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【論点整理】ABEMA Primeでの東大教授とひろゆき氏による牛角女性半額キャンペーンの議論について

先日Abema Primeで放送された「女性を優遇しすぎ? 牛角『半額』に男性が批判」が話題になっているようだ。有名焼肉チェーン店である牛角が、期間限定で女性のみ食べ放題半額のキャンペーンを打ち出したところ、「男性にとって不平等だ!」と声が上がり、肉ではなく牛角に火がついてしまったようである。

Abema Primeはさっそく俊敏性と柔軟性を生かし、この現象を取り上げた。ゲストとして東京大学大学院でジェンダー論を専門とする瀬地山角教授を呼び、討論が行われた。その中で、スタメンであるひろゆき氏が瀬地山教授を煽り、一方的に論破したかのような議論となってしまい、それが引き金となって「ジェンダー論者なんてこの程度ww」や「差別反対派が差別促進している」などと揶揄コメントがSNSで散見される事態となってしまった。

そう見えてしまった気持ちは分からなくないが、考えてもみてほしい。限られた番組の時間枠内で、その道の研究者がひろゆき氏(=一般人)の考えを覆すほど親切丁寧にロジックを伝えるなど無理筋である。それに、Abema Prime側の切り取りがどれほどだったのか視聴者は知る由もない。このままでは瀬地山教授があまりに不憫である。

理由は知らないが動画が非公開になったので、リンクを貼り付けたり書きおこしをしたりすることができない。だが「ちょっと議論が嚙み合ってないな…」と観ていて思い、また多くのコメントが「短絡的すぎでは…?」と思ってしまったため、瀬地山教授とひろゆき氏の考えを整理して、両者の考えの違いがどこにあるのか書き残してみたい。瀬地山教授を擁護する訳ではないが。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

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あの番組を観ただけでは、瀬地山教授がコテコテのフェミニスト系ジェンダー論者に見えてしまうかもしれないが、実際はそんなことはない(今どうかは知らないが)。というのも、私も学生時代に瀬地山教授の授業を受講していたからである。

瀬地山教授は、ジェンダー論の研究者の中でも男性であるという点で少し特異なのだが、授業自体もかなり中立的であった記憶がある。女性にフォーカスを当てた性差別ももちろん取り上げていたが、男性差別についても同様に取り上げていた。男性というだけでどれほど生きづらさがあるのか、という視点から展開される講義は面白く、また本人のユーモア性も相まって、駒場キャンパスで一番大きな講堂が埋まるほどの人気授業であった。

牛角の話に戻そう。私個人としては、「そこまで気にしないけど、まぁ確かに、今まで『女性差別!』と糾弾されてたロジックをそのまま当てはめると男性差別ということになるよなぁ…。吹き上がる人の気持ちが分からないでもない」といった感じだ。

瀬地山教授の考えは、まず性差別全体論と牛角の女性優遇は量的・質的に別であり、同列に議論すべきではない、というものだ。ひろゆき氏は逆に、量的・質的に問わず、同じ「差別」であり、また小さな差別が後々に大きな禍根を残すことになるから見逃すべきではない、である。ここの認識の違いがうまく解消されずに終わってしまった感がある。

先に述べた通り、番組の時間枠内で考えを全て述べるのは無理筋である。また、数年間アカデミアの世界に身を置いた私からすると、「研究者あるあるが起きてしまった…」という感想を抱いた。本当に「あるある」なのかは知らないが、研究者は普段からそのテーマについて考えているため、「問題があります。その原因は何でしょう?」と聞かれた時に、ワンステップの論理ではなく、一番根源的な、いわば原因の出発点だけを述べてしまうことがある。大げさに言えば、「なぜ日本人は英語が苦手なのでしょうか?」と聞かれて、「地球のプレートが原因」と述べてしまうように。

おそらく瀬地山教授も、根源的な原因をポンと軽い気持ちで答えただけなのだろう。「男性が履いているゲタの高さに気づいてない」などと。だが周囲にはワンステップの論理に見えるので、「瀬地山教授は『男性はゲタを履いている → この程度の差別でグチグチ言うな』と考えている論者に違いない!」と見えてしまうのである。おまけに討論相手は、相手の話に矛盾があればすかさずそれを突くエキスパートのひろゆき氏である。ひろゆき氏の手のひらの上で転がされてしまった瀬地山教授は不憫としか言いようがない。

瀬地山教授の言いたいことを私の拙い言葉で展開すれば、
「現在、女性であるというだけで不利になる構造が日本にはある。例えば、育休・産休を経たらキャリアアップしにくくなったり、非正規労働者に女性が多かったり、といった構造である。それは、直接的な差別主義者はいないにしても、日本社会の仕組み的にそうなってしまっているのだから、構造的な差別と言えるだろう。本当に解決すべきなのはこの構造的な差別であり、たかだか牛角の女性割引キャンペーンを、あたかも構造的な差別の議論のテーマであるかのように持ってくるのはおかしい。それなのに、わざわざ持ってくる人がいるのは、男性が構造的な差別の存在に気づいていないから=男性が履いているゲタの高さに気づいてないから、であり、「差別」という同じ単語を使っているが故に同じ種類の差別だと勘違いしてしまうからである。なので、差別問題の解決に必要なのは、この程度の女性割引キャンペーンを男性差別と糾弾することではなく、社会の構造的差別に気づくことである」
となる。

同じく、瀬地山教授の「全国の居酒屋で女性半額をやったら問題だが、1チェーン店がやる程度は問題ない」「女性が管理職になりにくい会社は山ほどあるが、それはその会社が努力すべきことである」も、私なりに展開すれば、
「全国の居酒屋で女性半額をやるようなら、それは日本社会全体が女性優遇=男性差別をしているという構造的差別のレイヤーになってくるので、問題である。だが牛角は1チェーン店であり、一企業のマーケティング戦略でしかないので、構造的差別ではない。確かに差別と言われればそういう見方もあるかもしれないが、多くの人の通念ではそれは受忍の限度内であるはずなので、問題ない。女性が管理職になりにくい会社があるのも同じで、日本全体で女性管理職が少ないのは何かしらの作用が働いた結果なので構造的差別と捉え、問題視すべきである。だがそれぞれの会社の文化的に女性管理職が少ないというのであれば、女性管理職が増えるような企業努力を各々がするべきなのであって、構造的差別といった全体論で扱うべきではない」
となる。

一方のひろゆき氏の意見を展開するとおそらくこうなるだろう。
「人種や国籍と同じように、性別も本人の力では変えられない属性である。人種ごとに値段設定したら差別にあたるのと同じように、性別ごとに値段を変えるのは差別である。もし受忍の限度で差別を許容するのであれば、女性の管理職が少ない会社があったとしても、それは受忍の限度だから仕方ない、というロジックが成立してしまう。受忍の限度、というものが曖昧である以上、そのようなことが必然的に起きうる。受忍の限度で決めるのではなく、一律で、明確な線引きをするべきである。また、牛角の女性割引といった小さな差別は、構造的な差別とは言えないが、多くの人が構造的な差別を意識していない以上、差別されたと感じる人が増えるのは当然である。その結果『こちらが差別されたのだから差別し返していいよね、だって今までそういうロジックで差別されたのだから』と思う人が増えて、さらに差別が増えてしまう。なので、構造的差別かどうかではなくて、小さな差別であってもそれを見過ごさず一つずつ潰していくのが差別を無くす良い方法である。もしも男性が履いているゲタがあるのだとしたら、そのゲタを減らしていくべきであって、片方がゲタを履いているのだからもう片方に別のゲタを履かせる、というやり方は、たとえ小さなものであっても、良くない」
と。

この「構造的差別か否か」の部分、もしくは「差別と構造的差別は同列で語るべきなのか」の部分で、瀬地山教授とひろゆき氏の相互に誤解があり、平行線を辿ってしまった感じがある。

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やはり、司会の平石氏のような優秀な論点整理者をつけて、せめて2時間くらい瀬地山教授とひろゆき氏で対談をし直してほしいものだ。決して、どちらかに赤っ恥をかかせたい、とかではなく、両者の認識の相違をほぐし、「根本的にここがあなたと考えが違うから、これ以上は分かり合えない」までたどり着くためである。

何か現実問題を解決するなら、まず現実を見なければならない。そして現実的な対策を考えなければならない。今の現実は「牛角の期間限定の女性割引クラスの出来事で男性差別と吹き上がる人々が増えている」であり、そのような吹き上がる人々の善悪はともかく、事実は事実としてまず受け止めなければならない。

瀬地山教授は「この程度のものを差別論に持ってくる方がおかしい」と述べているが、「この程度のものを差別論に持ってくる人が増えている」が現実なのである。それを「分かってない人が多いだけ」や「男性が履いているゲタの高さに気づいていない」と片付けてしまっても、何の解決にもならない。瀬地山教授が、「この程度で吹き上がる人々がいても何も問題ない」と考えているならそれで良いのだが。もし時間が許すなら「分かっている人=男性のゲタの高さに気づく人」をどう増やすか、または別の解決の道筋はあるのか、あの番組で説明しきれなかった続きの部分を見たいものだ。

一方ひろゆき氏であれば、「差別を無くすには男性のゲタを減らせばよい」と述べていたが、いったい瀬地山教授の言う「ゲタ」をどのように解釈しているのかが気になるところだ。もし瀬地山教授が具体的に「ゲタ」の例を出してきたら、きっとひろゆき氏は「それってデータあります?」とかで応戦するのだろう。だが本質はそこではない。私が気になるのは、果たしてその「ゲタ」とやらは、減らすことが可能な類のものなのだろうか、という疑問だ。

男性と女性は、思考でも、身体能力でも、統計的に有意差のあるデータなどいくらでもあり、「ゲタ」がそこに含まれているのだったら減らすことなどできないのでは? そこが一番の気になるポイントである。

やはりAbema Primeには再度議論の場をセッティングしてほしいものである。

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