上手い〇〇といい〇〇
星読みの仲間の上手い絵といい絵に関してのブログを読んで、noteでも上手い写真といい写真に関しての投稿を何度か見たことを思い出した。
上手い〇〇といい〇〇は、絵、写真以外にも俳句や文章など、全ての表現に当てはまる。
ホロスコープ的な視点では、上手い〇〇とは、やはり他者の目線、評価を意識したものではないかと思う。まさに月星座が働くことで、自分自身の太陽を輝かさせていくのではなく、ある基準、他者の目線に叶う表現を求めてしまう結果でないかと思う。
その月星座の働きに長年、私自身も支配されてきた。月星座で行っていくことは、無意識的にも太陽の喜びとはほど遠いものになるので、やがては何だか楽しくない、違和感が大きくなっていく。
noteの中では次の「いい写真」についての投稿がとても共感した。
うまく見える写真ではなく本当にうまくなりたい人に。|phe|itokaz (note.com)
私は12年前の古いデジタルコンパクトカメラを2年前に中古で購入し、愛用している。
どこかに行く際には、必ずかばんにこのカメラを忍ばせるようになった。
カメラ、写真は独学で、この2年間、ひたすらシャッターを押し、帰宅してから、これは違う、これは違うと削除していくことの繰り返しでだった。
今も100枚撮影しても残すのは数枚程度という感じで、なかなか自分が撮りたいと思ったイメージどおりには撮影できないことが多い。
反面、さりげなく撮影したものに斬新なイメージがあったりすることは、俳句でもまったく同じである。
時間がなく投げ出すように投句した俳句の中に今迄、自分にはなかった新しさが含まれていたりもする。
俳句は文字数、季語を用いる等制限が多く、言いたいことが言えない文学とも言われている。さらに句会で制限時間のない形で句をまとめるような場合は、猶更、制限され、結果的に計らいのないまま作ってしまうことがある。
未完成なままの句になる場合もあれば先ほどのように自分の殻から飛び出たような句になる場合もあり、とても不思議だ。
今日もエゴラッピンの曲で、
初期の頃の曲であるようだが、何とも表現が豊かで味わい深い。
十年も住み慣れた街櫻の芽