終わりなき旅のはじまり22
父親の葬儀を終えた僕は仕事のためすぐさま韓国に向かった。
2000年6月5日、6日、韓国の大学路にあるライブ劇場で「JPOP FESTIVAL」が開催された。
韓国政府公認の初の日本のアーティストの単独コンサートだった。
日本からはEPO、ケイコリーが参加、前座にはインディーズバンドのHaccis cloverが出演した。
韓国で日本の音楽が開放された瞬間だった。
この後、スピッツ、チャゲ&飛鳥などが韓国でのコンサートを開催、日本でも韓国のロックバンドを招待してのイベント等も多く開催された。
この頃、姉、父親が相次いで亡くなった母親は元気のない日々を過ごしていた。
音楽に没頭することおおよそ10年、姉の死を切っ掛けに家族の事をよく分かってなかった自分に気がついた僕はこれを機に音楽の仕事から離れ、これからの生きる道として飲食業につき、一から始めようとしてた。そんな頃、三女の姉からあるレコーディングを頼まれた。
もう音楽はやらないと決めていた頃だったが、
沖縄最後のお座敷芸者、今残さないと失われてしまう歌があること、83歳のお婆、お座敷ライブ録音、そしてお婆の言葉、
オギャーと明かり見て生まれてきたんさ、
何があったて元気に生きにゃ
バチがあたるさね。
自分が売られた値段は二百五十円さ。
あたしを売っておとうちゃんは
サイパンへ出稼ぎに行った。
生きるためさ。
歌えば年が逃げてくさ。
心が明るく咲くもんさ。
このお婆に心惹かれるまま、これが最後と自分の中で決めて僕は録音機材一式を持って沖縄石垣島に向かった。
2003年12月の頃だった。
終わりなき旅のはじまり22。終わり。