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Colabo騒動は何の「代理戦争」なのか

仁藤夢乃氏を代表とする一般社団法人Colaboの不正会計疑惑への炎上が止まらない。この2か月ほど、Twitterのトレンドには毎日のように「Colabo」「不正会計」「会計監査」「仁藤さん」や、疑惑を最初に指摘した「暇空茜(氏)」のワードのいずれかがランクインしており、アプリを開くたびに暗澹たる気持ちになってしまうのである。

しかし、この騒動の核心はあくまで「ある小規模の社団法人(Colabo)が公金を不正に利用してないか」または「ある一人の一般人(暇空氏)が拡散する情報がデマであるか」であり、燃え上がっている炎の規模とは明らかにスケール感が合わない。それよりも10兆円規模の使途不明金があるコロナ予備費や、公表された経費より2800億円多く使い込んでいたとされる東京オリンピック・パラリンピックの方がスケール感に合うトピックとしてふさわしく思える。だが、行政の燃焼に使われるはずだった酸素がColabo騒動で消費され、日本政府は「軽いヤケド」をさっさと治療し増税や防衛費増額に向かおうとしている。Colabo騒動が人々の視線をそらしてくれるおかげで「今回もボヤで済みそうだ。ラッキー、ラッキー」と安堵している政治家や役人がいるかもしれない。

私個人の、増税や防衛費増額への賛否はさておきとして、

なぜColabo騒動の炎上がここまで大きかったのだろうか?

というより、Twitterやnoteのタイトルを見てこの記事を読むくらいの方なら、もう察しが付いてるだろう。なぜこんな大騒動になったのか。そして、タイトルにある「代理戦争」が何を意味しているのか。

この記事では、Colabo騒動がなぜ「代理戦争」なのかを説明し、一個人として「みなさん、ちょっと落ち着きませんか?」と提案するにとどめたい。Colaboが不正会計をしているか否かは真偽不明のため、本記事では扱わない。また「Colaboだけでなく他の類似団体にも不正があり、そのバックに何か巨大な力が蠢いている」というこれまた真偽不明の噂もあるようだが、それも考慮しない。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

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暇空氏は「これはネット界におけるウクライナVSロシアの戦争です」と述べている。私は、「冷戦時の朝鮮戦争の方が近いな」という感想を抱いた。ご存じの通り、朝鮮戦争は建前上は韓国と北朝鮮という(アメリカやソ連に比べたら)小さなフィールドでの戦いだったが、事実上はアメリカを中心とした西側諸国・資本主義とソ連を中心とした東側諸国・社会主義という大きなイデオロギーの代理戦争であった。

Colabo騒動は、建前上は「一団体が不正会計をしているか」「一個人がデマを流しているか」という小さなフィールドで争われているが、事実上「男女平等の名のもとに一方的に攻撃され続けてきた男性サイドの鬱憤」と「その男性サイドの鬱憤の正体はただのミソジニーだという鬱憤」の戦いとなってしまっている。Colabo騒動は、その二つの鬱憤の代理戦争となってしまっている。

炎上の大きさは、どの道具で着火するかで決まるわけではない。火種がマッチであろうが、ストーブであろうが、火炎放射器であろうが、最終的に燃え上がる炎の大きさに大差はない。問題なのは、着火前にどれだけ油が撒かれているかである。そして、仁藤氏はその油を撒いていた大勢のうちの一人であった。

仁藤氏らColaboの活動は、貧困や虐待などで行き場を失った若年女性が売春などに走る前に居場所を提供し、社会へつなぐことを目的としている(語弊があったら指摘してほしい)。その問題意識や目的は現代日本に必要なもので、また実際に路上に立ちアウトリーチ活動を行っており、口先だけでなく行動を起こしていると称賛されて然るべきだろう。私も、社会的知識の乏しい若年女性が「こいつらの性的価値を利用して儲けてやろう」とする大人たちの思惑にまんまと騙されてしまう構造は問題だと思っており、仁藤氏の行動力は尊敬に値する(対して私は何も行動してない)。

だが、仁藤氏はたびたび「女性たちは差別によって虐げられている。それは男性たちに責任がある」といった趣旨の発言を強い口調で繰り返しており、顰蹙を買っていた。その考えの賛否はさておきとして、男性たちからすれば「俺たちも男であるせいで虐げられ苦しんでいる。それを無視するだけではなく追い打ちをかけるように攻撃してくる」と感じるのが至極当然であった。また仁藤氏はいわゆる「萌え絵批判」を繰り返し行っており、作品を好むファンからすれば目の上のたんこぶの存在であった。

ただ、仁藤氏に限った話ではなく、この手の言説は前々から数多の人々により提言され、その度にボヤ騒ぎになっていた「あるある」であり、仁藤氏が特段オリジナリティのある発言をしていたわけではない。仁藤氏はあくまで「男性サイドの顰蹙を買うような発言をする大勢」のうちの一人にすぎない。だが、その「大勢の言説」に含まれる油の濃度が高かったことは事実だ。本人たちが自覚してたかどうかはさておき、散布された油の総量は相当なものであった。

だが、仁藤氏らの言説は、まさしく「言論の自由」であり、「思想の自由」であり、法的にも社会通念上でも問題ない。いくらそのような言説がばら撒かれ、男性たちの鬱憤のタネになっていたとしても、「クリティカルな反撃」をすることはできない。むしろ、社会は「日本は男社会で、女性が差別されている」論にうっすら賛成しており、女性たちが先導する「オープンレター」により某男性歴史学者がキャンセルされてしまったことは記憶に新しい。仁藤氏やColaboも、この騒動の前から理不尽な攻撃や誹謗中傷を受けていたようだが、当人たちは辛かっただろうが、無視や我慢をすればなんとかやりすごせる類のものであった。

だが、ルールを破ったとなれば話は別になってくる。どんな英雄であろうと、パンを一個盗めば罰せられ、社会的信用を一気に失う。それが法というものである。ルールは無慈悲だ。

暇空氏は、そのルールの無慈悲性を「利用」して、仁藤氏を「鬱憤のシンボル」へと押し上げた。暇空氏はColaboが不正会計をしていないかを事細かに調べ上げ、そして「仁藤さんがルールを破ってるぞ!」と喧伝して回った。今まで口を閉ざしたり、口を開けてもクリティカルな効果を与えられたなかった者たちにとっては、好機に見えた。相手がルールを破ったのなら、「安心して叩いていい」というお墨付きが与えられるからだ(いや、そんなお墨付きはないし、あったとしても人を安易に叩くべきではないと思うのだが…)。かくして、仁藤氏は一個人の枠を超えて、「鬱憤のシンボル」となってしまったのである。

暇空氏の投げた「鬱憤のシンボル決めダーツ」に当たってしまった仁藤氏は運が悪いとしか言いようがない。誰だって、どこの団体だって、徹底的に調べ上げられれば大なり小なりルールの一つや二つを踏んでいることがバレてしまうからだ。まして少人数で運営され、被支援者の多い団体であるColaboが、お金を1円たりとも間違えずに会計するなどありえない。だが、暇空氏の「仁藤さんを鬱憤のシンボルに推薦したいと思います!」という提案に対し、どういうわけか仁藤氏は「はい、私が鬱憤のシンボルになります!」と受諾してしまうのである。何人もの弁護士を従えて、暇空氏をデマで訴えるという記者会見を開くことによって。

勇敢だが、危険を伴う行動であった。たしかに、社会を変えるには、誰かが先陣を切らなければならない。仁藤氏はその意味で勇敢だった。だが、仁藤氏が通らなければならないのは、あらかじめ大勢によって、そして仁藤氏自身も一緒になって撒いていた大量の油がたっぷりと染み込んだ「鬱憤ヶ原」であった。そこを通れば、火だるまになってしまうことなど、着火する前から予想できた。まさに「火を見るより明らか」だった。

時代の先陣を切るオピニオンリーダーは、味方から見れば確かに「ジャンヌ・ダルク」であり「民衆を導く自由の女神」なのだが、相手方から見れば「アイツを倒せば味方の士気が上がるぞ! そして敵の士気を大いに削ぐことができるぞ!」という鬱憤のシンボルである。仁藤氏と暇空氏の立場を逆転させても同じことが言える。

こうして始まったColabo騒動は、「ある小規模な団体の会計」に大勢の目が釘付けになるという異様な状態に入ってしまったのである。ある者は「どうかColaboの会計および公金の使われ方に不正がありますように」と願い、ある者は「それがどうかただのデマでありますように」と願う。まるで、冬季オリンピックでフィギュアスケートの浅田真央選手にぜひとも金メダルを取ってほしいと願う熱心なファン達が、当時最大のライバルとされていたキム・ヨナ選手がジャンプの着地に失敗するのを待ち望み、その一挙手一投足に粗がないかを血眼になって探しているかのようだ。

暇空氏を訴えると宣言した記者会見で、弁護士たちは暇空氏の行いを「ミソジニー」「女性差別に対して声を上げる女は許さないというのが一番その中心的なメッセージ」と述べた。それに反応する形で「いや、自分たちは公金の使われ方を合法的に知りたいだけなんですが…」との声がSNSを中心にワッと上がった。私は、どちらかといえば前者の弁護士たちの発言の方が正確だ、と思った。さすがに「ミソジニー」や「女性差別」は誇張表現、いや、的を外していると言ってよいだろうが、「これが単なるデマではなく、背後に巨大な思想がある」と勘づいていたのは正しかったからだ。

Colabo騒動はまさしく、建前としての「ある小規模の社団法人(Colabo)が公金を不正に利用してないか」または「ある一人の一般人(暇空氏)が拡散する情報がデマであるか」を戦場とした、「男女平等の名のもとに一方的に攻撃され続けてきた男性サイドの鬱憤」と「その男性サイドの鬱憤の正体はただのミソジニーだという鬱憤」の代理戦争となってしまった。そして、たとえどちらかが代理戦争の「勝利」を収めたところで、背後にある何かが解決するわけではない。むしろ、互いの憎悪がいっそう高まるだけだろう。

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公金の使われ方に関してSNSで議論するのは良い。いや、民主主義ならそうであるべきだろう。だが、どんなに頑張って「いや、自分たちは公金の使われ方を議論しているだけなんですが…」という顔をしたって、そして本当に動機がそれだけだとしても、この状況下では「いやいやお前、キム・ヨナがすっ転ぶのをニヤニヤと待っている浅田真央のファンくらい底意地悪いぞ」と思われるのは避けられない、という自覚はあって良いものだ。

第一、Colabo騒動の真偽に関しては現時点では不明である。それなのに、一個人に誹謗中傷を浴びせ続ける、いや、たとえ不正があったorなかったと分かっても、一個人に誹謗中傷を浴びせ続けるのは良いことなのだろうか? たしかに仁藤氏は著名な社会活動家であり、暇空氏はゲーム界隈を沸かせたインフルエンサーであり、どちらも「公人」や「権力者」としての側面は強い。それでも、この誹謗中傷の量は一人の喜怒哀楽を持つ人間が受け止められる量ではない。「この指止めよう」などから我々は何も学ばなかったのか?

「仁藤氏も暇空氏もこれまでさんざん他人を罵倒してしてきたのだから、される側になっても自業自得だ」と言うのは簡単だ。だが、それはやってはいけないのだ…。復讐はやってはいけないのだ…。たしかに今まで自分がされてきたことをやり返すのは「蜜の味」だが、やってはいけないのだ…。

Colabo騒動が代理戦争である限り、結果がどうであれ根本的には何の解決にもならないのだ…。

だから、「みなさん、ちょっと落ち着きませんか?」と呼びかけてみたい。そしてゆっくり考えてみよう。その指を動かす前に。この騒動が何の代理戦争であるかを。騒動を自分の鬱憤のはけ口に利用してないかを。


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