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資本主義である限り「差別」は無くならない

大手化粧品メーカー「花王」が、人種の多様性を配慮し、化粧品の「美白」表現を撤廃すると発表した。

https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/20210329-10000046-dzh-stocks

近頃アメリカで社会問題となった「Black Lives Matter」運動を背景としており、白色が優位であるかようなコピーは使わない方針としている。大手の花王が日本国内では先陣を切ったことから、他の化粧品会社もそれに追随すると考えられている。

近年ではこのように、表現が差別的でないか、多様性に配慮しているか、を考慮し、そぐわない表現を取りやめるのがムーブメントとなっている。逆に、そぐわない表現を踏んでしまった広告がまたたく間に炎上し、撤回せざるを得なかった例は枚挙にいとまがない。今後も、その流れは加速的に続いていくだろう。

だが、我々が資本主義のシステムを採用している限り、「差別」は無くならず、本質的には何も変わらないだろう、と私は考える。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

そもそもなぜ花王をはじめとする化粧品会社は、どこも「美白」を謳ってきたのだろうか? 答えは非常にシンプルである。その方が売れるからだ。

まず、日本人女性の多くは色白になりたいと考えている(憶測で書いてしまったが、統計をとれば裏付けることは容易であろう)。色黒になるためにメイクをしている女性を、私はこの目で一度も見たことがない。一時はガングロブームなる現象もあったが、一過性のものにすぎなかった。現在では、化粧といえば肌をより白く変化させるのが普通である。当然、肌を白くさせてくれる化粧品の需要は高い。

言うまでもないことだが、需要が高ければ企業はそれに合わせた商品を販売する。色白になれる商品を売った方が利益が上がるのだから、当然のことだ。それが資本主義というものである。色白だと美しくなれる、という前提を共有した上で、製品企画部は色白になれる化粧品を考案し、開発部は色白になれる化粧品を開発し、広報部は我々の化粧品を使うといかに色白になれるかをアピールする。

ここで、化粧品会社の社員を「人種差別だ!」と罵るのはお門違いだ。彼らは差別意識を持っているから色白になれる化粧品を売っているわけではない。その方が利益になるから売っているだけだ。私が化粧品会社の社長だとしても、やはり同じ方針をとる。

逆に、「いや、色白だと美しくなれるという考え方自体が間違いだ。色白になれる化粧品は販売中止にしましょう」と言い出し、その通り忠実に方針転換する企業だったら、たちまち販売不振に陥ってしまうだろう。社員たちの給料は下がり、生活に困窮してしまう。

いくらジェンダー平等を掲げても、台所に立つのは今のところ女性の方が多いのだから、キッチンの高さは女性の背丈に合わせたものが多く売り出される。いくらLGBTの存在を知っていても、異性愛者の方が多いのだから、男女の愛を歌ったラブソングが多く作られる。

我々が資本主義というシステムを採用し続ける限り、より多くの売り上げが見込めるマジョリティ向けの商品を企業が売り出していき、結果として多様性の面で偏りが出る、という構造は変わらない。

私がこのテキストのタイトルで「差別」とあえて括弧書きにしたのには理由がある。今述べた例のように、マジョリティにターゲティングして商品を売り出し、それが多様性の面で偏りがあるとしたら、はたして差別と呼ぶのだろうか? という疑問があるからだ。だが、近ごろ耳に入ってくる差別というワードの使われ方は、どんどんその範囲を広げていき、もはや本来の意味を逸脱しているように感じる。だから、私はこのような使われ方をする差別を、あえて「差別」と書くことにした。

ではなぜ、花王のような化粧品会社は、一見すると資本主義の原理に反するように、「美白」のコピーを撤廃する決断をしたのだろうか? それは、メリットよりデメリットが上回ったからである。

昨今では、「我々は多様性に十分配慮する企業です」とブランディングすることが業界では当たり前となっている。逆にそれができない企業へのマイナスイメージは測り知れない。下手をすると不買運動にまで繋がりかねない社会気運である。花王の場合も、「多様性に配慮しよう」というより、「企業ブランドに傷がつく前に手を打っておこう」が実際の本音であろう。「白いと美しくなれる」と謳うメリットと「白いと美しくなれるなんて差別だ!」と糾弾されるデメリットを天秤にかけ、後者に傾いたからこのような決断をしたわけだ。

ならば、このままの社会気運を盛り上げていけば、「差別」は無くなるのでは? と思うかもしれない。だがそれは間違いだ。

我々には、嗜好の自由があるからだ。

この社会では、どの商品を選ぶかは完全に消費者の自由である。どの商品を買おうが、どの商品を買うまいが、誰も止めることはできない。

エンターテイメントでは特にそれが如実だ。同じ演技力の女優ならば、ルックスの良い女優がテレビに映っている方が「好ましい」と人々は感じる。それで視聴率が上がるならば、製作者はルックスの良い女優を採用する。

TikTokを見ていると、同じダンスを踊っていても、ルックスの良い女の子の動画にはいいね!が殺到していて、そうでない女の子には全くいいね!がついてない光景をよく見かける。そして、それがいいね!数という数字となって客観的な指標として表れてくる。

「見た目で人を差別してはいけない」と誰もが教わるが、見た目でエンターテイナーを選り好みすることは消費者として完全に自由である。その嗜好の自由がある限り、数字となって表れる「差別」は誰にも防げず、見た目で利益・不利益が生まれる構造は温存される。

このように、人々に嗜好の自由がある限り、「差別」は無くならない。資本主義では、嗜好というミクロな「差別」が商品というマクロな「差別」となって表れる。これを避けるには、国などの機関が、人々が買う商品を規定するか、企業が売る商品を統制するしかない。もしくは、ドラえもんの四次元ポケットから「人々の嗜好コントロール機」を出すか、だ。

それでは、企業はこれからどうやって広告を打っていくのだろうか? 企業は、人々の嗜好にターゲティングして、商品を売り出していきたい。しかし同時に、差別と糾弾されるリスクがある。

おそらくこれからは、「ステルスターゲティング」の時代になると考えられる。ステルスマーケティングではない。

ステルスターゲティングとは私の造語であるため、定義はあやふやだが、おおよそ以下の通りだ。

「大きな声で言うと『差別』と糾弾されかねない嗜好に、そうだと気づかれずターゲティングすること」だ。

化粧品の例を出せば、「この化粧品はただの化粧品で、色の話はしてないですよ」という顔をしつつ、「この化粧品を使えば色白で美しくなれますよ」とさりげなく消費者に気づかせるような広告を打っていくということだ。

例えば、色白の女優の名を挙げて「○○も使ってます」を売り文句としたり、パッケージのデザインを白を基調としたり、といった具合だ。

そのようなステルスターゲティングの上手い社員の給料が上がり、下手な社員はなかなか昇進できなくなるだろう。「差別」だとバレずにさりげなく消費者のマインドに訴えかけるキャッチコピーを書けるコピーライターの元に仕事が集まり、上手く書けないライターは失業してくだろう。「差別」的なメッセージは決して目立たせず、かつ無意識には訴えかけられるような広告を作れる広告代理店が儲かり、そうでない所は仕事を失っていくだろう。

このように、表現のギリギリのラインを上手く狙い打てるステルスターゲティングの技術が、今後の社会人にとって一つのスキルとなっていくだろう。

我々が資本主義を採用している限りは、決して「差別」から逃れることはできない。人々の嗜好の自由と、それを狙ったステルスターゲティングにより、「差別」はひっそりと温存され続ける。

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