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お金で免罪符は買えないが「避罪符」は買える

「あなたは善人ですか? 悪人ですか?」

そう聞かれたら、大半の日本人は答えに窮する。

大多数の日本人は、犯罪や不正と呼べるほどの悪事は犯してはいないが、自分は善人だと胸を張って言えるほどの善行を積んでいるわけではない。「うーん…、どっちかっていうと善人ですかねぇ…」とお茶を濁す。私もそうだ。

「お金で幸せは買えない」 それがある程度ウソだと皆思っている。年収が800万円を超えると幸福度が頭打ちになる、といったデータを出すまでもなく、幸せは市場には売ってない。

「お金で幸せは買えないが、不幸を避けることができる」の方が真実味を感じる。お金があれば飢えることもなく、適度な娯楽を得られ、犯罪や事故から自身や家族を守ることができる。

だが、お金で得られる最高のものが「不幸を避ける権利」だとしたら、次点はおそらく「避罪符」だろうと私は考えている。

「避罪符」とは私の造語であるが、だいたいの意味は「善行を為すか、悪事を為すかの前に、そもそも善悪を問われるような場面に出くわすのを避ける権利」だ。

今日はそんなことについて書いていきたいと思う。

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お金で罪を「無かったこと」にできる免罪符は、ルターらの怒りを呼び宗教改革を引き起こした。現在の法治国家では、少なくとも建前上は「どんな富豪であろうと貧民であろうと、法の下に平等であり、罪は変わらない」とされている。

もちろん、金持ちが高額な報酬を元に優秀な弁護士を雇い、時間と労力をかけて情報を集め、裁判を有利に進め結果的に罪から免れるのはある程度可能だ。逆に貧者は弁護士を雇うお金もなく、泣き寝入りする。お金があれば罪が許されやすくなる点で、現在でも疑似的な免罪符は存在すると言えるだろう。

だが、人々がお金で買いたいのは免罪符ではない。言うまでもないが、経済力のある人のほとんどは罪を犯さない。しかしそれは、彼らが善人だからではない。お金の力により、そもそも善悪を問われる場面に出くわさなくて済むからである。人々が心底、もしくは無意識的に欲しがっているのは、「避罪符」、つまり「善行を為すか、悪事を為すかの前に、そもそも善悪を問われるような場面に出くわすのを避ける権利」である。

例えば、あなたがもし財力はそのままで、日本ではなく途上国のスラム街で暮らすことになったらどうだろう。外を歩く度に物乞いが群がってきて、この人たちに財を分かち合うべきかと問われることになる。あくどい警官がやって来て「物騒だろ? ものによっては追い払ってやってもいいぜ」と言われ、賄賂を渡すべきか悩むことになる。病人や怪我人を見つけ、彼らを病院へ運び治療費を肩代わりするか、目の前で死体となるのを待つべきか決めねばならなくなる。そして精神がすり減ったあなたはこう思う。「ここじゃなくて、生活費が高くても良いから、別の≪快適な≫場所に住みたい」と。ここでいう「快適な」とは、もちろん「善悪が問われるのを避けられる」という意味である。

何も特別な感情ではない。誰しも同じことを思う。善を為すのはコストがかかる。悪を為すのは後ろめたい。相当な善人なら、物乞いに財を分かち、賄賂を渡さず、病症者の命を救う。相当な悪人なら、物乞いは無視し、警官に賄賂を渡し、人々が死んでいくのを見過ごす。我々の大半は、そのどちらでもない。善人になるのは無理があり、かといって悪人にもなりたくない。我々は「善悪を問われ続けるのは苦しい。ならば、そもそも善悪が問われるような場面に出くわさないようにしよう」と考える。そして避罪符を買って、「快適な」場へと身を移す。

お金があれば、食うために泥棒をする必要はない。お金があれば、住む場所を変え、「困った人」と遭遇する確率を減らせる。お金があれば、詐欺まがいの営業をしてまで給料を稼ぐ必要は無くなる。お金があれば、介護殺人など起こさず、上質な老人ホームに親を預けることができる。

個人に限ったことではない。企業も、お金があれば、道徳的で優秀な社員を集められるため、ブラック労働をさせる必要がなく、高収入かつ福利厚生の手厚い「ホワイト企業」となれる。国家も、お金があれば、資金援助や貿易を活発化させて戦争を回避でき、国民に質の高い人権を提供できる。

悪人を見つけ、悪を断罪するのはたやすい。そして、自分たちは何も悪事を為してないと誇らしげに称え合う。だが、悪事を為してないのは、そもそも善か悪かを問われるような場面に出くわしていないからなのではないか、と思える。

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「あなたは善人ですか? 悪人ですか?」

最初の質問に戻ろう。

そもそも、なぜ日本人は悪事は犯さないが、たいした善行を積むこともないのだろうか。端的に言って、日本がまだ豊かで、善悪を問われる場面にめったに遭遇しないからである。せいぜい、老人に席を譲るか、落し物の財布を交番に届けるか、くらいである。

いくら斜陽国とはいえ、まだ日本は世界第3位の経済大国である。その財力は、東南アジアの発展途上国、先進国ではあるが雇用難の韓国、すでにGDPで日本を超えた中国から、人々を呼び寄せるだけの力がある。

多くの日本人は、日本に生まれたというだけで、避罪符をもらっているようなものだ。手厚い社会保障、国民皆保険制度、質の高い義務教育、整ったインフラ、経済格差の低さ、高度な科学技術力。これらの存在は間違いなく、善悪を問われる場面に出くわすリスクから、我々を守ってくれている。物乞いに囲まれた経験を持つ人など、皆無に等しいだろう。だが、そうでない国に住む人々の方が多い。我々と彼らの違いは、善人か悪人かではない。避罪符を持っているかどうかに過ぎない。

だが、遠くない未来に、多くの日本人が避罪符を失うことになる。

少子高齢化が作り出した歪な人口ピラミッドと、急速な人口減少。人口オーナスの日本経済は、衰退がほぼ確実視されている。避罪符の発行元である豊かさが、急速に失われていくのだ。

若者の賃金の多くが高齢者の社会保障に持っていかれ、かといって賃金水準はグローバリゼーションによって他国に合わせなければならず、生活苦と将来への不安から若者は挑戦するより自己防衛に徹する。そんな日本は、外国人にとってもはや魅力的な国には見えなくなる。考えてもみてほしい。住んでいるのは老人ばかりで、税金や社会保障費をがっぽり取られ、そこで働けばひたすら高齢者福祉の駒にされるのが確実な国に、誰が喜んで来たいと思うだろうか。

まだ豊かな今のうちに大量の移民を受け入れて、何とか国を持続させようと、保守派の反対を受けつつも政治家や官僚は動いている。だが、大量の移民を受け入れればどのような未来が待っているかは、今のフランスの暴動が雄弁に物語ってくれている。

移民の是非はともかく、これから多くの日本人が、避罪符を失った自分と対峙することになる。善か悪かが問われる場面に、否応なしに遭遇することになる。

移民を受け入れるとしたら、避罪符を真っ先に剥奪されるのは、低所得者層になる。安い労働力を期待して受け入れているのだから、彼らが住むのは地価の低いベッドタウンや地方となる。東京の港区や中央区に住むことはない。

彼ら移民が日本人が常識として持つ慣習やモラルを守ってくれるとは限らない。住民たちは、彼らを受け入れるべきか、排除するべきか、問われることとなる。「多文化共生を」「多様性を」「お互いを認め合おう」とは聞こえがいいが、とどのつまりは「避罪符はすでに剥奪したので、あとは皆さんの善意に期待してますよ」という意味だ。

もちろん中には、彼ら移民と調和し、温かく受け入れて共生しようと努力をする日本人もいるだろう。だが、避罪符を失った住民が全員そちら側に回るとは限らない。善人でいることに疲れ果て、やがて脱落する者たちが現れる。そして彼ら「堕ちた」人々が移民排除のデモやヘイトスピーチをしたところで、「避罪符を失ったんだから仕方ないよね」と同情してもらえる可能性は極めて低いと言わざるを得ない。

高所得者層はそのような場所に住まず避罪符を持ち続ける。避罪符を失った低所得者層が善人になるか悪人になるか、高みの見物をすることとなる。そして悪人が出たら、一方的に「けしからん」と言う。

移民を受け入れないとしたら、国の崩壊を防ぐために、高齢者福祉を根本から見直さなければならなくなる。後期高齢者の医療費を完全自己負担にしたり、年金を無くしたりといった具合に。

もっと過激な論者は「死生観をアップデートすることで、安楽死を合法化し、できるだけ長生きしないでもらおう」と言い始めている。

はっきり言って、これらは現代の我々の価値観から言えば「悪」である。だが「悪」と簡単に切り捨てられてしまうのは、単に今の我々が避罪符を持っているからに過ぎない。

避罪符を持つ者が持てない者の悪を一方的に断罪するのは、許されるべきなのだろうか?

みなさんもご存じの通り、一部の富裕層は、堕ち行く日本に見切りをつけて、海外へ移住し、資産の移動も始めている。避罪符が剥奪される前に、良質な避罪符を配布してくれる場所へ行こう、と。そこで同じく高所得で道徳性のある「良質な」人々だけで構成される疑似的なゲーテッド・コミュニティを作ろうとしている。避罪コミュニティと呼んでもいいかもしれない。

そこで彼らは、悪事はしないにしても、所得の再分配といった善もしない。法で認められた範囲で、弱者を視界に入れないようにして、快適な日々を過ごすだけだ。そして時々、紛争や犯罪のニュースを見て「ひどいなぁ…」とつぶやくが、特に何もしない。何もしなくて良いことを、その国の法律やら秩序やらがしっかり守ってくれる。その国の秩序が乱れたら、持ち前の財力を使って、また別の「避罪地」へ移動すればよいと考えている。

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私は地方公立の小中学校出身である。案にたがわず、そこではいじめや非行があった。勇気を出してそれを止めたこともあれば、自分の身が可愛く見て見ぬ振りしたこともあった。

そこから地元の有名進学校である高校に入ったのだが、治安が劇的に良くなったことに驚いた。いじめや非行はあるにはあったが、蔓延しているほどではなかった。

そして上京し、有名な国立大学に進学した。そこは、さらに治安が良かった。それどころか、出会う友人がみな人格者で、頭脳明晰なだけでなく、礼節と謙虚さを持っていた。もちろん、小中学校から名門私立に通っていた者も多かった。なるほど、彼らのような日本人が、この国を支えているんだな、と。

だが、彼らの自信に満ちた顔と、気品ある振る舞いを見ていて、不安を覚えなかったと言えば嘘になる。「ひょっとして彼らは、善悪が問われるような場面に、これまで出会ったことが無いのではなかろうか?」と。

彼らにとって、避罪符を持たない者たちの姿は、いったいどんな風に映っているのだろうか。彼らが日本を支える側になったとき、避罪符を持たないことが何を意味するのか、適切な解像度で見ることはできるのだろうか。

我々は、もう間もなく対峙することになる。避罪符の発行をあきらめた日本が、いったいどんな姿になるかを。避罪符を失った日本人が、どう立ち振る舞うのかを。

そして我々一人一人が、再度問われるのだ。

「あなたは善人ですか? 悪人ですか?」と。


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