終わりなき旅のはじまり⑦

1988年4月 高校生活が始まった。

校門には毎朝先生が2人、ポケットの中、カバンの中、学ランの丈、太さ、髪の毛の色、長さをチェックするために立っていた。

恐ろしく怖い柔道部の先生がいて、タバコの葉っぱが見つかった生徒が、なんだこれは?この野郎ーと校庭を引きずり回されている光景を見ることもしばしばあったが、ハラスメントなんて言葉がなかったこの頃はこれが普通で、偏差値低く不良も結構いた学校だったが規律はよく守られてたと思う。

名門野球部があったためか、食堂が完備されその上には野球部の寮があった。野球部を中心に回ってるような高校だったが居心地はとても良かった記憶がある。

入学した年の夏、野球部は準決勝まですすみ、初めての全校応援を経験する。準決勝からは全校応援となり、横浜スタジアムが学ランで埋まり伝統の応援歌が鳴り響く。肩を組んで応援する男子校ならではの楽しさにひたすら興奮した。翌年の夏は甲子園出場したが、翌々年は地区予選5回戦敗退、この時のエースが中学の時の野球部の後輩で、黒ちゃんの弟も代打の切り札として野球部にいたりで、随分悔しい思いをしたもんだ。

以来、母校の応援は今の歳になっても毎年行っている。

サッカー部だった僕は、授業を終えると18時頃まで練習、家に着くのは夜の20時過ぎ、土日は練習か試合となり規則正しい生活を送ってたと思う。

この頃、テレビでは「教師びんびん物語」「とんぼ」がやっていて夢中になって観ていた。

誰のカバンにも入ってたのが週間少年ジャンプだった。魁男塾、北斗の拳、ドラゴンボール、こちら葛飾区亀有公園派出所、キャプテン翼、ジョジョの奇妙な冒険など、今でも名前を聞く事が多い面白い頃だった。

この頃の我が家というと、スカーフ業が好調の母親は仕事終わりに友達とカラオケ行ったり遊びに行く事が多くなり帰りが遅くなることも多かった。朝飯と夕飯はしっかり用意してくれていたが、それなりに楽しんでたと思う。長女には2人目、3人目の子供が産まれた。入院してた次女は退院し一緒に暮らしていた。三女は子育てしながら2冊目の本を書いていて、旦那さんの転勤で韓国へ住居をうつしたのもこの頃、四女は1人暮らしを始めたのか家にいなかったのを覚えている。

そんな時、父親が倒れ手術をするという連絡が僕に入った。

終わりなき旅のはじまり⑦終わり。


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