藩に分かれるのだけど、僕の地元はその間に残る田村藩。坂上田村麻呂の末裔が治めた土地らしい。家のすぐ近くには川が流れ、少し歩けば城跡の残る小さな山。もっぱらそこが僕の遊び場だった。今でも帰省するたびその景色を楽しみ、夏は河川敷で友達と花火大会をするのが恒例行事になっている。

一関がまだこの商店街周辺の小さな街だった頃から、毎年8月の頭に夏まつりは行われてきた。
かつて巨大な台風による水害で、街全体が流されてしまったことから、小さな社の水天宮が建てられ、その祭として夏に3日間行われている。
僕は小さな頃から、まつりの運営の中心を担ってきた地元青年会に参加してきた。特に高校の3年間は青年部に入り、大人と一緒に神輿を担ぎ、踊り、屋台も出した。きっと、この3年間を越える夏は2度と来ないんじゃないかと思えるような、暑い暑い夏だった。
このときの経験は僕の中にかなり色濃く残っていて、地域社会との結びつきを重視する、僕のいまの保育観にダイレクトに繋がっている。地域、文化、異世代が繋ぐ縁の価値を、東京に出て改めて感じている。

話は戻り、実家が和菓子屋だった頃の思い出話をつらつら。
僕の記憶に残るのは、保育園から帰ってきて、祖母とテレビを流し見しながら店番をして過ごす夕暮れの景色。お客さんや近所のおじいさんおばあさんと、店先でだらだらとお茶しながら話す、時間の流れの遅い日々。
あるいは、裏庭で妹たちと遊んだ記憶。店を潰し家を建て替える前は、裏の蔵との間に工房と庭があり、あまり手入れもせずに茂った草の間からは、時々蛇が出た。祖父がゴミばさみで掴み、祖母が段ボールに押し込む。その後はどうなったのやら、二人とも他界した今では知る由もない。川に流したというのは、幼かった僕らに適当に言ったことだろうな。
蔵は非常に古いもので、むかし島崎藤村に寝床として貸したと聞いたことがある。本当のところは裏にある酒蔵の方に泊まったようで、「島崎藤村ゆかりの地」と書かれた碑もある。今も補修しながら使っているうちの蔵は、カビ臭く、薄暗い。中は2階建てになっていて、家としても充分に思える広さがあるのに、使っていない皿や座布団、引き出物のタオルや茶碗に古本ばかりが詰まって非常に狭い。あまり、面白いものもない。蔵は二重扉になっていて、重く厚い漆喰の引き戸は、ファンタジー映画ぐらいでしか見ないような馬鹿でかい南京錠をこれまた馬鹿でかい鍵で開け、思い切り体重をかけて引く。もう一つ金網の軽い引き戸もついていて、これだけ閉めておくと、隙間から差し込む月明かりが宙に埃の筋を書いて、美しい。
幼いころ、何かの理由で母にひどく叱られ、夕闇のなか蔵に入れられたことがある。後にこのことは母が思い出すたび何度も何度も謝られるのだけど、今になって想像すれば、確かにひどくはあるがワクワクもする。蔵の中でも白熱灯で申し訳程度の明かりを確保でき、カビ臭く古本が積み上げられたその空間に籠るのは、まるで古い作家のようだ。実際、藤村の他にもこの辺りの蔵は文学やその他芸術との浅からぬ所縁があって、幸田露伴や色川武大、井上ひさしに谷川俊太郎と関わりのある作家は多く、蔵を改修したジャズ喫茶ベイシーは、日本一音が良いと言われ、オーナーの後輩であるタモリも毎年ここを訪れている。どこも僕の家から徒歩30秒圏内。

蔵の外壁には、和菓子屋の看板が野ざらしで立てかけられている。「紅屋」の字は塗装が剥げて、ボロボロに崩れ見るも無残。でも、それがかえって趣深いじゃないか。僕は思ったりもする。何もないようで、ボロボロになっても残るものがある。形は崩れても、屋号としてそこに暮らす人の記憶と関係性の中に残っている。田舎は田舎なりに、何もないようで、都会にないものが何でもある。それもきっと、都会を分解して分解して、小さな地域を見出したときに、自ずと浮かんでくるものだと思う。


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