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いのちは誘う
「いのちは誘う」というタイトルと写真随想というサブタイトルに惹かれた。
いのちは誘う / 宮本 隆司【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)
読みだして、いきなり「見るためには闇がなければならない」という見出しに釘づけになる。
人体の内奥は暗闇である。その闇に光を導き入れるための二つの球体が眼球である。球体内部に闇が保たれた眼球は、前面にレンズとなる角膜に覆われた水晶体があり、透明な硝子体で埋まっている。(中略)
人がものを見るためには、闇と光と、感光材料としての眼の網膜や脳が必要なのである。眼という受光装置が機能するためには、光とともに闇が必要なのである。物理的な必然といっていい。
この解説には衝撃を受け、闇があって光が存在するという物理が普遍的なものであるということを改めて認識させられた。
そして著者はホームレスのダンボール小屋を撮影し小屋の中から見える風景を見ていく中で視覚が既成概念から自由になったような気がすると語られている。その際に安部公房氏の「箱男」の「風景のあらゆる細部が、均質になり、同格の意味をおびてくる」という部分を引用されていたのが象徴的に感じた。
ピンホール写真撮影のためには、ピンホールをつけたベニヤ小屋の中に人が入り、ピンホールを一定時間開けて、内部に光を入れ、印画紙に焼き付けるらしいが、その際に撮影者の身体がシルエットとなって写真に写るようである。
著者は、そのことを「見ている身体が見えないものとして見えている」と逆説的な表現をされていることに目が止まった。
本書におけるフレーズがとても驚く表現で、そこでも目が釘づけにされる。
さらに偶然、夢と幻、記憶という章でも、夢、写真、俳句、タロットカード、ホロスコープ、note、本等を通して出会うものを偶然(必然)性として受け入れていこうと意識している私にとっては深く共振する内容が語られていく。
写真という形式、技法の特性として、時間を止めるみたいなところがあります。それを出会いといったり、記録といったりするんじゃないでしょうか。偶然、一回限り、出会い。そうなんですけれども、ただそれをどうとらえるか、どう見るかで違ってきます。偶然を、自分の中で必然的なものにするか、固有のものにするか
写真という形式は受け身というフレーズは、私も俳句と写真を重ねていく中で共通して感じている要素である。
太陽の日の強さや向きはコントロールできないし、まさにそのときに出会った光景(光の景)を受け止めていくしかない。
私は50になって俳句を60になってから写真をはじめたが、仕事や健康面、家族関係等軋轢が多く、そのときに出会ってはじめた俳句、写真で今を生きる方向性に意識を向けることができ、何とか正気を保てたのではないかと思う。
あと、写真という形式は受け身である。受動。よく誤解されるんですけど、写真はハンターのようにものを狙って撮るんだというふうに思われがちですけど、決定的なところでは、光景を受け容れる、光を受け止めるという、受け身の部分があるんです。(中略)
過去に戻って写真を撮ることはできません。未来に行って写真を撮ることもできません。写真を撮るときは、いつも今・ここなんです。
本書の後半は、著者の生まれた徳之島の歴史、文化に関して書かれている。
その中で徳之島生まれの詩人 泉芳朗氏に触れられている。
徳之島も沖縄と同様に戦後、米軍統治となり、本土との物流は途絶えて食料難に苦しんだ。泉芳朗氏の復帰願望の激しい作品が紹介されている
悲しい日
いちばん悲しいことは
喪つたものがふたたびかへつて来ないと
いふことではない
うちに希つているものが与へられなかつた
と、いうことでもない
わずかにおよばずしてとどかざるを識る
あの縹渺たる空白の
ひとときである
数日前に沖縄の自己決定権に触れた後に、このような形でまた徳之島の戦後の暮らしから生まれた慟哭の詩に触れる流れになったのも必然的な流れで
あると受け止めた。
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合歓の花日の迸るところあり