終わりなき旅のはじまり③

ほかほか弁当「きゃり亭」は順調に売上を伸ばし忙しい日々が続いた。高校生の四女の姉も手伝いに入る事が多くなった。姉たちは美人と言われる事が多く、弁当を買いに来るお客さんの中には姉目当てで来る人もいたそうだ。

そんな中、僕は地元の少年野球部に入った。

その頃の僕は高校野球が大好きで、甲子園の季節になれば1日中テレビから離れないほどだった。

当時の甲子園といえば、やまびこ打線で旋風を巻き起こした徳島県代表の池田高校を、桑田、清原を擁する大阪代表PL学園が下したかと思えば、翌年には、全く無名だった茨城県代表の取手ニ校が決勝でそのPL学園を下すなど、群雄割拠の時代、今思えば、強きものを一丸となって倒すという物語に夢中になってたのかなとも思う。

そんな影響もありつつ、地区で1番強いチームを倒すぞと、日々練習を重なていき僕の打率は4割を超え3番バッターとして小学5年の頃には不動のポジションを手にしたが、ある日を境に全く打てなくなった、バットにボールが当たらないのである。

そんな頃、週に1回くらいだろうか、学校から帰ると少し変わった服装のおばさんが母と楽しそうに話してる光景を目にする事があった。

ある日のこと、そのおばさんが僕に言った。

「道具かな、道具よ」

なんだこのおばさん?と思っていたのだが、
そのおばさんは後にテレビでも有名になる宜保愛子さんだったことを母親から聞いて後から知った(テレビに出て有名になってからはすっかり疎遠になってしまったそうだ)。

道具かぁ、と、足りなき頭で考えた僕は、今まで使ってたバットを違うものに変えた。すると面白いようにボールがバットに当たるようになり打率は徐々にまたあがっていった。

これまでの人生の中で幾度となく考える事になる道具との相性、その切っ掛けとなる出来事だった。

転校、いじめ、喧嘩、野球と少年時代を普通に過ごす事が出来た小学校時代、一緒に暮らしてた母親、長女、4女、近くにアパートを借りて暮らしてた次女と3女、それぞれに新しい変化が出てきたのもこの頃だった。

父親と母親が正式に離婚、
1番上の姉がお見合いで結婚、
2番目の姉の様子が最近元気なくおかしい、
3番目の姉は東大を卒業し就職、
4番目の姉は竹の子族のような風貌に変わる。

一緒に弁当屋を切り盛りしてきた1番上の姉が結婚したからだろうか、スカーフ業の景気が好調だったからだろうか、母親は順調だった弁当屋をやめ、厨房を再び改装、ミシンを置き、パートを雇い、またもやスカーフ業を始めた。

時は1984年、バブル景気と言われた時代の始まりの頃である。

※終わりなき旅のはじまり③終わり

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