裏ルートで瀬戸芸でバイトした話
お好み焼き屋で注文が済んだ後はついついツイッターを眺めることが多い。特に一人でカウンターに座った際などは顕著であり、その日も例に漏れずタイムラインをスクロールしていた。すると、香川県は高松市で古本屋を営む藤井さんという方のツイートが目に留まった。その年の夏にお店(屋号は「なタ書」)を訪れたのをきっかけに何度がお話をする機会があり、店主のアカウントをフォローしていたのである。曰く、「瀬戸内国際芸術祭のスタッフ募集」。なにゆえ古本屋の店主が個人名義のアカウントで芸術祭の求人をしているのか?という疑問よりも先に私が思ったのは「なんか面白そう」ということであった。そのフレーズには人生に惑うアラフォーを惹きつける響きがあった。私はお好み焼きを食べるのも忘れ、すぐさま藤井さんにDMを送った。拘束期間は最長40日ほどで、その間はどこぞの島で寝泊まりしなければならないということだった。世の中の多くの割合を占める勤め人にとってはスケジュール調整の点で困難を伴うことが推察されたが、私にとっては楽勝の決断であった。というのは、定職についておらず暇だったからである。何事にも良い面と悪い面とがある。
まもなく、やり取りは藤井さんを介して芸術祭の運営事務局へと移った。相手の顔が分からなくなると、私は途端に不安になった。芸術祭の実態について何も知らなかったし、「国際」などと銘打たれていてなんだかすごそうな感じがするし、芸術的な教養もまるでなかった(大竹伸朗も草間彌生も知らなかった)。そんな人間が応募してよかったのだろうか?やはり身の程知らずだったのではないだろうか?しかし自分の身の程とやらを正確に知ってしまうともはや死ぬしかないのではないか?だったら時々は身の程知らずにならざるを得ないのではないか?返事を待つ間、そんな風にネガティブ思考とポジティブ思考の間を反復横跳びしながらそわそわしていた。実際には私の考えすぎで、採用はにゅうめんのようにあっさりと決まった。少なくとも、履歴書を提出するよりも先に採用が決まるくらいにはあっさりしていた。あまりにあっさりしすぎていてむしろ戸惑ったくらいだったが、仕事内容を聞いて合点が入った。有り体に言えば、土産物屋のレジ打ちである(こう書くとあまりに有り体過ぎるような気がするので補足すると、土産物といってもじゃがりこや饅頭を売るのではなく、芸術家たちが用意した作品群である)。確かにそれなら、あまり相手を吟味する必要はないかもしれない。なんにせよ、やりたいと思った仕事に応募して「今後のご活躍を心より祈念され」ないのは気分がいい。むしろやる気さえ湧いてきて、エア鉢巻きでも締めたくなるくらいである。
それが八月の終り頃の話である。それからだいたいひと月近く間があって、その間に事務局の方とメールでやり取りしながら就業に関する具体的な細部を詰めていった。勤務先や勤務期間や福利厚生を含めた雇用条件や、そうした面倒だけど大切なお馴染のもろもろである。やがて期日がやってきて、私はぱんぱんになったリュックを肩にかけ、スーツケースを転がしながら現地へと向かった。
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瀬戸芸は春と夏と秋の三つの会期がそれぞれ存在し、会期と会期の間には同じくらいのインターバルが設けられている。私が参加した期間は九月の終りから十一月の初頭で、これはほぼ秋会期の全部に相当した。勤務地は高松港からフェリーで20分ほどの距離に位置する女木島である。山頂付近に巨大な洞窟があり、そこにかつて鬼が住んでいた、ということにして、現在は鬼ヶ島としても売り出し中である。有人離島専門フリーペーパー『ritokei』によると、人口は令和六年六月の時点で119人。その内訳はやはり高齢者が多い。唯一の小学校も休校中である。そういうわけで、資本主義経済のごく自然な成り行きとして、島には商店が極めて少ない。高松行の最終フェリーが出てしまうと、日本銀行券の使い道はおよそ飲料の自販機くらいしかない。そのため、仕事終わりのナイトライフを満喫している都会人にとっては少し特殊な環境と言えるだろう。私は一応大阪市内に戸籍を置いているので、暮らし始めた頃はそれなりのギャップを感じた。とはいえ、予め事務局からそういった説明は受けていたし、山間部に鬼が住んでいるわけでもないし(多分)、田舎独特の因習奇習が蔓延っていたわけでもないので、慣れてしまえばどうということもなかった。というか、馴染んでくるとその不便さや静けさがだんだんクセになってきて、他の離島でコンビニなどを目にすると逆にテンションが下がったりするから不思議である。
地元住民の話によると、かつて島は海水浴客で大変にぎわったらしく、ひと夏で一年分の稼ぎを上げることも決して難しくなかったそうである。浜の周辺にはその頃の名残を思わせる、廃業してしまった宿泊施設の跡地がちらほらと見受けられる。もちろん全てが有為転変、盛者必衰の理に従って滅びたわけではなく、現在も元気に営業を続けておられるところもある。
私が寝泊りした「寿荘」という建物も、そうしたかつての宿泊所の跡地を改装した施設である。名前は建物が現役だった時のものをそのまま流用しているそうだ。この寿荘、浜辺に建っているためロケーションは抜群に良いが、その外観はお世辞にもぱっとしない。もし雑居ビル街に建っていたら、通り過ぎた瞬間にその存在を忘れてしまいそうな、特徴のない箱型の建物である。反面、内部は変わった構造をしており、一階の一部が土間かつ吹き抜けになっている。そこから一本の若木が空を撃っていて、その木を取り巻くように、「回」の字型に部屋が連なる。元は宿泊施設だっただけあって部屋数も多い。それらを改装し、寝泊り用に利用しているわけである。私の滞在中は全てのスタッフに個室が与えられており、プライベートはきちんと確保されていた。もっとも、私の部屋は一人で使うにしては随分広かったので、場合によっては相部屋になるのかもしれない。風呂、便所、台所は共用だが、生活に必要な設備はWi-Fiも含めて一通りそろっている。金だらいで洗濯したり、薪で風呂を焚いたりしなくて良いのはありがたい。おまけに利用料はただなので、(多少古くて埃っぽくて建付けが悪くて虫がたくさん湧いても)文句を言うわけにはいかない。
ともかくそこで、藤井さん経由で集められた幾人かの同僚の他、女木島の展示を受け持つ芸術家の一部が共同生活を送るわけである。人によって滞在期間もまちまちなので、館内の頭数は一定ではなく、顔ぶれは会期中に何度も入れ替わった。そういうわけで、暮らしは日によって様相を変えた。修学旅行を思い出すような賑やかな夜もあれば、一人でトイレに行くのもはばかられるような静かな夜もあった。とにかく飽きるということがない。会期が終盤に近づくと、みんな頭のどこかで祭りの終りを意識するのか、毎日のように集まって食卓を囲んだり、地元の方に招かれたりして大変賑やかであった。このあたりの成り行きは同居する方々の相性にもよると思うので、その点については私はとても幸運だった。
ところで、寿荘では私のようなごく普通の労働者と、芸術家と呼ばれる人が一つ屋根の下で共同生活を送るため、互いの距離がビビるほど近かった。例えば私が台所で湯を沸かしている傍ら、とある高名な方が料理をされていたことがあり、ちょっとした世間話のつもりでした質問に、トークイベントなどで金を払って聞くようなクォリティの回答をしてもらったりして、えらく恐縮した覚えがある。そういう、普段ほとんど交わることのない人たちとの交流は大変刺激になった。芸術とは縁遠い私でさえそう感じるのだから、将来クリエイティブな仕事を志す若人たちにとっては現役芸術家たちの一挙手一投足を間近で拝めるという点において、垂涎の環境なのではないだろうか。
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さて、寿荘はただの宿舎ではなく、作品の展示場も兼ねている。それも、「女木島名店街」というスローガンを掲げ、館内にたくさんの展示がまとまっていたから、女木島を巡るにあたっては外せないスポットとなっていた。芸術にあまり興味のない方であっても、そこでは卓球を楽しんだり、作家の開催するいくつかのワークショップに参加したり、カフェやら美容院やら、もし必要があればコインランドリーさえ利用することができた。それらは営利目的の施設ではなく、すべてれっきとした作品の一部である。コンセプトとして、地元住民のために「普段使いできる店」的要素が含まれているのだ。それらの体験を一か所の入場料でまとめて味わえるのだから、女木島を訪れて寿荘を訪れないというのは非常にもったいないというか、島内観光の画竜点睛を欠くというか、「lifetime respect」の入っていない三木道三のベストアルバムみたいなものだと思うので、次回女木島に観光予定の方は是非とも寿荘を訪問されることを強くおすすめする。
一階エントランスには物品の販売所をはじめ受付や飲食店などが併設されており、前者が私の職場である。そこで制服代わりのエプロンを着用しつつ、売り場に立つわけである。勤務時間はだいたい8時から17時頃まで。慣れてくると別の場所で勤務することもあったが、いずれにせよ物販がメインなので、やることはあまり変わらない。私の場合、滞在期間が長いので、週に二日の休暇も用意されていた。残業もなく、食事休憩もしっかりとらせてくれる、わりとホワイトな環境である。私は会期の始まる一日前に島に入ったので、幸いにも運営の方からしっかりとした事前講習を受けることができた。しかしスケジュールの都合でそれが叶わない方であっても、初回勤務時は経験者とのツーマンセルになるので心配は無用である。それに、内容自体もそれほど難しいタスクはない。お客さんに対して常識的な振る舞いができて、在庫と売り上げ金がしっかり管理できておれば、概ね問題はないはずである。
売り場は半円形のカウンター周辺に商品を並べた、プラットホーム上のキオスクを少し拡張したくらいの空間である。客への掛け声は「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは」である。「こんにちは」というのは、あまり資本主義資本主義していなくて良い。私のような性格の人間にしては珍しく、暇なときは道行く知らない人なんかにもすすんで声をかけていた。誰かにそう指示されたわけではないのだが、そこで働いている間は自然とそうなっていた。気分よく仕事ができていた証左だろう。
先にも触れたが、売り場に並ぶ商品は全て女木島に展示場を持つ作家たちが手がけたものである。それらは文鎮やスリッパといった普段使いできそうなものから、巧の技が光るガラス細工、はたまた一見しただけでは用途不明な珍品まで多種多様であった。とはいえ、「私のごとき凡俗には理解の及ばぬ品でございます」ではセールストークにならないので、マニュアルをめくりながら一つ一つ商品の詳細を覚えていく。「こちらですか?こちらはお土産の記念コインですね。ほら、昔水族館とかに行ったら金ぴかのご当地メダルが専用の自販機で売っていたでしょう?五百円くらいで。今でも売ってるのかな?とにかく、アレですよ。アレ。まあこれは金ぴかではないですけどね。その代わり鉄製ですから、どっしりしてますよね。重厚感があります。お金と間違えてうどん屋のレジで恥をかくこともありません。えっ、なんでデザインが蛸なのかって?そりゃお客さん、島の特産品だからですよ。女木島のお土産なんだから、女木島らしさをプッシュしているわけです。ディズニーランドのお土産にはミッキーマウスがデザインされていますでしょう?ナリタブライアンが出てきたらびっくりしますよね?それと同じことです。そんなことよりほら、後ろを見てください。奥の部屋が工房になってるでしょう?あそこで作家が一つ一つ作ってるんです。ハンドメイドですよ、ハ・ン・ド・メ・イ・ド。いや、嘘じゃないですよ。ほら、細かいところがちょっとずつ違うでしょう?これが証拠ですよ。縁日のベビーカステラみたいに次から次に作れるものじゃないんです。だから貴重な逸品ですよ。今あるうちに買っておかないと、後で枕を濡らすことになるかもしれません」
みたいな口上はもちろん尺が長すぎて使えないが、まぁ拙いながらも一生懸命説明すれば、手に取ってくれるお客さんは多い。名の知れた作家が自ら企画、デザインした品々であるから、お値段としてはそれなりである。しかし芸術祭にわざわざ足を運んでまでコスパがどうこうのたまう輩はKYというものであろう。だったらはじめから最寄りの快活クラブで『ギャラリー・フェイク』でも読んでいる方が金銭的には最上である。実際、値段で悩んでいる人はほとんど見受けられなかった。むしろ、特定の作家の新作グッズ目当てにわざわざ二度三度と現地に足を運ぶ人とか(通販はやっていない)、推しの作家の作品に散財できることに大いなる愉悦、エクスタシーを感じておられる人とか(そうとしか見えない)、その手の瀬戸芸愛好家たちが放つ熱量には、私もレジ打ちをしながらしばしば圧倒されることとなった。
売り場から見て正面左手には館内受付があって、寿荘を訪れた来客はまずそこで入館手続きを済ませることになる。共通パスポートを持っている者はそれを提示し、持っていない者は当日券を購入する。先述した職場の配置上、私はしばしばこの受付業務も手伝った。手続きだけならすぐにすむのだが、加えて館内の案内や見学上の諸注意を説明しようとすると、途端に時間を喰うのである。おまけに、フェリーが島に到着するタイミングで島内の観光客が入れ替わるから、来客の波がわりに極端である。そういう時、私にだってまだ多少の良心は残っているから、頬杖をついてぼーっと眼前の混雑に我関せずを貫くわけにもいかない。ましてや、ここで受付業務に当たっているのは日替わりのこえび隊の方々なのである。
こえび隊についてこれまで全然触れていなかったのでこの機会に触れておくと、こえび隊とは現場回しをする瀬戸芸ボランティアスタッフの呼称である(本稿のタイトルに「裏ルート」とつけたのは、こえび隊への入隊こそが瀬戸芸参加の王道ルートなのだなと現場で察知したためである)。参加資格などは特になく、公式のHPから気軽に参加を表明することができる。思想調査のようなものもないので、エビよりもカニが好き、といった方でも問題ない。マニュアルもあるし、チューターもいるし、あくまで初めての人間が業務に当たることを想定した役割分担になっているから、仕事が難しすぎて現場で半泣きになる、ということもなく安心である。遠方からの参加者のために宿泊所も用意されていて、そこでの語らいは友達が増える良い機会にもなるそうだ。そういうわけで、参加者の満足度はおおむね高く、リピーターも多い。にもかかわらず、傍目には慢性的に参加者が不足しているように見えた。こえび隊参加者が不足すれば現場を管轄する事務局が困るし、事務局が困っている姿を見るのはお世話になった身として忍びないので、私としてはこえび隊の楽しさがもっと世間に広く認知され、それに伴い参加者も増加し、こえび隊がこえび大隊となり、やがては朝の高松港を埋めつくす「巨大ロブスター軍団」くらいの規模にまで発展的成長を遂げれば良いと思うが、しかしそこまで願うのは余計なお世話かもしれない。
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話を戻そう。現場でボランティアの方が忙しそうにしていて、一応は労働対価を受け取っている自分が暇そうにしているのは人倫にもとるような気がするので、良心の要請に従って手伝いを試みる。もっともそういう時に限って、どこかランチやってるところないですか?とか、ベビーカー預かってくれませんか?とか、トイレどこですか?とか、写真撮ってくれませんか?とか、そのエプロンどこで売ってるんですか?とか、時給いくらなんですか?などといった質問や依頼で手を取られてしまうことも多いから、実際に役に立てたかどうかは不明である。言い訳するつもりはないが、私なんてエプロンのせいでひと目で係員だと分かるから、尚更たくさん声をかけられる。まっかっかでどちゃくそ人目を引く、こえび隊公式グッズこえびTシャツ(2200円税込)を着用した熱心な隊員の方も中にはおられるが、割合としてはやはり稀である。そして受付業務が落ち着いたと思ったら、今度は館内を回り終えたお客さんたちが売り場へとやってくるから大変である。特に週末や会期末といった繁忙期に至っては、寿荘一階受付近辺はビッグバン発生直後の原始宇宙のごときカオスっぷりであったと言っても過言ではない(過言)。
とはいえ、毎日が毎日大盛況というわけではない。平日は結構暇を持て余すというか、静かで落ち着いた一日になることも少なくない。時間の流れは緩やかで、カウンターの前で座っているとついつい欠伸がでてくる。とはいえその時間感覚は、工場での単純労働の最中に、五分おきに腕時計を確認してうんざりするあの感じとは異なっている。そういう時は台所に行ってコーヒーをいれたり、受付のこえび隊の方と世間話をしたりする。それにも飽きると、フライヤーを整えたりポスターを張りなおしたり、クイックルワイパー的なほこり取りを用いて細かいところのほこりを払う。それにも飽きるともうお手上げで、あとは開き直って落ち着いた時間を満喫する。通りにお客さんの姿はなく、受付周辺はひっそりとしている。からくり仕掛けの鍛冶屋が鉄を叩くチン、という乾いた音と、「鬼ヶ島ぴかぴかセンター!」と言う子供のイノセントな音声が、マントラのようにリフレインするのみである。それらは退屈さからくる私の幻聴などではなく、展示作品のギミックが生み出す音である。そんな音にぼんやり耳を傾けていると、自分が今、つい数か月前まで名前も知らなかった離島に何食わぬ顔で存在していることを改めて思い出したりして、なんだか他人の人生を代理で体験しているような心持ちになる。
そんな風にして、多少の緩急を挟みつつ毎日が過ぎていく。労働を苦痛に感じることもなく、幸いにもプライベートで居心地の悪さを感じることもなかった。休みの日には高松市に戻って娑婆の空気を満喫したり、会場になっている他の島々を巡ったりした。もちろんいくつかの困りごともあった。私は料理をしないので、島での食事についてはそれなりに不便を感じた。それと寿荘での共同生活者である不快害虫の方々には悩まされた。しかしそれらについても、「困ったなー困ったなー」とぼやき続けていると、周囲の方々が救いの手を差し伸べてくれた。例えば、同じフロアでクレープやジェラートを販売していたベテランこえび隊のⅯ夫妻は、高松から島へやってくる道中でわざわざ私の弁当を買ってきてくれたし、女木島唯一の駐在さんはなにかと差し入れを持ってきてくれたり、夕飯をごちそうしてくれたりした。後者については同時期に滞在していた芸術家のY氏が、部屋にプロ顔負けの徹底的な目張りを施して下さった。これら助力に関しては大変ありがたくかたじけなく、困っている人を助けるのは大切だなとつくづく思った。腹の底、陰嚢の底から思った。もちろん知識として知ってはいたのだが、普段はどうしても金で解決したりされたりすることが多いから、実体験として久方ぶりに思い知らされた感があったのである。
会期の最終日には、関係者を募って高松港近くのホテルで閉会記念式典が執り行われた。残念ながら女木島をはじめ、瀬戸内の島々に住む関係者らは帰りの船の都合で不参加である。もちろん完全に蚊帳の外、というわけではなくて、役所の人が寿荘一階の広間にモニターを設置して、そこで式典の様子を見られるようにしてくれる。寿荘で暮らす面々の他、関係の深かった地元住民らも招かれ、肩を並べてモニター越しに式典の様子を眺める。高級紳士服をビッと着こなした関係者と思しきお偉いさんがたが登壇し、なんやかんやと閉会の挨拶を述べる。それが終わると会場になった瀬戸内の島々を中継し、我々のように集った現地住民の中の誰かが、芸術祭を終えるにあたっての感慨を画面ごしに述べていく。もちろん女木島組の出番もある。正直言って途中からいささか飽きてきたが、まぁ式典なんて概ねそういうものだから仕方がない。
我々の出番が終わると、なんとなく現場には弛緩した空気が流れる。閉幕式は依然として続いていたが、「まあもういいんじゃないですか、後は見たい人だけ残って見ていれば」という雰囲気になる。それで、私と数人はその後、その場を抜け出して近所に住む漁業組合会長宅にお邪魔し、ささやかな祝賀会を開くことになる。こたつを囲んでの酒と鍋。そんな風にして、寿荘での最後の夜は更けていく。
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翌日は随分と時間を持て余した。他の滞在者たちとの兼ね合いで、夕刻の最終フェリーで島を去ることにしたのだが、荷造りと掃除くらいしかやることがなかったからだ。部屋にいてもしょうがないので、名残を惜しむように島をぶらぶらする。大盛況だった昨日とは打って変わって、人影はほとんどない。祭りを終えた素の女木島である。港まで、浜に沿って五分ほどの道のりを歩く。左手に海、右手には松林。仕事のある日は、高松からやってくるこえび隊を迎えに行くため、毎朝そこを通った。波は穏やかできらきらしていて、頭上を旋回するトンビは心底気持ちよさそうに歌っていた。仕事に慣れない時期には、その歌声の呑気な響きに随分と励まされたものだ。そして港で船を待つ体験。同じ公共交通機関を待つにしても、それはJR新今宮駅のホームで大阪環状線外回りを待つのとは全然違った体験だった。朝は朝のエモさがあり、夕方には夕方のエモさがあった。特に会期最終日の光景は、秋会期の女木島における個人的なハイライトだった。
たくさんの人がフェリーに乗ってやってきた。場を構成する人員が入れ替わることで、ルーティンを繰り返す毎日が、予想もしなかった偶然に遭遇する機会へと変わった。膨大な量のコミュニケーションは閉塞感のあった己の人生の風通しを間違いなく良くしてくれたし、過剰気味の自意識さえ忘れさせてくれた。そしてここには書けないような素敵な体験ももたらしてくれた。そのような環境に身を置けたことが、この仕事の一番の醍醐味だったのではないか。改めて振り返ってみると、そんな風にも思う。芸術と全然関係ない感想で申し訳ないけれど。
最後になりましたが、運営関係者の方々、こえび隊の方々、なタ書の藤井さん、寿荘でご一緒した同僚と芸術家の皆さま、そして現地でご縁のあった全ての方々に感謝の念を。私が楽しかったのは皆々様のおかげです。そして未来の寿荘滞在者の方々が、充実した日々を過ごされることを願っています。