政治家になりたがる人のパラドックス
「日本の政治はもうダメだ…」
ニュースでため息をついている方も多いのではなかろうか。私もだ。だが安心してほしい。ダメだったのは今も昔も変わらない。裏金や、ステルス増税や、万博や五輪など大規模プロジェクトでの利権食いなど、いつの時代もあるものだ。
日本のような議会制民主主義は、タテマエでは「選挙を通して政治家を選び、国民の声を反映した政治を行う仕組み」となっている。感づいている方も多いだろうが、現実はそうならない。実際、そうなってない。
要因は様々だろうが、この記事では、私が考える要因の一つ、「政治家になりたがる人のパラドックス」に焦点を当ててみたい。
今日はそんなことについて書いていきたいと思う。
まず、「政治家になりたがる人」に対し、どんなイメージを持つだろうか? あ、いや、一般論じゃなくていい。あなたの身近、例えば高校のクラスメイト、大学のサークル仲間、職場の同僚でもいい。あなたの身近に「オレ、政治家になりたい」と言う人がいたらどう思うだろうか? 「あっ、この人ヤバい人かも…」と思わないだろうか? もちろん悪い意味でだ。
「政治家」の3文字から放たれるイメージはすこぶる悪い。裏でコソコソ不正する権力欲に溺れたオジサン、といったところだろうか。そんな政治家に「あえて」なろうと言うのだから、危険人物センサーが作動してもおかしくない。
加えて今の若者は、政治家は割に合わない職業だと思っている。
政治家になっても、そこまで有名になれないし、そこまで社会は変えられないし、そこまで給料も高くない。政治家が有名になるのは、ほとんど不正が発覚した時だけだ。平均的な日本人で顔と名前が一致する政治家は、総理大臣と数人の閣僚、自身の都道府県知事くらいではなかろうか。また、社会を変えようと思っても、長いものに巻かれなければ力など無に等しいのが議員という生き物。給料も、医者や弁護士、大手外資コンサルの方が高いくらい。なのに、少しでも不正をしたときだけ有名税が跳ね上がり、がっぽり徴収される。政治家とはなんて不遇な職業だろうか…。
優秀な若者にとって、もはや政治家は魅力的な職業には見えない。医者や弁護士、大手外資コンサルの方がはるかにコスパが良く、彼らは迷いなくそちらの道を選ぶ。
そんな割に合わない政治家に「あえて」なろうと言うのだから、「あっ、この人ヤバい人かも…」と我々は感じてしまう。何か強い(ヤバい)思想を持って日本を変えようとしているのでは? と訝しむ。実際、宗教を支持母体とする公明党や、ソ連が崩壊しても共産主義を目指し続ける共産党は、毎年数多くの候補者を擁立できる。割に合わないのは覚悟の上で、強い思想で日本を変えてやろうとする志願兵が大勢いるからだ。
昨今は世襲議員が問題視されているが、彼らは気にせず当選し続ける。世襲の方が「少なくともヤバい思想の持ち主ではなさそうだ」という安心感が働くからだ。古今東西で示し合わせたように世襲制の王朝が長続きしたのは理由があるだろう。あえて立候補する異端な一般人より、王様の息子というだけで王様になる人の方が、ヤバくなさそうだからだ。例外は数多にあったが。
もちろん政治家を目指す若者の中には、本気で日本を良くしたいと考える、正義感があり賢くて品行方正な者もいるだろう。彼らは貴重な存在だ。だが我々は、そのような若手政治家が何かを大きく変えたのを目撃したことがあるだろうか? ――私の記憶には、ない。
我々が選挙で政治家を選ぶとき、この偏りを忘れがちだ。選挙は、国民の声をダイレクトに政治に反映させる仕組みではない。「割に合わないのに、あえて政治家になりたがるヤバそうな人」の中から比較的考えが近い者を選び、その「ヤバそうな人」に政治を任せる仕組みである。
レストランに例えるとすると、選挙は、フランス料理、中華料理、イタリア料理、韓国料理、インド料理、スペイン料理など多種多様な料理から好きなものを選べるビュッフェではない。「様々な文化圏の料理を楽しめます!」と宣伝しつつ、実はフランス料理しか提供されておらず、その中から野菜やら肉やら比較的美味そうなものを選ぶしかないビュッフェである。
小説を読んで、登場人物に美術家やミュージシャンなどのクリエーターが多いな、と感じたことはないだろうか? 現実世界では、クリエーターはそこまで多くない。もちろん、クリエーターを登場させた方が面白いという理由もあるだろうが、そもそも小説家は小説を書こうと思う時点で異端児(ヤバい人)であり、社会や人間性を一般人と同じ目線で描写できない。読者はその「小説を書こうと思う人」の偏った世界観からでしか、小説を読むことができない。同様に政治も「政治家になろうと思う人」の偏った思想でしか運営されない。
選挙は、一見すると自由に選んでいるよう錯覚されるため、選挙結果が出るたびに「これが民意だ!」と喧伝する者が現れるが、「あえて政治家になりたがる人」の中からしか選べないという強力な制約を忘れてる。民意と実際の政治運営には必ずズレが生じる。
これに気をつけておかないと危険だ。知らないうちに政治家として有望な若者が減っていき、選挙の立候補者が「本当にヤバめの思想を持った人」だけで構成される未来がありうるからだ。そのスモールケースとして、ある大学の自治会が、宗教団体に乗っ取られた事例がある。自治会に入る学生が減り、自治会を誰が取り仕切るかに興味を持つ学生が減ったタイミングで、宗教団体に所属する学生らがこぞって立候補したのである。
我々は自由に政治家を選べるが、「政治家になりたがる人」という強い偏りの中から選ばなければならない。このパラドックスに注意しなければ、日本の政治はますます危うくなってしまうだろう。
政治家と言えば、昨今で政治界を賑わせている人物がいる。安芸高田市の石丸伸二市長である。石丸氏は、京都大学を卒業後、銀行員・アナリストとしてニューヨークに赴任し、2020年に37歳という若さで安芸高田市の市長に立候補。当選後すぐ、年配議員たちの妨害や記者の嫌がらせ質問に遭うが、毅然とした態度と論理力で喝破。その様子がインターネットで拡散されると、一躍時の人となった。これまで誰も興味を持たなかった地方政治に、若者の目が向いたのである。
私は密かに、石丸氏の活躍を期待している。といっても、石丸氏の政策や政治的手腕に期待しているわけではない。「政治家」の3文字から放たれる禍々しいイメージを、石丸氏なら改善してくれるかもしれない――という期待である。政治家が魅力的な職業に見えさえすれば、「彼に続け」と優秀な若者たちが立候補し、この閉塞感のある日本を変えてくれるのではないか――そんな期待をしている。
確かにこれまでも政治家のイメージを変えていった総理大臣はいたが、不発に終わった感が否めない。小泉純一郎はカリスマ性のあるビジュアルと演説の上手さで人気を集めた。安倍晋三も「優しそうなおじさん」でありながら強い実行力が評価された人物だ。前者は非正規雇用を拡大し日本経済を悪化させた主犯の一人と言われ、後者は官邸の権力を強め忖度行政を霞が関に蔓延させた張本人だが、人物自体からにじみ出るイメージが良かったため未だに人気がある。だが2人とも年配すぎた。若者の心に火をつけるまではいかなかった。麻生太郎、菅義偉、野田佳彦、菅直人、鳩山由紀夫、福田康夫、森喜朗などは言うまでもない。
首相ではないが、橋下徹にはそのポテンシャルがあった。既得権益にとらわれない論破力は喝采されたものの、偏りのある政治思想の持ち主で、スキャンダルも多かったため、政治家を魅力的に見せるまではいかなかったが。
目下、岸田政権の支持率は危機的状況にあり、早く総理大臣の席を明け渡さなければ次回の選挙で自民党は大敗してしまうだろう。たとえ現与党が辛うじて過半数の議席を確保できたとしても、総裁選で再選されるかは危うい。自民党内部では、高市早苗、河野太郎、小泉進次郎、といった政治家のイメージを変えてくれそうなリリーフ陣がブルペンで肩を温めているが、良い方向に変わるか悪い方向に変わるかは未知数である。
それでも、石丸氏以上に、政治家のイメージアップを若者に見せつけられる者は他にいない。スマートな立ち振る舞いと高い知性を兼ね備え、インターネットを有効活用できる政治家はなかなか見当たらない。なんだかベタ褒めになってしまったが、別に彼でなくても良い。優秀な若者を政治の世界へ呼び寄せる引力。その引力が発生するかで日本の明暗が分かれると言っても過言ではないだろう。