【試し読み】ギャグ小説日和 転校生
『ギャグ小説日和 転校生』発売を記念して、収録作品「転校生」冒頭の試し読みを公開させていただきます。
あらすじ
それでは物語をお楽しみください。
転校生
ブラジルで育った浦賀拓実は両親が共に日本人で、全く澱みのない日本語を話す。ブラジルからの転校生という波乱の二学期を予感させる大ニュースに教室はどよめいたが、照れ臭そうに登場した浦賀拓実のブラジルのブの字も感じさせない風貌と流暢な日本語に、がっかりしたような安心したような、どちらとも取れる空気がにわかに教室を濁し、速やかに霧散した。それは二学期も一週間を過ぎた頃の、まだ少しだけ夏休み気分を引きずっていたい、それに応えるように蟬の五月蝿い暑い日のことだった。転校生を待っていたように席替えが行われ、浦賀拓実は真ん中の最後尾、佐々木広道の隣になった。
つまらないことになったと佐々木は思った。A組の人数は浦賀拓実の登場により三十二名となり、全六列のうち真ん中の二列だけが他の列より一名多い列となったのだ。それで教室の最後尾には佐々木と転校生の二人だけが飛び出る形となった。一学期までは、一人多い列はただ一つだけでそれは窓際の一列だった。その窓際の最後尾はどちらかというと良席、特等席とみなす向きさえあったが、この二学期における最後尾の席は、少なくとも佐々木にとっては残念なハズレ席だった。教室内を左右対称にしたいという担任教師の思いつきによる配置の変更であったが、それによって教室の中央、最後尾の二席は際立った孤立感を主張するようになり、ましてそのうちの一つにはブラジルからの転校生が鎮座しているとあっては否が応でも注目を集める、まるでミニステージのような二席となってしまった。佐々木には自分とその隣の二席のスペースだけが、わずかにせりあがっているのではと思えるほどだった。
浦賀拓実は静かに席に着くと同時に「よろしく」と小さな声で佐々木に挨拶をした。佐々木はホッとした。ブラジルからやってきたとはいってもごく普通の日本人、どうやら自分の享受する特段の刺激も退屈もない安穏たる学園生活を搔き乱すような存在ではなさそうだと感じた。もう二学期だし、ことさら仲良くなろうと努めなくても、程々の距離を保ち、学園の中でのみ交流する友達になれればいい。佐々木は転校初日の緊張を湛えた浦賀の顔に持ち前のサービス精神を刺激され、ちょっと過剰だったかと自嘲するほどの笑顔で「よろしく、あ、俺、佐々木」と返した。それに対しては何も返ってこなかった。
一限目の授業は数学で、担任の数学教師がそのまま教鞭をとった。授業中、教師は浦賀拓実の理解の程度や授業に対する反応を観察しているようだったが、授業終了のチャイムが鳴ると、満足そうに教室を出ていった。横からチラチラと見ていた佐々木の目にも、授業中の浦賀拓実はやはり至って普通の男子生徒で、授業を理解できているのかはわからないが、少なくともその佇まいは当然ながらいかにも日本人のそれで、ブラジルから来たことなど早くも忘れさせるほどだったがさすがはブラジル、一限目が終わるや否や浦賀拓実の席を取り囲んであれやこれや質問を畳み掛けるクラスメイトたちによって、教室にはかつてないブラジルブームがやってきた。
ブラジルのどこにいたのか? サッカーは上手いのか? どんな学校に行っていたのか? なぜブラジルに? クラスのカースト最上位と言える、明るく社交的で、少し排他的な雰囲気を持つグループ、面白そうなことには何にでも首を突っ込む、佐々木の中では特攻野郎Aチームと呼ばれるその男女数人のグループの無邪気で無遠慮な質問の数々によって、ブラジルでの浦賀拓実があっという間に露わになっていった。台風の目となった浦賀拓実からは離れたところに落ち着いて、近づいてこようとはしない生徒達ももれなく耳をダンボにして、地球の裏側から吹いてきた熱風を受け止めていた。
まず誰もが驚いたのは、浦賀拓実が住んでいたのはジャングルに囲まれたような田舎の町だということだった。クラスの誰も聞いた事がない町で、そこの学校には通っていたが休みがちだったらしい。何せ学校へは歩くと一時間かかり、それもジャングルを抜けなければならず、途中吊り橋を渡ったりもするというのだ。それで勉強は両親から、特に数学などは熱心に教えられたという。両親は共働きで、何かの薬の会社だとか、植物の研究だとか、浦賀拓実の説明がどうもはっきりしないので、彼自身よく理解していないのかもしれなかったが、特攻野郎Aチームの誰もそのことにはさほど興味が湧かなかったようで深く追及せず、もっぱらジャングルという言葉のインパクトに支配され、どんな動物がいたかとか、部族の集落はあったかとか、そんな質問が誰からともなく次々と湧いて出た。
浦賀拓実はたくさんのクラスメイトに囲まれ最初こそ戸惑いを隠せない様子だったが、質問に一つ一つ答え、その答えのどれもが純粋な好奇心による大いなる感嘆でもって受け止められるので、すっかり気分も高揚し、次第に饒舌になっていった。
「腹減った~」
二限目のチャイムに殴られたように苦しそうに腹をさすりながら浦賀拓実が言い放ち、クラスメイト達の爆笑を得た。いいオチがついたとばかりに皆が次々と自分の席に帰っていき、音もなく現れた社会科の教師が黒板を背にすると、すっかり落ち着きを取り戻した教室では再び浦賀と佐々木が後方の孤島に取り残された。その表情は対照的で、成し遂げたような自信に満ちた浦賀拓実の横顔をチラチラうかがう佐々木は、呆気にとられて拠り所が定まらないような顔をしていた。
二限目の終了のチャイムが鳴り再び教師不在となった教室では、まだまだブラジルから吹いてきた温風は浦賀拓実を軸に熱を持ったままだったが、一限目の終わりと違い浦賀の周りを取り囲む生徒はいなかった。三限目が体育なので、女子生徒は全員更衣室へ移動し、教室には男子生徒だけとなり、中には女子の姿が教室から無くなるのを待たずさっさと着替え始める者までいて、男子生徒の着替えという慌ただしい日常感の圧力が、急に吹いたブラジルの風を教室から押し出そうとしていた。それでも佐々木をはじめ浦賀拓実の近くにいる何人かは着替えながらも転校生を気にしている様子で、それを感じてか、それとも誰も自分に注目していないと感じたのか、浦賀拓実は上半身裸になると腹をさすり、先刻よりも力強く呟いた。
「腹減った~」
ほんの一瞬、教室が凍ったように静まったのを佐々木は感じた。たまたま誰も口を開かない瞬間がその時にあったのかもしれないが、佐々木にはそうではないように思えた。柔道部の青田がその一瞬をなかったことにした。
「いや早いよ、腹ペコキャラか」
どっと笑いが起こった。恥ずかしそうに腹をおさえたまま裸の浦賀は答えた。
「朝おにぎり三つしか食ってないしさ」
今度は卓球部の野呂が返した。
「しっかり食べてんじゃん」
また少し笑いが起こった。佐々木もつられて笑った。笑いながらも訝しみ、転校生の覚悟とも言える腹づもりを推量した。どうやら浦賀拓実という男は自身を常に腹を空かせた食いしん坊なキャラだと皆に伝えようとしているようで、本当に腹を空かせているのかはわからないが、とにかく相当な決意をもってクラスに受け入れられよう、あわよくば人気者になろうと今まさに足搔いている。なるほどそれは非常にわかりやすいとっかかりで、謎に満ちた転校生に対して各々が接してみようと試みる上で隔たっている壁を取り除く一助となるものだった。安易かもしれないが或いはこれ以上ない一手ではないかとさえ思えた。佐々木は浦賀拓実の、転校生として望ましい大いなる勇気に感服した。
カーテンが開け放たれた窓から、午前の強い陽光を反射して光っているようなグラウンドを眺めて誰かが言った。
「プール入りてー」
その日の体育は他の学年がプールを使用するため、三年A組はカンカン照りの中ソフトボールをする羽目になっていた。続けて卓球部の野呂が言った。
「ソフトボールとかいらねー」
それを受けて浦賀拓実が発した。
「ソフトボールって何だ? 食いもん?」
一同がギョッとした。笑う者もいたが、耳を疑って浦賀の顔を見るだけの者が多かった。佐々木もその一人だった。柔道部の青田が少し笑いながら、皆の気持ちをまとめるように言った。
「マジか、ソフトボール知らんとか、マジで?」
浦賀は次の言葉が思うように出てこないといった様子ではにかんだ顔をこしらえていたが、青田の言葉が口火となり立ち所に色々な声が浦賀に、あるいは誰にともなく発せられた。
「いや、スポーツスポーツ」
「マンガのキャラじゃん浦賀君」
「すごいな」
「野球みたいなやつだよ」
転校生の転校生たる強い意志と勇気に敬意を持ったばかりの佐々木だったが、冷や汗が全身から出るような不快な衝撃を受け、(踏み込みすぎだ)と心中で叱咤した。ジャングルから来た、物を知らない腹ペコな奴、というキャラクターは浦賀拓実の思い通りにクラスメイト達に受け入れられ、あわよくば人気者にだってなれる可能性があった。それなのに調子に乗って踏み込まなくてもいいところまで踏み込んでしまった。蛮勇だ。佐々木は呆れた。何の縁か席を隣にし、孤独な転校生のプランに即した懸命さを目の当たりにして、心から彼の学園生活を応援する気になり始めていたが、今や佐々木の眉間には深いしわがより、お調子者の綱渡りを見るような眼光を浦賀に向けて放つばかりだった。
笑いこそ少なかったものの浦賀の発言で場は大いに盛り上がり、グラウンドへの移動で一人また一人と教室を後にして自然と小さな祭りは収束したが、最後の数名となるまで教室に残っていた浦賀拓実はその顔に晴れ晴れとした達成感を湛えていて、そのことがより佐々木を苛立たせた。
何も達成していないのだ。そのキャラを続けていくのだとしたらそれは継続して相当な労力を要するもので、引き返すのなら今しかない。そうアドバイスしたい気持ちだったが、しかしもしかすると……佐々木は迷い始めた。本当にソフトボールを知らなかったのかもしれない。浦賀という人物のことを自分はまだ全然わかっていない。彼はキャラを作り上げようと奮闘しているのではなく、純粋にありのままの自分でクラスに溶け込もうとしているだけの、何の変哲もない転校生なのではないか。そうでなくては、ソフトボールって何だ、食い物かなどと言えるものではない。クラスの皆はもう彼のことを受け入れているように見えるし、自分だけが浅ましくも懐疑的に見ているのかもしれない。確かに自分にはちょっと意地悪な面もあるだろう。そう考えて佐々木は少し恥ずかしさを覚えた。もう少し様子を見よう。そしてどちらにせよ隣の席なのだし、二人きりの孤島の住人なのだから、なるべく彼の力になってやろう。最後の一人となってしまった佐々木は慌てて教室を飛び出した。
野球とほとんど同じだと説明されて、浦賀拓実はソフトボールという球技をすっかり理解したようだった。大袈裟に合点がいったという顔を作って「あー野球ね」と独り言のように言った。やはり本当にソフトボールのことは知らなかったのだと佐々木は思った。しかしソフトボールを食べ物かと推測したところまで本当かとなると疑念の余地が残る。とはいえよくよく考えてみるとソフトボールという名前にはミートボールに似た響きが確かにある。相当に柔らかい加工肉が、給食センターの人達の手によって一つ一つ丁寧に丸められた、味も離乳食のようにソフトな肉団子、それがソフトボール。そう思っても不思議はない。佐々木がそんなことを考えている間に、一番バッターに祭り上げられた浦賀拓実の不恰好なフルスイングから力強い内野フライが高々と打ち上げられた。浦賀の身長は百八十センチ近くあり体も細くない。なかなかの腕力を持ち合わせているようだ。おおー、という声が所々から上がった。ここでも成し遂げたといった顔をして歪なバッターボックスから引き上げてきた浦賀は、誰にともなく大きな声で言った。
「腹減って力でねー」
また来た! と佐々木は心で叫んだ。同時に、もう穿った見方はやめて、転校生のこのキャラクターを素直に受け入れようという、諦めも含んだ寛容が顔を出した。彼は本当に物事を知らないし、本当に腹が減ると力が出ないのだ。確信は持てないがそうなのだ。そう思って接することこそが変わらぬ平穏な日常を保障するのだ。そのあと二度、豪快な三振を披露した浦賀はその都度、空腹で力が出ないとぼやいた。
浦賀拓実はブレなかった。クラスメイト達の会話に積極的に参加して、わからない言葉に「~って何だ?」を連発した。皆がそれに慣れ、口にこそ出さないがだんだんと面倒臭くなっておざなりな返事をしようものなら、ここぞとばかりに「それ美味いのか?」とか「それ食いもんか?」を繰り出し無理矢理に関心と笑いをもぎ取る。そのあとダメ押しとばかりに「腹減ったー」を付け足すともう一丁上がりといった面持ちで満足気な浦賀を見る佐々木は、フルコースおいでなすった、とか、はいお疲れ様です、とか思うのだが、都度また意地悪なところが出ているぞと自身を戒めて、心細かろう転校生を見守る優しいクラスメイトに変わるのだ。クラスで最も浦賀拓実を気にして、事あるごとにその言動に注意を払っているのは間違いなく佐々木だった。
教室の窓から見える銀杏の大木にはもう僅かの葉も無くなって、冬の訪れと中学時代の終わりが近いのを伝えているのに、休み時間の教室には様々な声が折り重なったり弾けたりして誰もそんなことは気にしていないといった風で、冬休みが近づくほどに喧騒は増していくように感じられ、そのことに佐々木は一層の淋しさを覚えた。
昼休み、佐々木を含め男子ばかりの六人が教室の真ん中あたりで時間を潰すように雑談をしていると、話は皆にとって馴染みのショッピングモールにあるフードコートのことに及んだ。『フードコート』という言葉が出て佐々木は教室の後方にチラと目をやった。二人だけの無人島に一人残り、腕を組んで窓の外に何かを見ている浦賀は何の反応も見せなかった。佐々木はおやと思ったが、以前誰かがフードコートで一緒に勉強しないかと浦賀を誘っていたことを思い出した。その時浦賀は「フードコートって何だ、どんな食いもんだ、美味いのか?」と言った。美味いっちゃ美味いよ、と誰かが答えて笑いが起こっていた。思い出して佐々木は安心した。もしも浦賀にとってフードコートが初耳で、今この六人の輪の中に「フードコートって何だ?」と割って入ってきたとしても誰も笑わないし、説明するのも面倒で下手をすると誰も返事をしない可能性さえある。皆が浦賀のキャラクターには慣れっこだし、良く言えばクラスに馴染んだとも言えるが、少なくとももう誰も浦賀のお馴染みのキャラクターで盛り上がろうという気持ちにならないのは明らかだった。
フードコートに行こうという話になり、六人のうちの一人が、あそこの Wi-Fi は変だ、と言い出し、それを皮切りに話が小さな盛り上がりを見せた。
「Wi-Fi 変て何だよ。遅いだけじゃん」
「いや別に普通だったよ」
「俺ああいうとこの Wi-Fi って使わない実は」
佐々木は教室の後ろを見なかった。見なくとも床に椅子が擦れる大きな音が浦賀によるものだとはっきりわかり、わかった時には自分の方に浦賀が歩み寄ってくるのがわかった。
「Wi-Fi って何だ?」
おいでなすった! と心で叫んだのは佐々木だけではなかったかもしれない。佐々木は言い知れぬ不安でいたたまれなくなった。案の定、Wi-Fi が何であるかを率先して説明しようとする者はおらず、今やお決まりの短い沈黙があった。一人がぶっきらぼうに「Wi-Fi は Wi-Fi だよ」と言った。
「ネットに繫ぐやつだよ」
慌てて佐々木が補足した。佐々木の思いを知ってか知らずか浦賀は平然とした顔であっさりと納得した。
「ああ、インターネットのやつね」
佐々木がひとまずの安堵を得た時には、帰宅部の園田が浦賀の立場をおもんぱかって、穏便に輪の中に招き入れようと試みていた。
「浦賀君もあそこのフードコート行くの?」
園田の問いに黙って考えるような素振りを一瞬だけ見せて浦賀が発した言葉に佐々木は愕然とした。
「フードコートって何だ?」
ほんの小さな間ではあるがとてつもなく重い、重金属のような沈黙が場の全員を覆った。
「ああー……」
ため息混じりに誰かの声が聞こえて、途端に佐々木は浦賀拓実を気にかける自分が馬鹿らしく思えた。浦賀は転校初日から何一つ変わらず、ただ自分のキャラクターを貫いているだけに過ぎないが、何の因果か回ってきた損な役回りを引き受けていると感じていた佐々木にとって、それは無償の気遣いを踏みにじられることだった。
「いや絶対知ってるだろ、この前フードコートって何って聞いてたじゃん。そんでフードコート行ったって聞いたけど」
苦々しい笑顔で苛立ちを隠した佐々木の言葉を聞いて何人かが笑った。
「知ってんのかよ」
「いいってもう浦賀君」
「キャラ必死じゃん」
次々と浦賀拓実に言葉が降りかかった。佐々木がずっと腹の底に溜めていた言葉の数々を全員で団結して芋づる式に引っ張り出したようだった。みるみる浦賀の顔は赤くなっていった。真っ赤な顔で一際赤い唇が震えた。
「いや、違うし……」
赤いのを通り越してプルーンのように青紫になっていく浦賀拓実の顔を見て、途端に輪の中から笑いは搔き消え、これは大変なことになるかもしれないという予感が六人全員の体を硬くした。もしかしたら泣いてしまうのではないか、それとも怒り出すのか、暴れ始めるのか、誰かがあとほんの少し、軽くつつくだけでこの大きなプルーンは弾けてしまう、そんな危うさを誰にでもわかるほどに放散していた。難関高を受験する優等生の和田が、自分は潔白だと言わんばかりに佐々木を槍玉に上げた。
「佐々木君が言うから……」
血の気がひく思いがした。全員の気持ちを代弁したような気になっていた佐々木だったが、突然刺股で取り押さえられ、そのまま刺股で処刑台の上まで押されていくような恐怖から、パニックになった頭の中を咄嗟に搔き回し弁解の言葉をなんとかひねり出した。
「いや、みんなじゃん!」
佐々木は自分のすぐ右側に大きな気配を感じた。気配というより怨念であったかもしれない。大柄なその男は右腕を頭よりも高く上げた。佐々木は横目で、その腕の先にある少し毛深い手が硬く握られているのを見た。佐々木の脳天にハンマーのように拳が振り下ろされ、ドンッという鈍い音と共に佐々木の体はくの字に曲がった。
一体どこまでが現実でどこからが違うのか、佐々木にはわからなかった。人生において人に殴られるという経験がなかったことも災いして、佐々木の頭は恐怖と恥ずかしさでいっぱいになり、やり返そうとか、次の攻撃に身構えようという考えは微塵も浮かばず、ただ目の前にある帰宅部の園田の机に両手を置いて、前屈みの姿勢のまま硬直してしまった。浦賀拓実の右拳はまるで鉄槌を下すように佐々木の丸くなった背中を叩いた。再びドンッという鈍い音が教室に響いた。
不思議と痛みはあまり感じなかった。思わずしゃがみ込んでしまった佐々木を尻目に、午後の授業の始まりを告げるチャイムを聞いた浦賀拓実は口をギュッと結んだまま自分の席へ早足で帰っていった。しんと静まった教室で、全員の視線を集めるのは佐々木だった。自分の席に腰掛け、目の前の惨劇を見上げていた園田は、今や自分の目線より低い位置にある佐々木の頭に「大丈夫?」と小さく声をかけた。
「別に」
佐々木は慌てて立ち上がり答えた。立ち上がってやっと、教室が異様に静まり返り視線の全てが教室の中央、たった今何事もなかったような顔をして立ち上がった自分に向けられているのがわかった。バツが悪そうに優等生の和田が「大丈夫?」と小声で訊いた。
「え、別に」
精一杯強がるしかなかった。続けて卓球部の加藤と科学部の町田が「大丈夫?」と声を揃えるように言った。このままでは全員の「大丈夫?」を聞く羽目になりそうで、早く全てを過去のことにしたい佐々木は自分の席にさっさと戻りたかったが、氷のようになった教室で唯一の避難場所である自分の席は、残念ながらどう目を凝らしても浦賀拓実の隣で、二人きりの孤島なのだ。社会科教師の戸塚は始業のチャイムが鳴ってもなかなか教室に現れないことで知られていて、あと一、二分は来そうにない。できれば授業が始まる直前まで席に戻りたくなくて佐々木が立ち尽くしていると、帰宅部の小坂が「大丈夫?」と囁いた。
静まっていた教室はざわざわと、本来あるべき音を取り戻し始めていた。教室で立ち歩いていた生徒や、教室に今しがた戻ってきた生徒達も次々と着席し、立っているのは佐々木を含めてほんの数人になってしまい、仕方なしにうつむき加減で自分の席へ戻り始めた佐々木だったが、ざわざわとした音の中に「殴られた」とか「ケンカ」といった言葉が混じっているのがわかると、目から今にも涙が溢れ出そうになった。絶対に誰にも涙なんて見せたくない。顔いっぱいに力を込めて席に着いた佐々木は、今にも泣いてしまいそうなほど傷ついた自分と、自分をそのようにした隣の男に対して今も恐怖していることが悔しくて、そのことで余計に涙が出そうになり、もういっそ泣いてしまおうかと思ったところに社会科の教師が現れ、すんでのところでその涙を止めた。社会科教師の戸塚静は顎の剃り残しを撫でながら、教室の雰囲気に違和感を感じ取り、何か言いたげに教室を見回したが元来事なかれ主義を地でいく男で、結局そのことに何を言うでもなくいつも通りの授業を展開した。
佐々木は緊張感を保ち教師の言葉の全てを聞き、その目は黒板と教科書とノートの間を行ったり来たりした。それはまるで中学に入学したばかりの、緊張と期待に満ちた一学期のようだと感じられた。ただ当時と違うのは、たった今感じている緊張が、自分の真横に怪物が息を潜めて座っていることによるものだということだった。ついさっき人目を憚らず自分のことを殴りつけた怪物。教室中に響いたあの鈍い音は自分の頭部と背中から発せられたと思うとゾッとした。しかし転校生もそんな目立ち方は望んでいなかったろう。よほどの怒りで我を忘れての凶行だとしたら、今も自分のすぐ隣で怒りのマグマは煮え続けているのではないか。佐々木は浦賀の方を向くことも、横目で見ることさえもできずに授業に聞き入った。授業を真面目に受けるのは当たり前だ、これが学生の本分だなどと心で呟いて、何を言い訳しているのか佐々木自身よくわからなくなったが、抑揚のない退屈な授業はその緊張と集中によって、いつもより早く終わったように感じらた。もしかすると授業中に、浦賀拓実が「ごめん」と小さな声で囁いてくるかもしれないという期待もあったが、時折フス―――ッとかピイ―――――ッとか大きな鼻息を発して佐々木をドキッとさせるだけで、ついぞその口から望んだ言葉が聞こえてくることはなかった。
教師が退室すると、まるで昼休みの惨事がなかったかのようにいつも通りのざわめきが教室を満たした。いつも通りではないのは、佐々木が友達と固まるのを嫌って、自分の席に座ったままでいることだった。その隣の浦賀拓実が休み時間を座ったままで過ごしているのは珍しいことではなかったが、教室の最後尾の二席に腫れ物のような二人が並んで座ったままなのはやはり異様で、誰の目にも二人と、二人を除く教室の中の一切のものとの間には薄気味の悪い膜があった。その膜を面白がってつついたのが特攻野郎Aチームの本間で、不意に佐々木の前に現れるや否や「ケンカしてんの?」と無思慮な言葉でもって佐々木を殴りつけ、返答も待たずにさっさとAチームのアジトのような、日当たりの良い窓際前方の世界へ戻って行ってしまった。アジトからこっちを見て笑っているのが見える。昼休みに「大丈夫?」を畳み掛けてきた仲間達は近寄っても来ずに、教室の真ん中で何か話している。佐々木は為す術のない孤独を突きつけられ、机の両端をぎゅっと握った。ずっと前から孤独だったような気もする。自分はこれまでもこれからも、ずっと一人ぼっちなのではないか。皮肉なことにこの教室で唯一、佐々木と同じに否応なく一人きりで佇む同志はことの元凶である浦賀拓実だけだったが、彼が同じように身動きが取れないような孤独を感じているのかはわからないことだった。
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