若者が選挙に行かないのは、若者が賢くなったから
選挙のたびに、若者の政治離れが叫ばれる。
「若者は政治に興味がない」「若者は選挙日に遊んでる」「若者が白痴化した」などなど、散々な言われようである。「どうせゲームやマンガに夢中で、政治なんかに関心ないんだろ」なんて声も聞こえてくる。まるで、若者の知能が低下したために選挙離れが促進していっているかのような口ぶりだ。
私も若者の一人だ。たしかに、私の周囲で政治について熱弁する友人や同僚などいないし、選挙の時期になっても政治の話が話題に上ることはない。若者が政治に無関心になっている、という声も一理あるように思える。それを「若者全体が"バカ"になっている」論につなげたくなる気持ちも分からないでもない。
だが私は、若者は「賢くなったから」選挙に行かないのだと考えている。それはいったいどういう意味なのだろうか。ここから先に書くことは、なんら統計や調査に基づいてはいない。一人の若者として、どうして若者が選挙に行かないのかを思いを巡らした末に出た個人的な考えである。若者は、昔よりも賢くなったため、選挙に行かなくなったのだ。
今日はそんなことについて書いていこうと思う。
私は、よほど多忙でない限りは、選挙に行くようにしている。だがその度に困ることがあるのだ。誰に投票したら政治がどうなるかが、全くわからないのである。
私は投票前には、候補者のWebページなどを閲覧して、できるだけ情報を集めるようにしている。もちろん、どの候補者に投票するか決めるためだ。だが、どの候補者のページを見ても、「みなさまのくらしを守ります」とか「子供の教育に力を入れます」とか「社会保障の充実をはかります」とか、当たり障りのない事ばかり書いてあって、その人に投票すると具体的に何が良いことがあるのか、さっぱり分からないのである。同じように思っている人は多いのではなかろうか。
これがもし、「私が当選したら自衛隊を軍隊に変えます」とか「高齢者の医療負担を増やして、そのぶん大学生の授業料を減らします」とかだったら分かりやすい。それだけ明確な公約を提示して、「ああ、この人に投票すればこうなるんだ」がはっきりとしていれば、もっと投票しやすい。だがなかなかそんな候補者がいない。どの政治家も似たりよったりなことを言うせいで、選択できないのである。
これは、現代において明確なイデオロギーの対立が無いことに由来する。例えば戦前は、資本主義か社会主義か、軍国化か平和路線か、といった明確なイデオロギーの対立があった。アメリカのトランプ大統領が当選した時も、移民の受容か排除か、という大きなイデオロギーが争点となった。だが現代日本ではそれに匹敵するような巨大な二項対立がない。それゆえに、与党も野党も結局のところ同じような耳障りの良いことを言うしかなく、「誰に投票したら具体的にどうなるのか」が不明確な状況なのだ。
「いや、そんなことはない。現代だって様々な対立項があるじゃないか」と思われるかもしれないが、今の自民党と、最大野党である立憲民主党が具体的にどのようなイデオロギーの違いを持っているのか、いくつか例を明確に述べられる人はそう多くはないのではなかろうか。せいぜい、自民党だったら日米同盟を基軸とした外交、憲法改正促進。立憲民主党だったら自民党を批判することが最大のイデオロギー。そんな感じではなかろうか。
政治は複雑である。どの政治家がどの省庁と関係が深くて、この政治家とあの政治家の力関係がどのくらいで、どの政治家が政党内で発言力があって、その政治家よりあの政治家の方があそこの法律に詳しくて…などと考えていったらキリがない。おそらく、テレビ局や新聞社の政治部の記者だって、一流の政治学者だって、分かってないだろう。そんな複雑な政治の中で仕事する政治家を「一般市民が決めろ」という方がどだい無理なのである。
それは今も昔も同じだ。政治はいつの時代だって、複雑なものなのだ。だが、昔の人はそれでも投票所に足を運んで候補者を選ぶことができた。昔は今よりも情報源が少なかったからである。テレビや新聞など、ほぼ一方通行の「マスメディア」が報じる「絞られた情報」だけしか見ることができなかったため、昔の人々は今よりも簡単に政治家を選ぶことができた。昔の人々には、政治の世界はシンプルで、「オレのような一般市民でも分かるはずだ」のように見えていたはずだ。本当は政治の世界は複雑だったにも関わらず、人々は「自分は正しい。なぜなら〇〇だから」と思い込むことが容易だったのだ。
だが今はどうだろう。インターネットで氾濫するメディアは、情報の洪水を引き起こしている。政治家たちはTwitterアカウントを持ち、世間で起きるあれこれに意見を述べている。以前ならば新聞の3面にも載らなかった些細な不祥事さえ、Googleで調べればいくらでも出てくる。政治家の演説を切り出した動画がTiktokで流れてくる。
一見、情報量が多いほうが選択しやすいように思えるが、逆だ。情報量が多いほど、人は「AはBだ」とシンプルに結論がつけられなくなる。物事の複雑さを理解するからだ。物事が複雑であることを知れば知るほど、その中から規則性を見出して結論をつけることが怖くなる。「もしかしたらAではなくBなのではないか」といくらでも反論を思いつけるからだ。現代人は、情報のシャワーを浴びて、世の中が複雑であることを知ってしまった。
そう、今の若者たちは、政治が複雑であることを、昔の人より理解してきているのだ。別の言葉で言えば、「政治なんて複雑すぎて自分には到底わかるはずがない」ということを昔の人より熟知しているのである。いわゆる、「無知の知」だ。どの政治家がどの省庁と関係が深くて、この政治家とあの政治家の力関係がどのくらいで、どの政治家が政党内で発言力があって、その政治家よりあの政治家の方があそこの法律に詳しくて…なんて全容を知ることができない、と若者は知ってしまったのだ。とてもではないが「〇〇に投票すれば日本はもっと良くなる!」なんて口にできたものではない。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「学者や弁論術士は多くを語るが、彼らは本当のことを何も分かってない。それに比べて自分は『知らない』ということを知っている」と後世にその名を残した。今の若者たちも同じである。彼らは政治が複雑でよく分からないということを知っている。政治の複雑さを知らずに「自分は正しい。なぜなら〜」と思い込んでいる年配者よりも、政治を知らないということを知っている若者の方が賢い。少なくとも私はそう考える。
最初に述べたように、仲間内で、政治について熱弁を振るう若者は少ない。いたとしても、「意識高い」と冷ややかな目で見られるだけだ。
若者の間で、「意識高い」という言葉がポジティブなニュアンスで使われることはまずない。「意識高い」はほとんど、「それに見合った実力が無いにもかかわらず、目指すところだけはやたら高い」という意味で使われる。政治について熱弁を振るう若者は、仲間から、「ああ、あいつは、政治が複雑でオレ達にとうてい理解できないモノなのにも関わらず、分かった気になっているんだなぁ。イタいなぁ」と思われるのが関の山なのだ。年配者が熱弁していても、同じ運命だ。政治に管を巻く年配者など、若者からは「分かった気になっているイタい人」に見えるのだ。
2015年、安倍政権の特定秘密保護法や安全保障関連法に反対した若者たち、SEALDsがその名を広めた。彼らが声高に主張したりメディアに出ているのを見て、「若者にも政治に強い関心をもつ奴らがいたんだな」と思う年配者もそこそこいた。だがその他多くの若者は彼らの行動を冷ややかな目で見ていた。さっきと同じで、「ああ、分かった気でいるイタい奴らだなぁ」と。
今の若者たちは、政治を知らないということを知っている。そのため「どの候補者を選んだら良いのか分からない(ということを知っている)」という状況なのである。それが昨今の若者の投票率の低さの原因だ。よくメディアで、若者がどうして投票に行かないのかを訪ねたアンケートで、「政治が自分に関係あるとは思えないから」と多く回答した例が挙げられるが、あれは「政治が複雑なのを知っているので、誰に投票したら自分にどう関係するかを知らない(ということを知っている)から」の省略形だと思ってもらっていい。
若者たちはむしろ、「政治のことはオレ達一般人が分かるわけがないから、プロである政治家に任せたほうがいい」と考えている。何も知らない自分たちよりも、「政治の内部にいる政治家の方が、少なくとも自分よりはマシな判断をしてくれるだろう」と思っている。そのため、ヘタに投票などしないほうが良い――それが最善解だと若者は考えている。
若者の自民党への投票率が高いため、「若者が保守化している」と危惧する声が聞こえてくるが、それは違う。若者は、「勢いに任せて他の野党に政権を譲るより、今の政治に詳しい政治家たちの方がマシなはずだ」という思いで、自民党に投票しているのである。
非正規雇用の拡大による若者の低賃金化、それに伴う結婚できない社会、超高齢化による年金や税金の負担の増加、かつての繁栄は衰えて中国や韓国に抜かれる日本経済…。若者の未来は決して明るいとは言えない。それでも若者はどちらかと言えば自民党に投票し続けるのだ。
人は、予期した吉報よりも、予期せぬ凶報を嫌がるものだ。政治を変えてより良い方向に変えるよりも、変えたことによって予想外のリスクに見舞われる方を避けたい。「自民党に投票したら少なくとも最悪にはならないだろう。それより他の野党に投票して、予期しないしわ寄せがどこかに来る方が怖い」と若者は考えている。実際、それは10年ほど前の民主党政権時代に経験し、若者たちが実感として知っていることである。
お分かりだろうが、若者は、政治家に政治を任せてはいるが、政治家を信頼しているわけではない。政治家が影で不正をしていたり、美辞麗句だけ言って実行しないことを十分に知っている。それでも、「オレ達一般人が政治の判断するよりはマシだから、多少の不具合はあっても目をつぶっていたほうが得策だ」と考えている。だから、モリ・カケ問題や、桜を見る会問題など、あからさまな腐敗があっても、若者はさして気にしないのだ。それより、「どうか頼むから、政治の分からない素人に判断を任せて、新たな問題を引き起こすのだけは止めてくれ」と願っているのである。
高齢化社会のため、高齢者の票ばかり集まり、政治家は票田になる高齢者の声だけに耳を傾けるようになる。これはシルバー民主主義だ――そう叫ばれる世の中だ。若者の投票率の低さが話題になるたび、SNSを含めた様々なメディアで、「たとえ若者の数が少なくても、みんなが投票すれば政治家は票集めのために若者の声を聞くようになる。若者も選挙に行こう」と煽る論者が現れる。だが、そういった論者たちも、「じゃあ具体的に誰に投票したら若者の生活が良くなるの?」に答えられる人はほぼいない。政治学者の間でも意見は分かれている。誰に投票すると国が良くなるのか、誰も分かってないのである。そう、誰も知らないのである。
若者はバカになったから選挙に行かないのではない。若者が賢くなり、知らないということを知るようになったため、選挙に行かないのである。政治のことはプロである政治家に任せたほうが良い――これが、若者たちが導き出した、合理的な結論なのだ。