「選択権は常に自分の中にある」我々日本人が忘れやすいコト
コロナ禍に入って不自由を感じる毎日だとよく聞くが、
本当にそうだろうか?
飲みに行けば避難の的になるし、
旅に出ればウイルスの感染源として警戒されるし、
そんな奴だと思われると周囲の評価は下がる。
そんな中で"自粛"というキーワードを国家・メディアが
我々国民に制限を自らかけるように求めてくる。
そして、私たちの中にある感覚として、コロナ禍での自粛は常識的であり、従わない者は非常識だと捉えることが普通になる。
メディアで取り上げられる医療現場の苦悩や高齢者の不安。その一方で、自粛によって悲鳴をあげる飲食・観光・宿泊などの業界。
この双方のシーソーゲームのような地獄が繰り広げられているのがコロナ禍だと認識されている。
しかし、本当の地獄はもっと身近にある。
私たちから選択権の意識が薄れていくことである。
「〜しちゃいけない」「〜しなきゃ」と
義務の意識が強くなってきたなと日常で感じ始め、
気がつけばコロナ鬱という症状が散見され、
知らないところで人生に絶望する人が増えている。
今回は、私たちの中に常に選択権があることと、周囲にどれだけ見失っている人がいるのか、お話ししたいと思います。
①選択権を失った人の地獄の日常
コロナ禍に入って趣味を失った人がいる。
その趣味はコロナ禍においては悪だと認識されるからだ。
その人たちはコロナの終息を心から願い、
自らの行動に制限をかけつつ、周囲にも訴える。
しかし、増え続ける感染者数。
その現実を前に、願いは絶望に変わる。
「もう生きていても楽しみがない」
「毎日が忍耐。死んだ方がマシ。」
そんな人たちにさらなる地獄が訪れる。
東京五輪の開幕だ。
(※私は五輪をちゃんと観戦しました)
自身の趣味を否定する社会に矛盾が生じる。
「なぜ東京五輪は開催していいの?」
「私たちの趣味はダメなのに何故?」
社会から拒絶された挙句、矛盾を抱え込まされ、
絶望の日常を毎日送ることは苦痛の極みに違いない。
②選択権のない社会の行く末は‥
このままコロナが常態化すると、社会は割れる。
一つは、趣味を失わず、このコロナ禍においても自身が実現したいことが可能であり、何一つ不自由のない生活を送ることができる人間。つまり、選択肢が豊富な人。
もう一つは、趣味を失い、このコロナ禍において自身が実現したいことが不可能であり、叶わぬ欲求を抱え、不自由な生活を送る人間。つまり、選択肢が少ない人。
選択肢=HP(ライフポイント)
のような考え方になれば、
選択肢が少ない人は社会から離脱せざるを得ない。
社会からの離脱というのは、
「自殺」→自ら人生に終止符を打つ
「反抗」→社会の正義に抗い、強行する
などが想起される。
各人の持つ個性や背景などの違いの尊重が謳われるこの時代に全く逆行した未来が予測される。
そんな時代をどう乗り越えたらいいのでしょうか?
③選択権は常に我々の中にある
私個人の見解ですが、
「自分の意思で選択するべき」だと思います。
医療従事者が苦悩している。
高齢者が不安になっている。
周囲に迷惑をかけるかもしれない。
上記は選択時の参考要素の一部であり、
すべて外的要因のカテゴリーになります。
つまり、上記の懸念だけで選択されたことは、
「自分の意思決定」としては未完成だと思います。
自分の中にあるものも参考にしましょう。
趣味ができなきゃ生きていけない。
何のために働いているのか分からなくなる。
気分転換できないと自分が壊れてしまう。
上記は人によって個人差のある内的要因です。
内的要因も外的要因も加味した上で、
自分の意思で選択しましょう。
選択肢は常に我々の中にあります。
④矛盾を恐れる人へ
コロナの終息を願いながら、
コロナのリスクを背負って個人の意思を優先する。
これは明らかな矛盾です。
しかし、大前提、人は矛盾を抱えて生きています。
内向 : 内で見えている自分
外向 : 外に見せている自分
とで完全に一致する人間などそういません。
今は外向の自身が重視される世論になっているため、
内向の自身を蔑ろにしてしまうことが多々あります。
でも、矛盾を抱えていて当たり前です。
周囲から隠れて旅行に行ったっていいし、
ある程度気を使っていれば飲みに行ってもいい。
気を遣っていても感染する人がいるくらいです。
少し周りの目を気にしすぎて、自傷行為に走るような
そんな人が自分の周囲にきっと存在しています。
まずは、その人に選択権があることを教えてあげてください。その上で自身の意思で自粛するのか、少し息抜きするのか、決めさせてあげてください。