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自己紹介
これまで、思いの丈を雑記がてらnoteに綴ってきたわけですが、noteのサイトの記事を見ていて、ふと「自己紹介でもちゃんとしてみようか」と思い立ちました。
思い立ったが吉日。
あまり興味がある方もいらっしゃらないかもしれませんが、自分の過去の整理の意味も込めてつらつらと買いてみます。
誕生〜小学生
昭和60年(1985年)8月生まれ。生誕の地は秋田県の現潟上市と言うところ。結構な田舎で、家の敷地には砂利のでかい駐車場があるような環境でした。
そんな場所で、造園会社に勤務する父親と専業主婦の母親のもとに生まれました。
予定日よりだいぶ早くの誕生だったようで、母親が救急車で病院に担ぎ込まれての出産、両親には生まれる時から迷惑をかけていたよう・・・
2歳上に兄がおり、まだ先の話になりますが3歳、5歳下の妹という4人兄妹と言う自分たちの世代では割と珍しい6人家族。
高校卒で土木系に就職した父親、専業主婦の母親、そして4人兄妹。
経済状況はそれなりに苦しかったと思いますが、振り返ってみても金銭面で惨めだなと思ったことは皆無。
これは、両親の頑張りによるものと今になって思います。
母親なんか、「うちの財産は子供だけだからね」と常々いっていて、贅沢をしている姿を見た記憶がありません。ちなみに、財産は子供だというのは、ちょっとマジな部分があり、玄関の施錠もそんなにちゃんとしないと言う今思うとツッコミどころ満載な母親です。曰く、泥棒が入っても盗むものがない、のだそう(?)
3歳を迎える前に、父親の仕事の都合により仙台へ移住。
幼稚園に通う兄の姿を見、自分もいきたいと言い出したらしく年少組から幼稚園に通っていました。
それなりに(?)ヤンチャをしてしまったようで、道路標識に登って反動をつけて揺らし、曲げると言う悪事を働いたこともあるそう。すみません・・・
近くに同級生がおり、毎日のように一生懸命遊んでいました。
小学校時代
小学校に上がるタイミングで、再度引っ越しを経験します。
同じく仙台市内だったので、今考えると些細なことかもしれませんが、家も変わり、周囲の環境もガラッと変化するということでそれなりの緊張感があったことを微かに覚えています。
残念ながら、この時期はあまり明瞭な記憶が残っていません。
ただ、それなりに太っていて、自分なりに結構気にしていました。
他人の体型をいじるのはよろしくない、と今も強く思いますがこの時の経験なり感情なりが作用しているような気もします。
いくら頭ではわかっていても、当事者にならないと決して感じることのできない思いがある。
あと、スポーツ少年団でサッカーをしていました。
周囲に流されての入団、特に強い思い入れがあるわけでもなく・・・もちろん、そんなんだから特に上手くなるわけでもなく。球を蹴って遊んでいた、その程度でした。
中学校時代
そんなこんなで、順調に地元の(田舎の)中学校へ。
少しずつ、この頃からは断片的ではありますが記憶が残っています。
部活、と言う面では卓球にのめり込みました。
今は日本の国際的な活躍もあり、「卓球選手になりたい!」と言う子供たちもいるような時代ですが、自分が中学生だったことは暗い・目立たない・大人しい人がするスポーツと言うようなイメージがあったように思います。
入部してくるのも、部活には所属する必要があるものの、文化系には行きたくない。楽そうな運動部が良いと言うモチベーションの者が大半でした。
自分ともう一人の同級生だけは真剣に取り組み、そういったモチベーション低い組との衝突もあったものの、個人で市の強化選手になるくらいには頑張りました。
付近の小学校で大人たちに混じって夜練するくらいにハマりました。
(たまたま出会ったコーチは、息子がインターハイベスト16か32に入るくらいの実績のある方で、結構厳しかったですが・・・)小学生時代にゲームにハマりすぎて母親にゲーム機を取り上げられるという事件がありましたが、それに負けないくらい、卓球には一生懸命でした。
それなりに真面目に授業を受けていたこと、田舎の中学校と言う相乗効果(?)もあり、成績は学年300名程度で一桁をキープしていました。
どうしても勝てない女子が1名おり、結局は学年1位になることは一回もなかったですが、「そこそこ優秀」と言う感じ。
今も思い出すのが、中学3年時の三者面談。
最終的に志望校を決めるような場で、自分は兄も通っている県内の進学校にいきたいと言う希望を担任に伝えたところ、
「厳しいから志望校のレベルを下げて安全圏の学校を受けたらどうだ?」
と言われました。
たしかに、学校の成績はそこそこ良かろうが、所詮は田舎の学校。井の中の蛙だったことは否定しませんし、模擬試験の結果から見ても、第一志望の学校は安全牌ではなかった。
担任としては、落ちて欲しくなかったと言う親切心もあったのでしょうが、なんというか、残念な気持ちになったことは今も鮮明に覚えています。担任の顔も、フルネームも覚えています・・・恨んでいるわけではありませんw
で、その帰り道、同席してくれた母親と、悶々としながら歩いているとポンと背中を叩きながら
「合格して、見返してやろう」
と一言。
この言葉で、受験を決意するとともに、勉強に向かう姿勢もだいぶ変わりました。
ドキドキしたものの・・・結果は無事合格。
成績を開示してもらったら、確か420〜430/500点だったような記憶があります。
県内トップの進学校というだけあって、490点近く取る猛者もおり、余裕で合格というわけではありませんでしたが、
・目標を定め
・それに向かって日々積み重ねる
ということをして、成し遂げるというプロセスを自分で回して経験した、最初の体験だったように思います。
プライベートでは、中学3年時に初めてお付き合いを体験しました。
今から考えると、顔から火が出るような、相手の方には申し訳なかったような苦い経験ですw
ある時、傘をさしながら帰っていると、のちに彼女になる方が傘の中に入ってきて告白されるというドラマのような展開。自分も、その子に好意を持っていたので天にも昇るような気持ちでした。
年齢的なこと、受験も控えていたという状況もあり、特に大きなイベントがあったわけではないですが、手を繋ぎ、一緒に帰るというだけでニヤニヤしてしまう、そんな若かりし頃の自分でございました。
結局は長期休みが明けてから関係がギクシャク、受験のためにも別れようということになりお別れしてしまいました。今も元気にしてるかな。
高校時代
で、無事に県内の進学校に入学したわけですが・・・この学校がいろんな意味ですごかった笑
第一の特徴としては、今はあまりない男子校でした。
多少偏差値は高かろうが、この年代の男子高校生が考えることはほとんど一緒。
体育祭では一糸纏わぬ姿になってアナウンスで厳重注意を受けたり、どうしても女子高生が見たいと、天体望遠鏡のレンズを最寄りの女子高に向けたら苦情がきたり、人間というよりも動物園に近いような・・・。
覚えたての三角関数を用い、エスカレーターで女子高生のパンツを見るにはどうしたらいいかを一生懸命に解こうとしている友人がいたり、TSUTAYAでエッチなDVDを借りたいがために学生証を偽造したり、みんな知恵を絞って生活をよりよく(?)しようと頑張っていました。
ちょっと知的に全力でふざける、という楽しさに気付いたのもこの頃かも。
一生懸命バカをし、たくさん怒られましたが、勉強にも部活にも全力でした。
予備校には通いませんでしたが、先生方のレベルも概して高く、長期休みには受験対策用の講義もしてくれたり。
浪人生を多数輩出するので有名な学校ではありましたが、みんな、自分の第一希望の学校に合格すべく、全力でした。土日にも学校に来て勉強してる同級生もいたり、周りに刺激をもらいながら・支え合いながらの受験勉強でした。
そんな中、高校3年生の時に担任から言われた一言は今も生きる指針になっています。センター試験が終わった直後だったかと思います。
”よかった者、悪かった者、希望通りの学校を受験するもの、はたまた、変更するもの。いろいろだろう。でも、お前らは棺桶に何を持って入るんだ?学歴なんて持って入れないんだぞ?そこ、考えろな。”
受験、というより目の前のセンター試験の結果・数字に一喜一憂する自分達が少し冷静させる意味もあったのかもしれません。
確かになぁと思った言葉でした。
自分はセンターの平均点が80点ちょうどくらいという微妙なラインでしたが、第一希望の旧帝国大学工学部を受験することとしました。
滑り止めなしという背水の陣で臨んだといえば格好いいですが、親からあっさりと「私立に行かせる金はない!」と言われてしまったため、前後期ともに同じ大学の学科を受験するという、戦略もクソもない受験w
だったのですが、前期で落ちて後期で受かるというミラクルが起き、無事、現役合格を果たしました。
大学時代
研究室に配属される前の授業の記憶がすっぽり抜けとる・・・という残念な状態です。ただ、心理学(錯視)とかは結構面白かった記憶があります。
内館牧子さんが所属していた宗教学の教授の授業もあって、それも結構面白かった。
体育会の運動部に所属し、七帝戦という毎年全国の旧七帝国大学が集まって争うという大会で2連覇を果たしたり、厳しいと言われていた私大に1回だけですが勝利したりと、それなりに充実した部活動生活を過ごしました。
今も、結婚式や年賀状でやり取りするのはこの頃の部活の同期が結構な割合を占めています。
プライベートでは大学生あるで合コンに行っては彼女を作る、そして別れるというのを数度・・・。
通っていた大学は、学部4年から研究室に配属となり、多くはそのままプラス2年の修士課程に進みます。
特に「絶対これをしたい!」という強い希望もなかったのですが、系の中ではそれなりに厳しいらしいと言われる研究室に入りました。
取り扱うテーマに興味があったこと、教授がそれなりに有名だったこと、(謎の真面目さが作用して)ちゃんと勉強しようという風に思ったこと。
そういった要因が複合的に組み合わさっての研究室選びでした。
歴史なり過去にifはないというのはよく言われることですが、結果、将来の仕事の内容と結びついていたこと、社会人ドクターとして研究室に戻ってくるきっかけにもなったこと、多種多様な経験ができたことなど、良い選択だったと思います。
研究室時代にスリランカに行き、道は舗装されていない、電気は定期的に止まるといった状況を体験できたこともあってか、インフラの重要性を痛感しました。
それも、就職活動時の会社選択にも大いに影響しました。
自分がスリランカにいった2009年頃は、テロが発生したタイミングでもあり、その爆発の跡地が生々しく(黒こげ)で残っていたり、2004年インド洋大津波で流されていた電車が残されていたりと、平和なり安全について考える機会も得ることができました。
そんなこんなで、インフラ業界に滑り込みました。
文系の友人は数十、数百という数のエントリーシートを書いていて大変だなぁと思ってましたが、自分は5社程度。しかも、大学の推薦を使ったので面接1社で決まるという極めてスムーズな就職活動でした。
社会人時代
で、無事に社会人になりました。
最初の勤務地は新潟県のかなりの田舎(コンビニまで、車を飛ばしても10分程度かかる)でした。
入社してから約1年で東日本大震災が起こりました。
会社員としても、人生・価値観も大きく揺さぶられた出来事でした。
知人には、婚約者が津波により命を落としてしまったという人もおりました。震災直後から、「連絡がつかないんだけど何か情報はないか?」と自分も情報提供を求めら得ていたので、結果を聞いた時には、驚きと悲しさと虚無感のようなものが入り混じった、複雑な感情を抱くとともに、人間の命の儚さを感じました。
自分の実家は幸いにも内陸部にあったので津波による被害はありませんでしたが、揺れによって屋根が破損したりと影響はゼロではありませんでした。
地震発生直後に仙台にいる両親に連絡をしたものの、すぐにはつながらず、兄妹含めて全員の無事が確認できたのはその日の夜になってからでした。
翌日、高速道路は通行止めだったので下道で仙台へ向かいました。
・流通が止まり、山形・宮城県では非常食を含めて入手が困難な状況であること
・同様に、ガソリンの入手も難しいこと
がわかったので、2回目以降の帰省の際には携行缶にガソリンを詰め、新潟で食料を買って帰ることにしました。
初回の帰省の時、両親もショックを受けているだろうな・・・と思って家に着くと、昔の結婚式の引き出物でもらった超巨大なローソクをリビングのテーブルに立て、「ついに使う時が来た!」と笑っている父親がおり、気が抜けたというか、どこでもこの人たちは生きてくだろう、と思ったり。
水道、電気、ガスが全て止まっており、トイレの水も近くの川に汲みにいったりで原始的な生活(すぐ、給水車が来るようになりましたが)。文明の力のありがたさを改めて感じる機会にもなりました。
で、数回の異動を経て、仙台の勤務となり、たまたま研究室で扱っていたような内容と重複する業務を担当することになりました。
学術的にも最先端に近い(土木分野では結構そういうことが多いかもしれません)分野を取り扱う必要もあり、ある程度業務経験を積んだのち、社会人ドクターとして以前いた研究室の先生の元に戻る決断をしました。
3年間の研究生活ののち、2023年の3月、無事に学位取得に至ったというのが、駆け足ながら自分のこれまでの生い立ち。
大学時代に海外旅行にハマったこと、社会人ドクターの生活など、もうちょっと深掘りしたい部分もあり、今後つらつらと綴っていきたく。
何もない人生だなぁと思っていましたが、改めて振り返ると、いろんなイベントがあり今に至っているのがよくわかりますね。