とある宗教の親に育てられた自らの半生⑩
このシリーズも10回目を迎えて、時代は高校時代にまで来た。年代で言うと1998年‐2001年あたりのことである。わたしが組織を脱会したのは2003年のことであるから、高校を卒業してから約2年の月日を要したことになる。今回はもう少し高校時代のエピソードを書き加えておきたいと思う。年代的には、キレる17歳世代と言われた世代とドンピシャの世代なわけだが、モーニング娘。が全盛期で、浜崎あゆみもギャルのカリスマと呼ばれていたあの時代。MDウォークマンも常に携帯していたし、CD-Rなんかも出だして週に1回は必ずレンタルビデオ店に足を運んだものである。
17歳が引き起こした事件では、西鉄バスジャック事件、豊川主婦殺人事件、山口母親殺害事件などがある。山口母親殺害事件の被疑者の少年は、その後出所してから2005年に大阪姉妹殺害事件起こして死刑となり、2009年にすでに執行もされている。また全国的にも超有名な酒鬼薔薇事件もなんと同世代なわけである。ちょうどそんな時期にわたしはどう過ごしていたかというと、もろ宗教活動にどっぷりつかっていたのだが、これは前回述べたので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。
ちょうど2000年だったと思う、母親がニュージーランドにホームステイとか興味がないか?と言ってきた。そのころ語学にも励んでいたこともあり、海外も未経験であったのも重なって、二つ返事で「ぜひ行きたい」と答えた。そのホームステイツアーとは、日本人でニュージーランドに住むエホバの証人が企画しているもので、全国のエホバの証人で行きたい人を募っていたのだった。正直どういう経緯で母親に話が来たのかは全く記憶にないのだが、「高校も通信制で通常よりもお金はかかっていないから、ニュージーランドに行く費用は出してあげる」と言ってくれたのを今でも強く記憶している。話はとんとん拍子に決まり、約2週間のそのツアーに参加することになった。成田からはわたしを含めて2人、関空からは10人以上の参加ということだった。成田からは2人…。誰と?ってずっと不安だった。しばらく経ってわかったのだがそのお相手は、一つ年下の女の子ということだった。
高校生という微妙な年代で?初めての海外旅行で?いきなり成田から年頃の女子と二人きりで?約10時間空の旅をするって、かなりのハードルであっただろう。今思い返してもよく行ったものである。得体の知れない期待感と、どうしようもない程の不安で出発までの期間を過ごしたのをよく覚えている。というか、未成年のエホバの証人が男女で現地までとはいえ、二人きりで旅するってOKだったのか?たぶんアウトだろうな。よく親も向こうの親も承諾したものだ。そんなこんなで実際に行ってきたわけだが。気になるのはお相手はどんな子だったのかということだろう。
学年は一つ下だったけど、見た目は素朴で純粋な感じで人懐っこくて、とても話しやすい子だった。不安でどうしようもなかったけど、本当にその人柄に救われた。会話に困ることはなかったと記憶している。本当にもったいない話であまりこの旅行の記憶って断片的で、写真も残っているけど覚えていないことの方が多いのだ。そのなかでも行きの飛行機で覚えているのが、キャビンアテンダントさんの粋な計らいでコックピットまで連れて行ってもらった事である。あんまり海外の経験ないから今でもよくわかっていないのだが、そうそうあることではないと思っている。相方の彼女がわたしよりもぜんぜん英語が出来たので、CAと話をしているうちになぜかそういう流れになったらしく、本当に貴重な体験をすることができた。現地に到着してからは、彼女とはさすがに別行動になり、ホスト先も別だった。ホスト先は30代の夫婦のお宅でお子さんはいらっしゃらなかった。わたしと同学年の京都出身の男の子と一緒に滞在することになった。
ホームステイで覚えていることは、オークランドで逆バンジーをしたこと、乗馬をしたこと、ニュージーランドのベテルに行ったこと、ホストファミリーと一緒に海水浴に行って死にかけたこと、それくらいなのである。それでもわたしにとって今でも大切な思い出であることは間違いない。その点は行かせてくれた親に本当に感謝している。
日本に帰ってきて日常に戻っていったわけだが、当時高校3年生で、卒業の見込みもある程度目処が立った段階で、人生初のアルバイトを始めることになった。ジョリーパスタのオープンメンバーのチラシを見て、意を決して応募してみることにした。料理経験はゼロだったので、ホール希望で面接してもらえることになったのだが、店長はホールはもういっぱいだから、未経験でも構わないからキッチンでやってみてはどうか?と言ってきた。わたしとしては、なんとも不安だったが何度も他のバイトの面接に行くのも面倒だったので、それでよければお願いしますと答えた。
そして短い研修期間を経て、忘れもしない2000年の12月12日にオープンの日を迎えた。いくら研修を少し経ているからと言っても、料理経験ゼロの高校生が戦力になるはずもなく、失敗の連続だった。それでも怒涛のように押し寄せるお客様。並びきらないほどのオーダー用紙、さばいてもさばいてもなくならなかった。しかも、オープン初日にそれまで気付かなかったのだが、店長だった人が超パワハラ気質の人格だったことが判明。地獄のようなバイト生活がスタートしたのだった。何をやっても怒られる。自分では納得のいく出来の物を出しても突き返される。何も悪いことをしていないのに機嫌次第で恫喝される。1ヶ月もしないで根を上げ母親に辞めたいとつぶやいた。しかし、母親は「社会に揉まれるのはいいこと、そんな多少のことで辞めるなんて言わずにもう少し続けてみなさい」と言って、聞き入れてもらえなかった。
当時店長は原付バイクで通勤していたのだが、定位置にバイクが停まっているのを見るだけで、動悸がして胸やけが止まらなかった。部下の社員の人も何人も入れ替わったので、辛かったのはわたしだけではなかったのだろう。当時は自分のことだけで精一杯だったので、他の人に気を配る余裕なんてなかった。
それでもなんとかついていった。オープンメンバーの半分は3ヶ月もしないで脱落していった。少しずつピザ生地を伸ばすのも上達していった。300℃にも及ぶオーブンで何度も腕を火傷しながら、焦がすことなく焼き上げることもできるようになっていった。店長の自分に対する評価も少しずつだが上がっていったようにも思えた。
やがて一通りオーダーをこなせるようになると、店長はわたしをホールでも使いたがった。今で言う二刀流である。当時二刀流で勤務できるキャストは社員を除いて誰もいなかったはずである。なのに店長はその第一号にわたしを選んだ。他にも優秀なスタッフはたくさんいたのに、なぜわたしを選んだのか今でも疑問である。そんなわけでだいぶ年月をかけて、徐々に店にとって有用な人材に成長していったのだ。バイトを始めて1年くらい経った時に、店長は腰痛を悪化させ、無断欠勤を繰り返しいつの間にか店を去った。おそらくクビになったのだろう。料理に対しても、接客においても自分に絶対的な自信を持っていた人だったが、わたしもそれまでそのような部類の人間に出会ったこともなかったので恐ろしい反面、尊敬していた部分もあった。だかしかし今思うと、人として最悪であったことがわかる。料理の腕前も今思えばてんで大したことなかったと思う。何しろわたしはこの調理のバイトを経て、20数年が経とうとしているわけだが、未だに調理の世界以外知らない。ある意味人生を決めたバイト生活になったわけだ。
そしてそこで運命の出会いを果たすわけである。それについてはまた次回、記述していこうと思う。長くなってしまったが今回はこれまで。