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なぜ言い訳はダメとされてるのか?~言い訳はただのギャンブル~

「言い訳するな!」という言葉に疑問を覚えたことのある方は少なからずいるのではなかろうか。私もその一人だ。

たとえ相手に迷惑をかけたとしても、こちら側にも理由があり、決して自分だけが悪いわけではない、と主張すること=言い訳、はなぜか忌み嫌われている。「言い訳するなんてみっともない」と。よくよく考えれば、理由を説明することは人間として正当な権利だと思うのだが、なぜか人間は他人の言い訳に不快感を感じ、それを封じ込めたいようだ。

特に、目上の人に対する言い訳はなぜかタブー視されている。部下から上司へ、企業から顧客へ、また、謝罪会見に代表されるような著名人から一般人へ。これらのケースでは、言い訳は多大なる不快感を相手に与える。そのため「言い訳はしてはいけない」という固定観念を我々は若いころから学習しまっている。

では、なぜそもそも言い訳は嫌われるのだろうか。そう考えてみると、「言い訳」自体が悪いのではなく、言い訳は、それによって喚起される不快感を与えるか、与えないかのギャンブルではないかと思えるのだ。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

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なぜ人間は言い訳されるのを嫌うかと言うと、「せっかく優位なポジションにいるのに、それを剥奪される危機感を覚えるから」である。

基本的に、迷惑をかけた側、かけられた側では、優位なポジションにいるのは迷惑をかけられた側である。「俺は正しい。お前が悪い」と。優位なポジションを得た人間は、それに固執したがる。そして、相手が劣位な立場から上がってくることを徹底的に抑え込もうとする。交通事故で家族を亡くした遺族が、ドライバー側にどんな理由があろうと、ドライバーの罪を重くしたい感情と一緒である。

「言い訳」は、今現在劣位なポジションにいる人間が、その地位を上げようとする行為だ。自分の側にも正当な理由があり、決して自分が悪いわけではないのだと。悪かったとしても、それは些細なことであったと。それは、迷惑をかけたことによって下がってしまった自分の地位を、そうなった経緯を説明することで上げようとする行為に他ならない。

人はそれを嫌う。つまり、言い訳がなぜ嫌われるかと言うと、自分は正しい、相手が悪い、という自分が優位な図式を、言い訳されることによって崩されかねないからだ。相手にも正当な理由があることが判明してしまえば、相手にもそれなりのポジションが与えられて、自分の優位性が揺らいでしまうからだ。

会社に遅刻した部下を叱る上司を例にとると、「上司」という優位性を持って叱っているのだが、相手が「道が混んでいて…」とか「電車が遅れて…」とか言ってしまえば、ロジカルにはそれを認めざるを得ない。しかし認めてしまえば、「劣位であるはずの部下が言い訳することで、下の地位にいるはずの部下が、その地位を上げようとと狙っている」と感じてしまうのである。だから逆に、上司が遅刻して部下に言い訳することは、受け入れられている。もともと地位に優劣がついているので、言い訳をしても地位に変化がないからだ。そのため、上司は積極的に部下に言い訳をする。

「言い訳」とは、「みっともない」行為ではなく、ただ単に「不快」な行為なのである。年下の人間がタメ口で話してきて、ムッとするのと同類だと考えてもらっても構わない。自分より劣位な人間が、自分と対等な地位に立とうとすることによる危機感、を「みっともない」という言葉でコーティングして(ごまかして)いるのである。

「言い訳は聞きたくない」というフレーズは言い得て妙だ。まさに、「聞きたくない」のだ。上述した理由で。この言葉は、言い訳に対するホンネにかなり的を射た言葉だと言える。

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こう考えると、言い訳とはただのギャンブルだ。

たまにではあるが、優位な立場にいる側が、頭が良く、冷静な判断力の持ち主の場合、相手の言い訳が聞くに値するか、ロジックとして正しいかを吟味する。当たり前の話だ。情報が多い方がより多角的かつ客観的な判断ができるのだから。頭の良い上司は、単に部下が遅刻したという理由でその評価を下げようとせず、相手側にも何かしら理由があったか調べた方が、より客観的に評価を下せると考える。

言い訳が功をなすかなさないかは、相手の頭の良さに関わってくるというわけだ。運よく言い訳する相手が頭の良い、客観的に物事を判断しようとする人間であったら、言い訳をした方がベターだ。しかし、相手が言い訳を「みっともない」とばっさり切り捨ててしまうような頭の悪い人間だったら、言い訳はしない方がマシな選択となる。

言い訳は、それ自体が悪いのではなく、言い訳をされる相手がどのような人間かによって評価が変わるギャンブルである。

うまく「頭の良い相手」というカードを引ければ、自分のチップを守ることができる。しかし、運悪く「頭の悪い相手」というカードを引いてしまえば、言い訳をすれば賭けたコインは2倍以上剥奪される。その場合、言い訳をしないで被害を最小限に抑えることが良い選択となる。

また、言い訳は、その内容に対してもギャンブル性がある。例えば、「目覚まし時計の電池が切れてしまったので目覚ましが鳴らなくて遅刻してしまいました」と言い訳してみたらどうだろう。寝ている最中に電池が切れることは、確率的に起こりうることだと誰もが知っている。しかし、その確率は、相手を説得させるほどには高くない。「そんな滅多に起こらないことで言い訳するなんて、ウソをついているに違いない」と思われる確率の方が高い。

つまり、言い訳とは「上手く相手を説得できるか」で成否が決まる行為であって、実際に現実で起きたから正しいロジックである、は通用しないということだ。このあたりに強いギャンブル性を感じる。説得力のある理由でミスを犯してしまった場合は言い訳しても許される確率が高く、説得力の無い場合はそうではないということだ。もはやギャンブルだ。

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私は、できるだけ相手の言い訳を聞くようにしている。それも、できるだけ、相手が言い訳をしやすいように、「どうしたの? 何かあったの?」と耳を傾ける姿勢を保つようにしている。その方が客観的な判断ができると思っているからだ。

私は頭の良い人間だ、と主張したいわけではないが、世の中の人間はどうも言い訳に対する拒絶反応が強すぎるような気がする。そして、それは、自分の優位性にしがみつこうとしている愚かさに起因しているように見えて仕方ないのだ。

人間の嗜好を変えることは難しい。しかし、近い将来、「言い訳」という行為が、「みっともない」行為ではなく、きちんと筋の通った認められるべき行為であるという認識が広まってほしいと考えている。男性が台所に立つことがみっともなかった時代が一変し、男性も台所に立つように推奨される世界へと変わったように。

そう考えると、言い訳もまだマシになってきたかもしれない。「言い訳はするな!」と弁解の余地なく切り捨てられていた時代は、言い訳は犯罪と同じであった。やった瞬間に即逮捕であった。しかし、今日では、言い訳は合法的なギャンブルへと変わった。将来は、ギャンブル性さえとり抜かれて、普通の営み、へと変化することを期待している。

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