終わりのその先 第5話【お仕事小説】
優秀って、何だ
6月も終わりになると、本格的な夏に向けて街はそわそわとしはじめた。
秀樹たち昭和入庁組では、時々思い出したように同期会が開かれる。
ビールがそろそろ美味しくなるとの理由で、同期入庁の14人が7月の初めに居酒屋で集合した。
「今日も一日、お疲れさまでした!
こうして久しぶりに集まれたことに、カンパ~イ!」
昭和61年に入庁したときに、研修でクラス代表をつとめていた花田春樹が、A級幹事(永久幹事)として、威勢よく乾杯の音頭をとった。
刺身や焼き物の皿が、出されるそばから手渡しで奥の席へと送られ、ひとしきり宴会料理を食べながら、近い席の人と話をする。
花田は、南海区にある亀田税務事務所の賦課課長をしている。
同期入庁の仲間は、局長から一般職まで職位はバラバラだが、新採用の頃からの互いに呼び捨てしあう関係性が、ずっと続いている。
「おい、東郷。お前んところ、この前大変だったよな」
「いやー、そうなんだ。
優秀だと思っていた部下があんなことになってしまって、本当にかたじけない。情けないやら、悔しいやら。俺の指導力のなさで、ふがいないですわ」
「うーん、そうだよな-」
指導力がないと謙遜したつもりだったが、そこも肯定されてしまった。
でも事実だ、しょうがない。
秀樹は、花田のグラスにビールを注ぎ足す。
花田は、
「で、お前はどうするんだ?」
と、秀樹の目を見ながら聞いてきた。
「どう、って」
「来年以降、市に残るのか」
「いや、まだ決めてないんだ。いろいろな道を探ってみようと思っているんだよ」
「そうか。お前は?」花田に尋ねると
「俺は、残るよ。係長になって、やっていく」と、すかさず答えた。
そして「お前も残れば、どっちも係長だな」と愉快そうに笑った。
部長まで昇進した秀樹も、課長の花田も、60歳の声を聞いた途端、同じ職位になる。
ここで花田は、少し離れた席にすわっている谷口の方を見やって
「谷口が、一番出世しそうだな」とつぶやいた。
谷口一也。
同期入庁だが、彼は高卒で入っているので、この中では一番若い。
本庁の政策企画局のデジタル企画部長として、先日、新聞に今後市がどのようにDXに取り組んでいくか、インタビュー記事が掲載されていたばかりだ。
「そうだな。分からんもんだ」
そう言って、秀樹はビールをぐいっと飲み「ハイボール!」と注文した。
「まあ…、あいつは優秀だから」
花田はそう言いつつも、心中ではきっと秀樹に同意したいのではないか、と秀樹は考えた。
花田は、日本でも五本指に入るほど偏差値の高い三橋大学の法学部を出て、政令市である上浜市に行政職として入った。
事務系の行政職として、最も優位に立ちやすいのは、法令の基礎知識がある法学部出身者だ。
法学部卒の花田もご多分にもれず、優秀な若手職員として周囲の期待を集め、出世街道をひた走るものと思われた。花田自身も、同期のクラス代表をすることよりも、この大都市を背負って立つつもりでいたのではないだろうか。
だが「高学歴の法学部卒=優秀」という構図は、いつの間にか成り立たなくなっていた。
生え抜きの職員だけではなしに、中途採用の民間経験者を重用するようになった風潮、大卒が高卒に比べて必ずしもアドバンテージを持つ状況ではなくなってきた情勢。いずれも決定的な要因ではなくとも、役所の人事の潮目が変わってきたことが、肌で感じられるようになってきていた。
秀樹も旧七帝大の南都大学出身で、エリートと呼ばれる部類だったが、法学部ではなく文学部の史学科だった。法律や経済の問題が多い公務員試験は苦手だったし、法律と施行規則や施行令の関係、条例のしくみについても、入庁してから学んで身につけたものだ。
ましてや高卒の谷口は、法令の基礎知識もなかっただろう。
でも、実際に仕事をしていれば、環境や本人の努力でさまざまなことを身につけることができる。
下剋上も起きるのだ。簡単に。
花田が、ぽつりと言った。
「入社する時って、大卒の方が高卒より初任給が高いだろ。4歳年とっているからそりゃそうなんだけど、高卒は4年長く仕事して給料もらえるから、生涯賃金で見ると、結局高卒が勝ち組なんだって」
「へえー、そうなんだ」
その後も数人と話をし、その度に「今後どうするのか」と聞かれ、答えをぼやかし(本当にぼやけているのだが)何ともすっきりしない心持ちで、秀樹は居酒屋を後にした。
二次会に誘われたが気が乗らず、またな、と一人で帰路についた。
再会
帰路についた。筈だったが、さりとて本当にこのまま家に帰るのも気が乗らなかった。
なんとはなしに本条の方面に歩いて行って、昔から続いているエル・マンゴという南米料理の店に入っていった。
秀樹の顔を見ると、CDを流していた店主のヨウさんは、にっこり笑って片手を上げた。
テーブルにつくと、ピスコというペルーの酒を頼み、サルサの音楽に耳を預けた。
たまにぶらっと寄る店だが、コロナ禍の憂き目に遭ってもつぶれることなく、いつもそこに在ってくれる不思議な安心感のある場所だった。
ヨウさんがピスコを運んで来て
「元気? 今日、彼女来るよ」と言った。
驚いた。本当だとすれば、今日秀樹がここに導かれるように来たのは、神様のお導きだったのかもしれない。
そして、ほどなく本当に彼女は入って来た。
瀟洒な麻のワンピースに身を包み、オーガンジーのショールを肩にまとった浜崎百合華は、公務員には見えないあでやかさに包まれていた。
アルコールが回って、顔をほんのり赤くしていた秀樹は、ますます頬が火照るのを感じずにはいられなかった。
百合華は、入り口の近くでヨウさんと何か話すと、秀樹のテーブルに近寄って来て、
「今日来てたのね。ここ、いいかしら?」と空いている席を指でさした。
「ああ、どうぞ」
「偶然ね。今日、カズさんのDJがあるって聞いて来ようと思ったのよ」
「ああそうなんだ。俺は、今日同期の飲み会だったから、近くに来たんだ」
「あら、そうなのね」
「うん、久しぶり。元気だったか?」
「ええ。この前まで忙しかったんだけど、議会も終わったから平常業務に戻ったところよ」
議会、と聞いて秀樹の胸がチクリと痛んだ。
本庁の部局では、議会業務というものがあり、年4回の定例会と年1~2回の臨時会の会期中、いや会期よりだいぶ前から準備をする必要がある。
本会議で答弁するのは、市長、副市長、教育長、それに各局長だが、予算特別委員会と決算特別委員会では、各部長が答弁をする。その模様は、インターネットで放映され議事録にも残される。失言は許されない。
この大都市で「部長は大変」だとよく言われるのは、議会答弁があるから、というのが暗黙の了解だった。
ただし、区の部長には議会答弁の機会はない。
「楽でいいよな」と言われることが、秀樹には苦痛だった。
心残り
カズさんのDJが、始まった。
ルイス・エンリケのヨ・ノ・セ・マニャーナに
セリア・クリスのラ・ビダ・エス・ウン・カーナバル。
心地よく懐かしい、かつて二人を結びつけていたサルサをBGMに、百合華もショートカクテルが少し回ってきている様子だった。
「懐かしい…」
彼女は首をほんの少し傾け、遠くを見るような目で呟いた。
「私、この曲ほんとに好きだったんだよね」
潤んだ瞳は、過去と現在を重ねて余韻に身を委ねたゆたっているようにも、過ぎ去った昔への憧憬にまどろんでいるようにも見えた。
「今って、どうしてるの?」
秀樹が気になっていたことを口にすると、彼女は
「え、どうしてるって、何を?」
そう質問の意味を確かめながら、本当は分かっていたに違いない。
何故なら、ひと呼吸おいて彼女は
「今は、また一人よ」と言ったからだ。
秀樹は、なかば確信に近いものを持った。
これは、誘っているのではないか。
二十数年前のあの日の続きを、自分に求めているのではないか。
自分も、思えばずっとあの時から心残りを抱えていたのだ。
あの頃、二人は35歳と29歳。
同じ職場で仕事をするうち、強く惹かれ合っていることを互いに認識していたが、秀樹はちょうど翔馬が生まれて間もない頃で、出会う時期が遅かったことを悔やんだ。
二度三度と、エル・マンゴでサルサに耳を傾けながら共通の時間を過ごした。
独身の百合華は若く、一人では抱えきれぬどうにもならない思いを全身でぶつけてきた。
仕事で遅くなった日の夜、本条川のふもとの川辺で
「奥さんと別れてとは言えない。赤ちゃんが生まれてすぐだし、私だって女だから逆の立場なら絶対にイヤだと思う。でも、止められないの」
と溢れる思いを両手に込めて、泣きじゃくりながら秀樹の胸を叩いた。
秀樹は、彼女を腕で抱きしめながら「ダメなんだ」と、子供をなだめるように頭を優しくなでた。
なぜあの時、自分も思いを遂げなかったのか。
やれば良かったのだ。
変なところで我慢強く、常識人ぶっていたことが悔やまれ、後々ずっと心残りを抱えていたのだ。
そしてまた、その機会がとうとうやって来たのだ。
俺は、まだまだ終わってなんかいない。
「店、出ようか」
喉から絞り出されるように発した言葉は、カラカラに乾いてかすれていた。
――――第6話へ続く