終わりなき旅のはじまり④

再びスカーフ業を始めた母親は僕が小学校を卒業すると同時に3LDKの新築マンションを購入、母親、次女、四女との新たな生活が始まった。

マンションに引っ越しをした関係で、友人が誰もいない隣の区の中学校に入学、そこで現在でも親交がある黒ちゃんと出会った。

少年野球をやってたこと、両親が共働きで留守が多いこと、同じ学区外からの入学であった事もあり、すぐに仲良くなり同じ野球部に入った。

が、

僕と黒ちゃん、野球に打ち込む事はなく、部活をサボってはスケボーして遊んだ。

全ては映画「バック トゥ ザ フューチャー」のマイケルJフォックスのスケボーシーンがいけなかった、事にしている。

放課後はスケボーを持ち出しては街を滑る毎日が続いた。

最初は黒ちゃんと2人で滑っていたのだが、
いつの日か1人増え、5人増え、10人増え、気がつくと見物人も含めると50人くらいになっていた。

そこで僕と黒ちゃんはスケボーチームを作った。

名は「ポッキーズ」。
スケボーを始めた頃、僕が手首を骨折したことが名の由来であったりする。


ある日のこと。

いつものようにスケボーをしてたら、ポッキーズのメンバー沢ちゃんが、スケボー持った30人くらいを引き連れてやってきた、見たことない連中である。

「ごめんごめん遅くなった、ちと喧嘩しちゃってさ。」

「?後ろの人達と喧嘩したの?」

「そう」

隣町のスケボーチームだった。

何故連れてくるのか意味不明でありつつ、
こっちは今5人しかいないから、
逃げるが勝ちでしょうと思ってたら、

黒ちゃんは「1人 6人やればいいんだろ?」
とまたしても意味不明な事を言ったり。

結局、大人数だった相手は、手を出すタイミングが伺えなかったのか、口での言い合いにしかならず、この場は何もなく終わったのだが、この頃は、街に出ればヤンキーがうようよ、スケボーチームもうようよ、ヤンキーや他のチームとのこんなエピソードが数えられないくらい沢山あったのを覚えてる。

さて、この頃の我が家はというと、母親に対して「もう母ちゃんとは一緒に出かけない」、「うるせえなぁ」と言葉を発していた自分がいた、そう反抗期である。

机の上には母親が買った目指せ慶應、目指せ桐蔭学園みたいな参考書が積まれては勉強しろ勉強しろと言われていたが1度も開いた事もなかった。

四女の姉はよく彼氏を呼んで遊びに連れてってくれた。その時の彼氏はサーファーで大磯海岸でよく遊んでくれたのを覚えてる。姉がよく作ってくれたフレンチトーストが大好きだった。

三女の姉は結婚、出産のため、一時期、マンションに帰ってきてた。何かを書いてるなぁという記憶はかすかにあるものの、第1話で書いた「ごく普通の在日韓国人」はこの時期に書いた本ということを後でまた知る事になる。

バブル景気に入ったばかりのこの頃、
姉の部屋のレコードプレーヤーからはディスコソングが流れ、学校では夕焼けニャンニャンとおニャン子クラブの話題があふれ、発売されたばかりの写ルンですを持ってはしゃぐ女の子がいたり、この頃はとにかく楽しかったという記憶が今でも確かに残っている。

80年代半ばの話である。

終わりなき旅のはじまり④終わり


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