今日一日を新たに生きていく2-3
関西某所の残暑は厳しい。ここ数日暑さはマシに感じるが、本番はこれから。夏の終わりに向かって、後ろ髪惹かれる如く。夏は暑さで留まらせようとする。秋はまだ遠い。そんな毎日が積み重なってる日々の中で生きている。
<前回のあらすじ>
中学3年生。15の日々。生活環境の変化への抵抗と反抗。そしてデジタルツールによる簡略化した出会い。【大人】への勝手な憧れという現実逃避と人生が分岐した日々に関する雑記。
残念な初体験 後悔も沸かない初体験
ゲイ界隈ならよくある話なのか?逆にノンケの世界だと中々にない話だろうか?ともかく俺の場合、初体験の人の名前と年齢諸々、キチンと覚えていない。その日の事はある程度覚えているが、どこか他人事の様で良い記憶ではない。
初体験に幻想を抱いていた方が良かったのかも知れないな、と今は思う。
当時は、恋の延長で、とかロマンチックな、とかいう幻想を抱くよりも前にただ経験したかった。そんな単純な動機だった。
だからこそ、簡単に出会えそうなツールを使ったし、その一連の行動には【軽薄さ】しかなかった。
顔はおぼろげに覚えている。なぜなら今も当時も【タイプ】ではなかったから。本当に、どうしてその人とやったのだろう?今でも不思議で仕方がない。その人の事を悪く言うつもりはないし、下品な話で申し訳がないとも思うが、無理矢理でこそなかったがケツは痛かったし、単純にセックスが下手だなという印象しかなかった。
初めてのセックスという体験で、相手のそれを下手と評するものどうかとは思うが、現実はシビアなものである。というかやはり当時から俺は自分勝手の極みだったのだろう。その一度の出会いで相手への興味もなく、以降会うことも連絡を取ることもなかった。
恐らく、そんな初体験をすれば【後悔】でもしそうなものだが、俺の場合長らくその念を抱くことはなかった。いや、正確にはこの文書を書いている今だからこそ、一抹くらいには後悔を想うことは出来るのだろう。しかし当時の俺は後悔というよりも【残念】で【大したことないな】という感覚だろうか?『次、気持ちよくやることができればいいか』と自分でも引くくらいませた可愛げのないガキの軽率な感覚であった様に記憶している。
現に、その後割とすぐに別な相手(これもまた、名前諸々一切覚えていない)と出会って無駄に経験値を積み上げていた。本当に不健全な話ではあるが、中学を卒業するまでに、何人の大人と出会い経験をしたのか全く覚えていない。
これはそれでよいのだろうが、その当時出会った人々との関係はどれも長くは続くことはなかった。いや、別の見方をすると、その当時から俺は人との関係を良好に築く行為・過程・経験を大切にすることが出来なかったという事を意味しているのではないだろうか。
自身の事を振り返り、文章にする過程の中で【気づき】が得られるのは本当にありがたいことである。
非現実的な家出劇
中学を卒業するまでに、しなくてもいい経験を沢山してきた。
その一つに【家出】というなんとも、子供じみたというか、現実から逃げる手段にしては幼い行動を取っている。当時の自身の軽薄さに対して感慨も一層深くなる。
家出の原因はなんだっただろうか?
両親との関係も確かによくはなかったし、勉強が出来るわけでもなく進学に対して真面目に考えることを放棄していた。将来の事とか考えたくなかった。何かの所為にして現実からとにかく逃げていたかった。
当時の子供の俺にとってはそれだけで十分だったのかも知れない。
そしてその為に、俺は当時から【人を利用する】事で達成しようとしていた。
出会い系サイトを使って
『家出したいので、身を置かせてくれる人はいませんか?』
そんな文章を不特定多数の男性に送っていた。
サイトに実年齢を掲載していたのかははっきり覚えていないが、それでも返信は多数あった。今だからこそ思うのだが、近年SNSを使い青少年を犯罪に巻き込む案件というのは本当に身近に存在していて、未成年を狙う人というのは少年少女らの隙に付け入るのが得意なのだ。
俺が家出の滞在先として利用した人もそんな感じだったのではないだろうか。家出をしたいという訳も分からない事をいう中学生の話を聞き、『それなら自分の家においでよ』と小一時間やり取りした末に車で迎えにきてくれた時は自分でも驚いた。
しかし、家出だなんてそんなに上手くいく訳がない。
というか、俺を迎えにきた人がそんなに俺の好みでもなかった。そして俺自身がその人に対してどんな妄想と夢を抱いていたのか知らないが、全くそんな理想とはかけ離れていた。
だからその人の家について数時間後、何をするでもなく隙をついてその家から逃げ出した。
結局、最後は馬鹿みたいに記憶が無くなったフリをして、警察に補導され両親に迎えに来られ、うやむやにして家出を終える事となった。
本当に恥ずかしく、浅はかだとは思う。家出の原因を探らず記憶がないフリをする俺に、親は言いたいことを堪えてよく連れ帰ったものだと感心する。
人生の起動修正 決して一人では出来ない事
利用しようと勝手も知らない大人に近づいて、理想と違ったら簡単に捨て、逃げ去る。自己中心的行動の極みではあるが、15歳の未成年の俺がその後もこうして命があるのは、この自分勝手さな一面も多分にあるのだろう。
そうでなければ、実際に何をされていたのか分からない。その当時はだた逃げたいだけで、それ以外の事をロクに考えられる大人ではなかった。
15歳のガキに近づく大人。現実にこうして10年以上も前からまだまだ未発達のSNSを通して存在していたのだ。今SNSも多岐に渡る。数か月に1度のペースで大きな事件が起きているが、本当は毎日の様に小さな子供に近づく大人はいるのだろう。
子供の方も、色んな理由で巻き込まれようとする。
だが、子供のその矮小な思惑以上に大人の狡猾な淫情は恐ろしい。
子供の目で見る理想や憧れは本当の、本物の【現実】ではないのだと歳を重ねた今だから思う。
そのまやかしの【現実】には逃げないで欲しい。
俺には分からなかったが、その年齢なりの【正しい】逃げ方はあったのだと思う。それを誰が教えてくれるのだろうか、とは思うのだが、どうか一人で抱えず悪い方向へは逃げないで欲しい。
そんなつもりはなかったのだが、数日かけて書いたこの文章の終点が今日。
8月31日。夏休みの最終日。今年はいつもは違うが、本来なら明日からの学校再開に合わせて児童・生徒・学生の自死諸々が多い日だという。
この文章の本筋とは離れてしまったのだが、これも一つの縁なのだろう。
どうか、逃げても構わない。願わくば【悪い】逃げ方はしないで欲しいと思うのだが、なりふり構ってられない子も多いのだろう。だからとにかく今日を終わらせて明日に向かって欲しい。
【人生の軌道修正】というものはいくつになっても可能なのだと思う。
今を生きる俺は自信を持って言える。そしてその軌道修正は一人で取り組む必要はない。というか一人では出来ないし、出来なくたっていいのだと俺は確信した。誰かと一緒にやることが出来る。その誰かは今いないのかも知れないが、明日を繰り返すことできっと見つかる。
正しく逃げることのできなかった15の俺も、今になってではあるけれど、少しずつ人生の起動を修正するプロセスに取り組んでいる。
そしてその過程の中には常に沢山の【仲間】が俺のそばに存在してくれている。
今は毎日この事実に感謝をしながら、今日一日を生き、明日に向かって、今日を終えている。
つづく
数日前からこの記事を書いているのは先述べた通り。しかし書いていく内に最後は何かの啓蒙の様な記事になってしまった。
相変わらず、途中から文章が長くなる予感がして本来書こうと予定していた部分をカットしたのだが、書き終えた今、それで良かったと思っている。
この文章が少年少女の目に触れるとは思わないが、それでも良い。
逆に、【今日一日を生きる】ことについて、このシリーズを通して初めて触れる事にもなったので感謝している。
次回の更新はいつになるやら、ではあるがコツコツと続けていくことが出来れば幸いである。
【狼蓮】