手段の目的化は一概に悪ではない
社会人の方には、「手段の目的化」という言葉を耳にしたことがある人も少なくないかと思います。
自分も、会社で生活しているとよく聴きます。
この「手段の目的化」という言葉、普通に使用される時は大抵批判的な意味合いを帯びます。
たとえば、元々、何かを成し遂げるために定例ミーティングをしていたとします。で、そのうちメンバーが入れ替わったりして、目的が薄れていき、ただの進捗確認の場になってしまったり。
一方で、プライベートに当てはめてみると、この「手段の目的化」は、充実した人生を送る上で大切な要素となる気がしています。
たとえば、ランニング。
自分は、フルマラソンの感想も数回して、フルマラソン以上の距離のトレラン大会で完走したりとそれなりに走ることにこだわりがあります。
よく聞かれるのが、
❶何のために?
❷なんで自ら苦しいことをわざわざするの?
といった質問。
よく考えてみると、❶の発言者には、走り続けた先に何か目的とするゴールがあるという思想が前提になっています。
資格試験に受かるための勉強、みたいなイメージでしょうか。
確かに、Nkg減量したいとか健康診断の数値をどうしたい、ということが目的であるとするならば、走ることは手段になりえます。
しかし、自分はすでに健康診断はほぼオールAで自分の理想とする体重もキープできているので、手段、ではなくなっています。
多少、暴飲暴食対策で定期的に運動しているという面も無きにしも非ずですが・・。
そんな状況なので、走ること自体が目的になっています。
頭を空っぽにして、時にはオーディオブックに耳を傾けながら淡々と足を動かす。爽快感と満足感のような感覚を得ながら、シャワーを浴びてリフレッシュする。
そのルーティン自体に意味があるなと思っています。
競争化社会の名のもと、我々の生活には必要以上に効率化の波が押し寄せてきているように感じています。
この本でも主張されているはずですが、我々の過ごす時間というのは、決して将来への準備のため(もちろん、そういう時間が必要なタイミングがあることは否定しませんが)だけのものではないはずです。
準備をしている間に死んでしまった、そんな笑い話で人生を閉じたくないですよね。
そのために必要なことの一つが、何かを達成するために時間を使う、というのではなく、達成するための手段自体を心から大切に、充実したものにするという発想の転換かのかも知れません。