終わりなき旅のはじまり13

韓国での生活にもだいぶ慣れてきた頃、学校に通いながら、三女の姉の友人の延さんに連れられて韓国のライブハウスをよく巡った。

この頃の韓国のアンダーグランドシーンはなかなか面白く、活動の場を探すバンド達が沢山いて、とても熱いものを感じたのを覚えている。

1983年に公開された「竜二」という映画があった。松田優作さんを辿っていくうちに巡り会えたのだが、この映画を制作した金子正次さんの生き方が僕はとても好きだった。

金子正次さんは映画公開の数週間後に、自身の作品がようやく陽の目を浴びたのを見届けるように亡くなってしまうのだが、奇しくもこの金子正次さんと松田優作さん、盟友だった2人の命日が同じ日という逸話を知り、人と人の繋がりや縁から生まれるもの、そこから生み出されたものに非常に興味を持ち始めた頃で、当時、何かをやりたいという韓国の若者からは同じようなその熱さみたいのをとても感じたのを覚えている。

話は戻り、この頃の韓国には、日本の音楽関係者がよく出入りしていた。いずれ来る日本と韓国の文化の開放を若いながら予感しつつあった時だった。

そんなある日、2週間後に迫ったライオン丸のコンサートの準備をしてた夏のある頃、大学路のカフェ「Sun&Fish」に日本からお客さんが来ていた。

ピーヒャラピーヒャラで有名なあの曲のプロデュースをした方々だった。

食事などお供させてもらいつつ、その頃大好きだった、はっぴいえんどの話、60年代、70年代の当時の話を沢山聞かせてもらえた。帰り際、お前若いのによく知ってるな、日本に帰ってきたら訪ねて来いと名刺をくれた。

少しづつ自分のやりたい事、進む道が見えてきた頃だった。

1994年9月、僕はライオン丸とポッキーズの面々を日本から呼び、まだ日本語の歌が禁止だった韓国でライオン丸のコンサートをソウルの大学路にあるカフェ「Sun&Fish」で行った。

観客は80人ほどで、何かを自分達でやるという事の最初の1歩だった。

一方その頃日本ではバブルが崩壊し、景気が悪化、母親にもその影響が出てたことを僕はその時は全く知らなかった。

終わりなき旅のはじまり13。終わり。

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