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夜半の雨|プロローグ(2)



前回のお話




五年前、本社での新人研修を終えた後
今の営業所に配属された俺の指導担当者が
麻生さんだった。

社会人として右も左も分かっていない俺を連れて
営業先へ訪問しては
「新人の笹原です。よろしくお願いします」
と一緒に頭を下げてくれた。

研修だけじゃ分からない
現場での流れや段取り
そしてサボり方なんかも教えてくれた。

少しずつ経験を重ね仕事の流れを把握し
次第に人間関係が見えてきた頃

「麻生式営業の虎の巻を教えてやるよ」

と古びた居酒屋に俺を連れ出し
ビールジョッキ片手に上機嫌の麻生さんは
その店の名物だと言う胡麻鯖に舌鼓を打った。

「いいか、笹原。取引先のお客さんの名前を
 覚えるのはもちろんだが、
 余裕ができたら先方に取り付けてくれる
 事務の人の名前も覚えるんだ。
 で、電話や訪問先で挨拶する時に
 ちゃんとその人の名前を呼んで挨拶すること。
 人は名前を呼ばれると、意識する。
 向こうも会社名じゃなくて
 俺たちの名前で覚えてくれようとする。
 何かあった時に一番に
 思い出してもらえるようになるんだ。
 まぁ、みんなの名前を覚えろとは言わないが
 ただ上のお偉いさんとだけじゃなくて
 お世話になる人に対して
 きちんと挨拶はしっかり丁寧にな」

説教じみた感じではなく
酔ったおじさんが楽しそうに優しく語りかける。

「あと、最近の若い奴は。とか
 これだからゆとりは。とか
 言うようなやつの話は聞かなくていい。
 そんなの、自分が教育出来ないこと棚に上げて
 威張り倒したいだけの奴らだ。
 出来て当たり前なんて
 どんだけ期待してんだって。
 出来なくて当たり前で、いいんだよ。
 失敗しても俺がケツ拭いてやんから、どんどんいけ。
 お前は、麻生さんはすげーいい人だって
 最低十人に言うだけでいい」

かははっ。と俺の肩に腕をまわしては
自身の冗談を笑い、ビールを飲み干した。

当時の俺は、麻生さんの優しさに対して
嬉しさをうまく言葉にできずに
「はい」と頷いては
両手でビールグラスを
握りしめることしかできなかった。


コミュニケーション能力と
洞察力が非常に長けており
瞬時に自分や相手の立ち位置を把握しては
状況に合わせ柔軟に対応し
穏便に事を運ぶ。

気づけば皆
麻生さんのペースに持っていかれるのだが
その笑顔と軽快な匠の話術で
決して嫌な気分にならない。

気分屋の部長の機嫌もいち早く察知し
先手先手でフォローを入れてくるから
上司からの信頼も厚く、ちょうを受けている。

今も僅かな空気を読んで
和ませてくれたのだろう。

無難にやり過ごす為にと
自分の事しか考えられていない俺とは
正反対の人だ。

気にかけてくれるのが有難くも
申し訳なくもある。


前日に送られてきた問い合わせに目を通し
課された仕事をキーボードに無機質に打ち込む。
取引先からの着信にツーコールで出ると
追加注文を至急で手配してほしいとの事。

「外行ってきます」

ホワイトボードの『笹原』と書かれたマグネットを
『外出』に貼りかえ、会社を出る。

昨夜の雨は乾いていた。


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