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Paris戦闘記(新バージョンと内容は一緒です)

※こちらは以前公開していたパリ戦闘記ですが、リニューアルして別記事で新しく「私はその日パリのお花屋さんになった」という名前で公開しています。以前こちらを購入してくれた方が同じ内容を読めるようにこちらもリニューアルしていますので、よかったらお読みください^^

中央大学卒業後、単身でパリに渡り花修行。在学中2年間独学でフランス語を学び、アルバイトをしてお金を貯め、服も買わずオシャレもせず、パリに行くことに全ての時間を使いました。そしてついに、ずっと待ち焦がれていた憧れの舞台。夢にまでみた華の都パリにあった現実は、私にとって戦場でした。すごく輝いて見えたその場所は、いざ手にして飛び込むと壁と涙の方が多かった。でもそれはきっと、その場所にいたという証拠。一握りの感動を100倍にも200倍にも感じて、確かに私はそこにいました—...

これは私の大切な戦闘の記録。実話であり、経験談であり、伝えたいメッセージが沢山あります。どうぞ、この記事を目にしてくれた皆様、最後までお付き合いいただければ幸いです。


1.人生のドン底期

大学在学中、私は中身が空っぽでした


朝ベットで目が覚めると今日もまた朝が来てしまったと天井を見つめて、夜はこのまま朝が来なければいいと願いながら眠りにつく


心を埋めたくて沢山友達と時間を過ごしたけれど、それでも一人になると鬱のように暗くなる


誰にも気付かれることのない二重人格のようだった

空っぽな私はとにかく生きるのが辛かった
でも人前では普通にふるまってしまうし、笑うし食べるし普通に話すから、「一人になると死にそうになる」と言っても周りには大げさだなーとしか思ってもらえなかった

当時は自分の中にもう一人の自分がいて、体というロボットを操縦しているような感覚
肉体という鎧に守られている小さな自分はどんなことがあっても傷つくことがない、何より無感情であった

精神科に行きたいと周りに訴えたこともあったけれど”無駄に薬漬けになるだけだよ”といわれて行かなかった(まあ、本当に大変だったら行ってたと思うから大したことなかったんだと思う、自分が甘かっただけ)

一人の時の自分を知っているのは自分だけだったから、当時自分の症状をわかってくれる人はいなくてとっても辛かった
あの頃調べた限りでは、解離性人格障害の一種だったと思ってる



自分の症状をわかってもらえないまま約1年が過ぎた時、ある日突然自分に変化があった

あの時の感覚は今でも鮮明に覚えてる
朝起きてすぐ、突然パッと自分の中に浮かんできたとある”事実”

それは「どれだけ願っても明日は来るし、そしてそれがこれからも続く」というごく当たり前の事だった

言い方を粗末にすると、「願っても死ねない」ということを実感したのである

そして「これからずっと続いていく時間の中で、本当にこのまま負のサイクルを続けていいのか?」と考え始めた

毎朝今日が終わることを考えながらマイナスなことばかりに目を向けて、紛らわすことに必死で、そんな時間がこれからも続いていって、果たして何になるのか?
それにまだ19歳、自分で自分の人生にあきらめるのにはまだ早いのではないのか?

同じ時間を過ごすのに、このままではもったいない

奇跡的にそう思えたのである

それならば、自分の人生を査定するのに、あと10年、自分に時間をあげよう
もし30歳になっても変わらずに人生に絶望していたら、その時は静かに幕を閉じよう
30歳になるまで、とにかく好きなことをしよう
失うものなんてないし怖いものもない


そう思い、「どうせ生きなきゃいけないのなら、楽しく生きる」そう決めたのでした



私は今でも、時々人生に息詰まったとき、
なんのために生きてるのか?を考えます

そして

楽しむために生きている、以外ないだろう
と、必ず答えが自分から返ってきます

2.人生を変えたカナダ留学

30歳まで楽しく生きると決めた私はもう無敵だった

まずは自分自身と向き合い状況を整理するために、ノートに気持ちを書きなぐりひたすらに考えた

そして今の状況を打破するために考え抜いた結果、”環境を変える”という結論に至った

すぐに親に「一人暮らしがしたい」と頼んだ

帰ってきた返事は「TOIC750点以上とったらいいよ」とのことだった

私は高校時代、英語で赤点、進学危機、という経歴をもつ英語苦手人間
(そんな私に無理難題をつきつける母。本当に一人暮らしがしたいなら、乗り越えてみなさいと、さすがです)

どうしても一人暮らしがしたかったから
「自分は英語と友達だ、きっと仲良くなれる」
と暗示をかけて英語に取り組んだ

今まであったすべての知識を一度捨てて無になって英語に触れたのである
(赤ちゃんの状態になってまずは耳から吸収した)

すると、不思議なことに、
英語が、語学が、
とても楽しく感じはじめた


そして次第に、「一人暮らししたい」という気持ちから、「留学したい」という気持ちに代わった

自分のことを誰も知らない土地でまた0から人生をやり直したい、人生をリセットするために異国の地で生まれ変わりたい、と思った


そして、大学2年の夏休み、カナダのpowelle riverという田舎町に一か月半留学をした


ここで過ごした1ヶ月半は本当に自分を変えてくれた


色んな国から来ている人達に出逢った
外国の人はみんな、自分の人生を愛していて、飾っていなかった

彼らは大きな声で”自分のことが好きだ”と言った
私との大きな違いはまずそこだ
自分を愛しているか、いないか

自分を好きだなんて言ったら、すぐさま「ナルシスト」だの「自信過剰」だの言われる環境に育ったから、常に自分を下げて見ていたな
褒められても否定する、それが普通だったのに、ここの人たちはみんな自分に自信があるから「ありがとう」で返す
最初はとっても不思議だったけど、なんだかキラキラして見えた

あとは忘れもしないあの光景
当時32歳の同じ家にホームステイをしていたスペイン人のミゲルが、子供のように無邪気に野原を走り回る姿にショックを受けた

「30歳過ぎた成人男性なのにあんなことして恥ずかしくないの!?」
一番におもったことはこれだった

私には人生において“こうでなきゃいけない”という教科書があったし、”大人は我慢をしなければいけない”だったり”何歳ならこういなきゃいけない”という”私だけの”常識があったし、他人からどう見られるかを常に気にして生きてきた

30歳過ぎた成人男性が、子供たちと容赦なく全力鬼ごっこをしている姿はあの頃の私には衝撃だった
「この人は、人にどう見られているかなんて気にしていない。。。」

肌で文化の違い、というか人間の違いを感じた瞬間だった

私も、あんなふうに、もっと自由でもいいのではないか、、?

よく考えたら
大学に入ったのも
”入るのが当たり前”だと思っていたから

入らないなんてありえない
入る以外の道を知らなかった

そこに自分の意思は、なかったな

入りたいんじゃない、もう決まってる人生のレールだったから入った、ただそれだけだった


自分の人生なのに、教科書どおりに、他人にいい子に生きるのがいいことだと思っていたよ

全く違う環境で生きてきた人達との出会いから私は沢山のことを学んだ

また、そこの環境が、東京とは違うド田舎で、時間がゆっくり流れ、空が近くてなにもないから、ただ外に出て、風の変化を楽しむことも多かった

生きるを楽しむってどういうことなのかを身体が知った


最終日
帰りに寄ったバンクーバーの街で街頭に飾ってあるお花がなぜか目に入った

なんとなく”帰国したらお花屋さんでバイトしよ”って、そう思った
そのお花があまりにも綺麗で、心に残った

帰国後翌日、宣言どおり地元の花屋さんに電話をかけた

1件目は募集してませんと断られたけど
2件目は社長に聞いてみますって言ってくれた

この出会いが後に私の人生を変える


自分探しにいったカナダ留学で、本当に自分を見つけることになった

PS:今、現在27歳
本当に人生が楽しくて、頑張ることが楽しくて、生きててよかったと思える瞬間に沢山出逢えています
”楽しく生きる”=”わがままに好きなことだけをして甘えて生きる”ではなく、私は幸い”頑張ることが楽しい!!”と思えるものに出会えたので、人生のほぼすべての時間を、自分の大好きなことに本気で打ち込む時間に充てることができています
あの時、絶望して自分で幕を下ろしてなくて本当によかった
そして、今は少しでも長く生きたいと思っているからこそ、生きれているという幸せを感じられなかったあの頃の自分が本当に未熟だったなと、思っています
簡単に死にたいと書いてしまってごめんなさい
でも、自分のことに精一杯になった人の精神状態というものは余裕がなく、リアルは、こんな感じなのです
今は、健康でいられる幸せ、明日が来る幸せ、大切な人たちがそばにいてくれる幸せを、日々ひしひしと感じられるくらいに成長しました
どん底にいたら、あとは這い上がるしかありません
これ以上の下はありません
今が辛い人は、環境を変えて、生まれ変わる思い込みをすることをすごくおすすめします;)
自分の世界は自分次第でどうにでも変えられる、このエッセイを読んで、そう思ってもらえたら嬉しいです

3.parisに行くと決めた瞬間


お花屋さんでアルバイトをし始めてから、毎日バイトに行きたいと思うようになった

お金なんかいらないからその場所にいたかった
たとえ鉢の水やりでも、お花が可愛くてすべてが勉強だった

仕事が楽しいなんて初めてだった


次第に、
「大学生の間だけ花屋のバイトを頑張ろう」が
「これを一生の仕事にしたい」に変わった

ある日
親友の母から何気なく見てみな!
と言われたテレビ番組を見て私のパリ行きは決まった

その番組には、ゴトーフローリストの社長が作った作品が写っていて、映像だけなのに心が動いた

その瞬間を今でも忘れない

どうしたら
こんな作品を作れるようになるのだろう?

惹かれるようにしてパソコンに向かい、調べたらその人はフランスやアメリカ、海外の花屋で修行をしていた

それを知った瞬間
卒業後、パリに行きます。
と親に告げた。
(のちに、親からは、「まさか本当に行くとは思わなかった」と言われました笑)

日本でブライダル会社に技術として入ってやっていても、良い大学を出ていいところに勤めるみんなといる場所が違いすぎる
(正直、私の周りの友達は本当にハイスペックで、性格もいいのに頭もよく仕事が良くできる人達しかいなかった。友達は私の一番の自慢)

本当にお花で自分が生きていくのなら、
自分にしかできないスペシャルな事をやりたい
日本のトップにたちたい

と、そんな想いともマッチした


4.大学をやめなかった理由

私はお花の資格を取りたかったのでスクールに通い始めた


留学貯金も始めた


”自分で見つけた夢”
誰からも何も言われたくなくて、親にはお花に関してはお金を頼まなかった


自分の力でやったことなら、誰からも何も言われないと思ったから
(誰かの力を借りたら、借りができて、その人の言うことも聞いてあげなきゃなっていうのが嫌だった)


自分の夢は”自分の感覚”で進んで行きたかった


だから、お願いはしない

そうすると当たり前だけど、お金がなくなる

学生は年に103万までしか稼げない(翌年は130万の申請を出す)

月に約8万程を貯金とスクール代にあてた

弁当水筒生活(店長がいつもジュースをおごってくれたのがうれしかった)

今までみたいに気軽に飲みにいけなくて、行くとしても進んで幹事をしクーポンを駆使
3000円以上は出せなかった
月に自分に使えるお金が1万だったから

服は友達から貰った
幸いお洒落な友達がいたから着ない服をもらった
親友ありがとう


そんな生活の中、苦しくて大学を辞めようと悩んだことがあった
学びたいことはここではなく、花屋にあるから
やめたら103万とか言わずに稼げるし、もっと長く花屋にいられる、学べる

でも、大学卒業を捨てるというのは大きすぎるし、親はもちろん反対だった


なんでやりたくないことを無理やり、いやいや、やらなきゃいけないのだろう?
自分の道を見つけたのだからそっちにシフトしてもいいのではないか―....

沢山考え悩んでいたある日、友達から言われた言葉が胸に刺さった


好きなことならどんな状況でもやれるよ
樹里の気持ちが本物なら、どんな状況でもお花はできる


この言葉のおかげで、私がどれだけこの夢に本気か、自分を試そうと思った

学校の勉強が辛くても、
財務会計論、、、なにそれ?でも、
一度始めたことを途中でやめてはいけない

お花が大好きだったら、大好きだからこそ、大学も最後までやってやろうと思った


この言葉に感謝しなかった日はない...
結果、本当に大学を辞めなくてよかった

というか
簡単に手に入れていなくてよかった

全ての単位をとり終わったとき、これから自分の人生が始まると感じたあの感覚を忘れられない

世界が眩しくなった

簡単な道もいいけど、大変な道を選んだ方が、結果「想い」も「自分」も成長できたのだ

そんなこんなで2年間就活も一切せず、パリの準備に徹した
私はずっと金髪だった


出国当日、地元のデパートのケーキ屋さんがなんだか、お洒落なパリのパティスリーに見えてきて、「ずっと行きたかったところにいけるんだなぁ」「2年間長かったし頑張ったなぁ」って思ったら今までの気持ちがあふれ家て、族の前なのにいきなり号泣した


5.Paris到着


いよいよパリに着いた―...


飛行機は長かったけど短かった


空港についてもまだパリ感はない


事前に頼んでいたお迎えの人を待っていても来ない


電話は使えない


やっと来てくれたと思ったら
後日請求された金額が全然違う…
100ユーロ、さようなら、、
(バスでいけば15ユーロくらいで行けること知ってた。でも、初めてのヨーロッパ、一人は怖かったんだ。この頃の私は周りに”気を付けてね”と言われすぎて街で車にさらわれるイメージしかなかった笑)


渋滞を抜けてアパートについたら、シャワーが小さすぎて驚愕(縦横60センチくらいのスペースかな、ここで何ができるの?w)


部屋にトイレもキッチンもついてないから、薄暗い共同トイレ、2階までいちいち料理道具をもっていって使う共同キッチンを使う



よく、パリのアパルトマンなんて素敵だね♥
なんて言われるけれど、
CMとかに出ているエッフェル塔の見える部屋が全てだと本当に思う?



あの部屋に住みたいのなら大金持ちになってからパリに来ましょう



そう、よく見るパリの素敵アパルトマンではなく、私はコンクリートで出来た、目の前墓地のまるで刑務所のような怖い暗い建物だった


いろんな人種の人がいたよ

エレベーターではじめて黒人の人と一緒になって、「君は僕が怖いの?」って聞かれたときは、なんていえばいいかわからなくて、フランス語がわからないふりをした

誰かと一緒になる時は、はやく自分の階につかないかなっていつも思ってた

自分でできる貯金金額で住める家はそこしかなかった


でも、こんなすみかでも、これからのことを考えたら全然いいや!って思えてしまっていた
これからのパリで見られる景色を想ったら、これくらい朝飯前だった



初めて語学学校が始まり、本で勉強していたフランス語とは似ても似つかない現実がそこにあって、初日は疲れて20時に寝た

一人で寝るのが怖くて夜中沢山起きたけど、どんなに泣いてもこの国に守ってくれるひとはいない

自分が強くなるしかないことを、自分で静かに悟った



次第に学校にも慣れ始めるが、“遊ぶ”ということをしたくなかった

周りの友達は一流企業に勤めている

私は一人でParisにきている

中途半端なことなんてできない

友達に顔向けできない

仕事が始まるまでは1秒でもフランス語に触れ勉強していたかった

たーまにいる意識の低い人は正直大嫌いだった
日本人のパーティくる?なんて言葉に返事すらしなかった

自分のために、初めて友達を選んだ

日本にいる仲間が心にいたから、一人は全然寂しくなかった

ここまで、時間、想い、お金、全てを蓄積させて学びにきているのに、パリに遊びに来てる人と一緒にいたくない

パリに来た最初は、過ぎて行く1秒が惜しかった


6.信じられない

パリに来て1ヶ月後からお花の仕事が始まるとエージェントから言われていたのに、2、3週間経っても誰も何もいってきてくれない

私は日本にいるときからとあるエージェントに頼み、フランスの語学学校と花屋の研修先を確保してもらっていた

せっかく人生1度しかとれないワーホリで大切な1年を過ごすのに、さすがに確約0では行けなかったから、大事な時間を使ってお金を変え、それをエージェントに支払ったのだ
予定では4月到着、5月仕事スタートのはずだった


しびれを切らし、自分から係の人に尋ねたら

「ん~?仕事?9月からとかどう?」


と、言われた




頭が真っ白になった




人生で人にキレたのはあれが初めてである。。。
あまり覚えてないくらい笑

私がここに居られる時間は限られている
1年しかない
365日しかない
なのに、9月から?
あと5ヶ月もあるんですが!!!!!


お花の仕事をしに来たのに、、、
何を言われているのか理解できなかった
笑いながら涙が出た


お金をあんなに払ったのにここには誰も信用出来る人なんていないんだ

そんな絶望しかなかった





が、私がここに来た重さを他の人と同じにしてもらっちゃ困る

自分でやらなきゃ。大切な1年を誰かに任せられない。


そう思った


7.現実

パリの研修制度(スタージュ)は語学学校に通うのが条件


後にわかったことなのですが
エージェント-学校-花屋
という繋がり方で
エージェントの方も花屋のことは学校の方に任せていたらしい


普通、1店舗に1人か2人の日本人研修生だけど、実は私の番から、希望していたお花屋さんは採る研修性を日本人1人にしたそう

フランスも不景気

そしてまた、私の前に研修をしていた日本人があまりにもフランス語がしゃべれなく、お店の邪魔になってしまったみたいでパトロン(オーナー)が怒ったらしく、フランス語が喋れる人以外研修させない、と


で、学校の人は、
「まだJULIEさん来たばっかだし~9月くらいじゃない?」
と言ったらしい

エージェントからは5月から仕事開始と言われていたのに、その発言は軽すぎる

私の気持ちも重さも何も伝わってなかった

これからParis花修行考えてる人がいたら、あなたの大切な時間を本当にその会社に任せていいのか、最後の最後まで疑ってください



でもね
私も実は、エージェントにお金を払って働ける保証を買っていたから、研修させてもらえることをちょっとだけ甘く考えていたかもしれない

今までベストを尽くして勉強はしてきたけど、全部やったけど、あの時の現状はどうだっただろう?

あとは働きながら慣れよう、なんて思っていたかも


あのね、

フランスは情とかない


使えないやつはクビ
雇わない、ということ



フランス語は手段でしかない

私は、フランス語を学びに来たわけじゃない


8.壁


9月からと言われて

「はーい」

なんて言えるわけがない



まずエージェントに連絡
学校の担当者にも「5月からは無理でもせめて6月から研修できるように花屋のパトロン(オーナー)に頼んでくれ」と懇願

あとの1ヶ月で私はネイティブレベルに必ずなると、学校の人と約束した

大口叩いたけど

でも本気だった

それ以外に方法がなかったから


学校の人も私の熱意を汲み取ってくれて花屋に私の研修の件を頼み込んでくれた
結局、学校の人はいい人だったし、エージェントの人も悪気はなかった


4月の終わり、本来ならもうすぐ仕事が始まるってときに、パトロン(オーナー)に直接自分からお願いにいったが、会ってもらえなかった

その後2.3回目にやっと会ってもらえて、目を見てキモチを伝え、
「1ヶ月後もう一度挨拶にくる。
それまでにあなたが納得するほどのフランス語力をつけてみせる。
絶対に雇って損はさせないし、あなたのところで力になるのが私のなによりもの望みだ」
なんて表現をし、強気で想いをぶつけにいった



その場をさってから、自分がこれからやろうとしていることの壁の高さを、ただぼーっと綺麗な街並みを見つめながらひたすら考えていた


9.夢を見るということ

その時のフランス語が上手だったかはわからないけれど、そのあと連絡がきて、気持ちが伝わったことに泣いた

でも、早くて6月スタート

2ヶ月やってみて(つまり8月まで)本当にその子に価値があったら給料を支払うし、そのあとも引き続き雇うという胃が痛くなる条件だった
(2か月見極めて使えなかったら首切ります、と堂々と言ってくる)


研修でお金をもらえるところって少ない
経験させてもらってるのだからタダ働きというところも沢山ある

しかしそれだと貯金額では足らない

私は稼がないとそこで生きていけなかった



Parisは楽しいところ?
その時の私にとってはただの戦場でしかなかった



でも、それでも、

こんなにも素敵な街並み

ずっとずっと行きたかった景色が目に入るたび

心は踊ったし、幸せだった




今までの人生、全ての事がうまくいきすぎた

何をやってもただ純粋に楽しいっていう感情しか持ったことがなかった

その時は1人で生きることもはじめてだったし、フランス語は呪文


はじめて色んな感情を知った

はじめて上手くいかない事を経験した


それでも

1番最初心が動いた瞬間がずっと胸にあったから
やりたいことがそこにあったから
どんな現実も受け入れ解決策を探した


現実で夢を見るのは、こんなにも大変なんだね。


10.その日私はparisのお花屋さんになった


ずっと夢にみた

パリのお花屋さん


ここに立つために

沢山の準備をしてきた



2014年6月2日
私は2区にある、パリのお花屋さんの一員になった—



「すみません、、、
今日から研修させてもらうJULIEと申します
よろし、、、、」


挨拶が終わる前に、偉そうな不機嫌な人がやってきて、「じゃ、これ手伝って」と、私を外に連れて行った

どうやらデコ(装飾)で使うらしい

大きな、、、オブジェ?に葉を巻きつける作業

フランス語でペラペラと説明されて、「じゃ、よろしく~」とさっていく

店に足を踏み入れいきなり始まった私の仕事


新人の紹介とかないんだ、、
と思いつつも、目の前にある作業を一生懸命こなした

周りには本当に生粋のフランス人しかいない
日本人は私だけだ

「すごい、本当にパリで仕事をしているよ自分。。。」
そんな事も少し感じながら、その日はその他にもちょこちょこと雑用をやらせてもらった—....




初出勤が終わり

その日感じたことは

「ここに立てた幸せ」

なんかじゃなく

「長年夢みた夢が叶った幸せ」

でもなく

フランス語がみんなのようにできない申し訳なさが100%だった




そしてこの店には

日本人なんて別にいなくてもいい


そんな現実をこっそりと、でもしっかりと感じた




その日を終えて私は強く思った

別に日本人がいらないのなんて、分かっているし承知の上だ

きっと、雇うのにお金がフランス人よりもかからないから、お手伝い用員として使っているんだろう


それでも

JULIEがここにいてよかった

そう思ってもらえるように

ここでただのお手伝いではなく

仕事を一人前にできるように

私はこれから限られた時間を、精一杯過ごそう



どんな場所でも歓迎してもらっていた今までとはちがう


自分でいうのもおこがましいが、私は結構コミュ力の高い方だと思っている
チアダンスで培った”いつも笑顔であきらめない”、そんな体育会系メンタルは結構日本のどこの組織に行っても評価してもらってきた

それでもここは望まれて入った場所とは違う



そんなはじまりだったけど

私の大切な夢は

私の大切なParis生活は

まだまだはじまったばかりなのだった


11.シャンゼリゼ通りの仕事


勤務2日目

入店時
「BONJOUR!」
というだけで緊張する


挨拶を返してもらえるかわからないからだ


とりあえず新人だから、誰もなにも言ってこなくても、周りの掃除をしよう!とせっせと掃除をしていたら

「ちょっとこっちきて」と呼ばれた

(名前は覚えられていない。わかりやすい名前なんだけどな)

そして、
私はなんと2日目にして、シャンゼリゼ通りにある一際目立つ大きな建物、Grand palaisのデコ(装飾)を手伝わせてもらえることになった

とりあえず昨日のブティック内でのフランス語で赤点はとらなかったみたいだ

ちょっとだけ嬉しかった

本当に使えないやつだと判断されたら、恐らくブティックに残って掃除だっただろう
少なくとも何かしらの役にたつと思ってもらえたことにまずはガッツポーズ!


会場に入る際
特別なパスのようなものを渡された
ここのスタッフしか持つことのできないスタッフカード、、、、
金色で素敵だった、、、


そして
ついに中に入った


目の前に広がる

大きな会場が

高い天井が

一寸のズレもなく綺麗に並べられた机が

リハをする歌手が

魔法がかかっているかのように

キラキラして見えた



プロフェッショナルが集まる

こんな光景を

目に入れられる私は

そしてなによりここで

お花が出来る私は

どれだけ幸せ者なんだと

感動して心が泣いた



こんな光景を

また見ることができるのなら

どんなに今後大変なことがあっても

喜んで頑張りたい

立ち向かっていきたい



あぁ、

ここはParisなのか、、、!!!


12.存在価値

一人で感動し目を潤ませていたら、次第に周りの人たちがトラックに集まりはじめ、いろんなものを運び始めた

私はどうしたらいいかわからなかった
が、とりあえず他の人の真似をした

ここでは、誰も指示をしてくれない

自分で空気を読み、推測をする

きっと私がボーっとしていても、何も言ってこないと思う

期待をされていないから


それにはじめの頃は、色々と聞いても、聞いたことのないフランス語単語がばーーーっと返ってくる

わかりませんとは言えないよ


もちろんわからないことは聞かなければいけない

でも単語でわからないのは私の責任だ


私の場合、他のフランス人と次元が違う

「使えないやつ」と思われた瞬間、私の可能性は減っていくと思っていたから、どんなにわからなくても、さもわかっていたかのように

「これであっているよね?」

という形で確認をした

そしてわからなかった単語をカタカナでこっそりメモ
家に帰ってスペルを予想し、辞書で出てきたそのシチュエーションなら多分これだろうなというの見つける

ほんと、わからない単語が出てくるたびに
申し訳なくて胃が痛くなる

つまり

ブティックにいる間ずっとだ


でも

痛みなしでは成長は出来ない

常に気を張って

勤務時間は全集中力を捧げる

きっとそのわからない単語に繋がる

ヒントが色んなところにある

ここにいて指示を間違えたことは不思議と1度もなかった

アドレナリンってすごい


13.情報収集


前の章でも書いたが、ブティックにいるときは、”今、何ができるかは自分で聞く

そして1番困ったのが、誰も私に情報をくれないことだ


だから自分での情報収集がかかせなかった

例えばこういこと

「この薔薇を束ねておいて」
という指示に対して

・これはいつ使われるもので
・なんのために使われるもので
・どんな風に作ればいいのか
などといった情報が必要になってくる

・今日すぐ使うものなのか
・明日のものなのか
・茎はどれくらいで切るのか
・大きく作るのか
・小さく作るのか

そういう情報がないと
指示を間違えることになる

でも

フランス人は聞かれすぎることを嫌う


めんどくさいからだ


ひとつひとつ確認していたら
あからさまに
「お前めんどくせーこまけーよ」
という顔をされる

必要な情報をくれないのに、間違えると私のせい

間違えないように聞き過ぎると、うとましがられる

そういうものなのだ


恐らくフランス人たちのあいだでは情報共有がなされている

情報がない私にも同じ扱いをする

文句は言えない

言われたことをやるだけの人材だとおもわれているから


でも

言われたことに対して

100%こなすのはもちろん

さらに期待以上で絶対に返そうと決めていた


だから、情報収集が必要


ブティックにはいってからでるまで、本当にずっと集中していた

他の人達とおしゃべりなんかできない
というか、してくれない

みんな私を相手にしていない


仲良くなりたいとかどの口が言っているのだい?の状態

私なりに歩み寄ったけど全て失敗に終わった


だからずっと、無言でみんなの会話を聞いている

それが雑談でも、意外なところで情報がある

「明日のデコって何時からだっけ?」
「あー16時くらいにここ出るんじゃない?」

こんなお宝みたいな情報が入ったときはガッツポーズなわけだ!!

ということは明日は準備をすくなくとも16時前までに終わらせなければならない

それがわかっただけでみんなを助けてあげられる


束ねた薔薇をいわれなくても搬入のカゴにいれて渡すことができる

いつも時間ギリギリになるのを知っているから無言でフォローができる

自分ができることを
自分で見つけられる

それが嬉しかった


14.全てがチャンス


あと心がけていた事は


どんな雑用の仕事でも、一生懸命やることだ


たとえ花瓶をふくだけでも、新品レベルに綺麗にしようと頑張った

たとえキャンドルの整理でも、みんなが使いやすいようにと工夫をした


絶対、見てくれている人がいる—


”この子はどんな時でも一生懸命やる子なんだ”

そんな風に思ってもらえたら

きっといつか仕事を任せてくれるはず

だから言われた仕事は
全てがチャンスだと思っていた


貰ったチャンスは絶対に逃さない
そしてそれを次につなげられるように―




チャンスがくるのはたまたま?

決してそんなことはない


チャンスは自分がそのレベルに達した時にやってくる

ひとつひとつの積み重ね

一瞬一瞬を全力で生きて、損なことなんてひとつもないんだ


15.ひとつだけわかっていたこと


ここにいられることが貴重だから

私なりにすごく頑張ったと思う

でも

本当に何度も心が折れていた


というか

帰宅する時にはもう

毎日ボキボキだった


でも、1000回折れても、1001回目になにか変わるかもしれない、と本気で思っていた


まぁしかし、、、

頑張ってはいても正直辛かった


「なにやってるの!違うよ!こんなのゴミでいいんだよ!」
と怒鳴られ私が持っていた雑巾をバーーーーーーーンとゴミ箱に投げつけられる

理解が足りない時、本当に本当に、あからさまに顔の目の前で、よくそんな感情を表に出せるなぁ、、と逆に感心するほどわかりやすいため息をつかれる

「この花瓶を15個倉庫から持ってきて」
と頼まれて行ったら倉庫には15個なくて
「ありません」と言ったら
(まじこいつ使えない)のため息攻撃

「あるから絶対、来てみな」
とフローリストに倉庫に連れて行かれて一緒に探すもやっぱりなくて
「あ、ないね」って。
そこでも絶対に謝らないフランス人。


理不尽だとわかっていても、言われたことをこなしたい気持ちがあるから、それすらも悔しかった

「なんでないものを持ってこいって言うんだよ!」っていうよりも、叶えてあげられない悔しさで「ごめんね、、」というしかなかった


みんなコーヒーを本当によく飲むのだけど、ブティックにある機械を使うか、となりのカフェでつけてもらうかのどちらか

一人が「コーヒーいる?」ってみんなに聞いて回る

でも、私には聞いてくれない
それが一番、心がえぐられた

私もここにいるんだけどな―...
仲間にいれて...




ここではね、頑張ります!とかない

できるか
できないか


邪魔になるか
ならないか




言いたいことが綺麗に上手く伝わってくれない

理解できているのにできていないと思われて、諦められるのが一番悔しかった


わかってる
もっと語学留学を丹念にして、フランス語ネイティヴになってから働けば良かったこと

でも、私が夢を見られる時間にはリミットがある(夢を見るのは30歳までと決めたから)

私がしてきた選択が
全てのwantを叶える
たったひとつの道だった


みんなが厳しいのも当たり前


みんなの会話に入れないのも当たり前


ひとりぼっちなのも当たり前


私が優しくされる権利はない


甘やかされない



でも、ひとつだけ私にはわかっていたことがあった



私が変われば、周りも変わる


16.死ぬほどつらい時はいつも


頑張りたい気持ちと裏腹に、また大きなため息をつかれ、もう彼のあんな顔は見たくないと、耐えられなくて涙をながしたことがある

泣いてめんどくさがられるのが嫌で、まるでドラマのシーンかのようにゴミ捨て場に行って静かに泣いた

泣いたというか

目から粒があふれてた

そんな時に、必ず考えることがあった



私が今、ここで頑張って

ここで踏ん張ったら

私の感性が広がって

世界観が広がって

私が作るお花がもっと素敵になったら

私のお花で喜んでくれる人が

増えるかもしれない

素敵なフローリストに

なれるかもしれない

たくさんのものをもちかえって

多くの人にお花で喜んでもらいたい…!!!!!

そんなビジョンが頭の中に広がった




そして

私には大きすぎる夢がある



私が大学生の時、ちょうどカナダから帰ってきてから買った1冊のROLAの本がすごく心に残って、私の価値観に大きく影響した

その本からは

「好きなものに囲まれて
好きな人達と
好きな事に本気に生きる」


そんなROLAの芯の強さが伝わってきた


それを手にしてから、私も自分の周りに自分の大好きなものをおきたいと意識をするようになった

なによりもっと

人生を、自分を、楽しみたいと思うようになった


カナダで学んだ価値観
ROLAの人生を楽しむ生き方

それが今の私の全てを作っている


だから私の最後の夢のゴールは

ROLAとおなじステージにたつことなんだ


ステージというのは、一緒にお仕事をすること

彼女が本を出す際にバックに飾るお花を担当するとかね
雑誌で持つお花を担当するとか

自分が同じレベルにならないと、お仕事は一緒にはできない

あれほどまでに自分の仕事にプロフェッショナルな彼女と、いつか何かしらの形で一緒になることが夢



この話をすると笑う人もいる


というか
「頑張れ~笑」
と思う人が8割


みんなにとってのROLAがどんなんでも、私にとっての彼女は尊敬する女性

それが例え芸能界で作られた架空の姿だとしても
私に影響を与えてくれたことに変わりはない

花と芸能人が一緒になれるの?という風に言われることもあるが

それが本当に可能かそうでないかなんて、私には関係ないのです


私が本気でそれに向かえるか
向かえるのなら、それは追う価値のある夢なのです


だからね、今がいつかROLAと同じステージにたつための試練なのだと思ったら
これくらいどうってことない!
って思えた

今が目標のための道であり過程


これくらいの痛みでいいのなら安いものだ


私にはやりたいことがある


17.耐えられるもうひとつの理由


辛い事があっても、耐えられる理由は仕事にもあった


泣きながらもしっかりとチャンスは逃さず、素敵な経験を沢山沢山させてもらった

・grand palaisの現場デコ
・ルーブル美術館デコに使うお花
・シャネルのブティックに使うお花
・ロダン美術館の現場デコ
・エリザベス王妃からのご注文での大量の薔薇水揚げ
・ルイヴィトン本店での現場デコ
・ジョンポールゴルチエでのイベントの花束


全て任せて作らせてもらうことも、アシスタントとして携わることさせてもらった(他にも沢山あるがとりあえず時系列関係なし)

そして
私は直接は関わることができなかったが
・ヴェルサイユ宮殿のデコ
・グッチの社長に贈る花束

をこの目で見ることが出来た


たまにさせてもらえる

貴重な経験が

そこで見ることの出来る景色が

自分の肌で空気を感じて

心がワーーーってなる鳥肌が

嬉しさが

忘れられないから

もっと自分の能力をあげたいと思った



いつだってまるで昨日のことかのような心が動いた瞬間は、ずっと私の宝物として心にコレクションしてある

それがある限り、私は今日も頑張れる

ありがとう


18.前進


あっというまに2ヶ月は過ぎた


いつも厳しいフローリストを初めてイラつかせなかった日

初めて褒めてもらえた日

初めて一人のフローリスト要員としてカウントしてもらった日

初めて接客を任された日


ちょっとずつだけど、確実に前に進んでいた

初めてフランス語で接客をしたときは、お客様に喜んでもらえるこの幸せが、私にとって最高の価値だと実感して、泣きそうになった


特に印象に残っているのは、シャンゼリゼ通りにあるルイヴィトン本店でのデコをアシスタントさせてもらった時だ

トラックでその場所にたどり着くまで、私は何をするか知らなかった(安定の情報の薄さ)

でも、前日にパスポートを用意してくること、身分を証明できるものを他にも携帯することを言われていた


裏から入り入念に身体チェック

怖すぎるマッチョなガードマンにおびえていたけれど、そんな私を見てにこっとしてくれたから、怖いのは見た目だけだと悟った

細い道を通り抜けた先には、はるか高い天井、壁一面に、、、、。
(描写していいのかわからないので書きません)

おそらく、一般の人は入れない場所

とにかくキラキラしていた


さらにエレベーターで最上階へあがる

ここもプロフェッショナルの集まる場所だ

もう、、

雰囲気がすごすぎてかけない。。。

ひとつ思ったのは

みんなすごく強く優しい目をしていた

あと英語を話していた

グローバルに活躍するのにやはり英語はマストなのか、、
なんて考えていたら、少しよろついて壁に手をついてしまった


激怒された


「手をついて壁が汚れたらシャレにならない、気を付けろ!!」


たしかにそうだ、、、

反省とともに、、、

やっぱりここはすごいところだと思った、、、


でも

臨機応変にトラブル対応や要求変更のアシスタントができた(トラブルがないことがないフランス笑)

自分でも力になれたのを感じた
ありがとうと言ってもらえた


またその他では
有名な女優さんにもお会いしたし
モデルさんにもお会いしたし
元大統領に気に入られたりもした(店頭で挨拶しただけだが後に他のフローリストにあの子イイネと言ってくれていたらしい)

とにかく、日本にいたらありえない体験を沢山した


全てが自分の感性となって、お花に現れるのだと思う

8月はバカンスでお店はしまっているのでお休み

価値があったら続けられるし、お給料ももらえると言われていたが、無事もらうことができたし、9月からもおいでねと言ってもらえた


また新たな気持ちでがんばろう!と9月から第2のスタートをきるのだが、こんなにも波乱万丈な地獄がこれからが待っているとは、この時は想像もしていなかったのであった。。。


19.第二ステージ


9月になった

8月のバカンスで1ヶ月ブティックに行かなかったことにより、完全にフランス人への抗体がなくなっていた、、

あの抗体をまた1から付けるのか、、、
と始まってもいないのに心が折れそうに、、、

そしていざブティックに入る

いつも厳しいフローリストに、「JULIEはいつまでやるの?」と聞かれる

「12月までやれることになったよ!」と元気に笑顔で答えると

「まじかよ、、、本気で?ハァ.........」

あからさまなため息とともに嫌な顔をされる


でたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーo(^▽^)o


その日のご機嫌は完全にななめだった模様

久しぶりの感覚すぎて笑ってしまった


しっかり心はえぐられ、心のスイッチをオフにして仕事をしていると、9月から新しく入ったという女性フローリストがやってきた


この天使が後に私の心の支えとなる



20.やっと


あたらしく入ったその子

私の方が少しここの知識があるということで、
私はその子だけは、少しだけ他の人よりも距離が近いような気がしていた

そして、自分から話しかけることが出来た

「これはここにしまうよ」

とか

「これはここにあるよ」

とか

彼女が困っていそうだとサッと教えてあげた

((私は誰からも教わっていないんだぜ))と言いたかったがやめておいた笑

9月の時点でパリにきて半年だった

私のフランス語は正直
びっくりするくらいレベルアップしていた


そしてそのおかげで、
他のフローリストたちとコミュニケーションがとれるようになっていった

ある日初めて「昨日のオフは何をしたの?」と話しかけてもらった時は、質問どころではなく嬉しくて泣きそうだった

やっと私がここにいることを
みんなに気付いてもらえた気がした



しかし

思い出すのも辛いくらい
私にとってトラウマレベルの日々が
静かに幕を開けた―.....

PS:その時は認めたくなくてアマリリスのせいにしていたけれど心の状態から私の手にはずっと蕁麻疹ができていた。毎日毎夜かゆくて眠れなかった。

えぐい(;_:)

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21.悪夢のはじまり

ここからは有料の記事になります。とある事件がきっかけでおこったトラウマな日々、限界、雨が降らないと地は固まらない話など、Paris生活後半の大切な日々と、最後にこのパリ生活を通して感じたこと、学んだことを掲載しています。おまけでパリのその後の5年間も簡単にご紹介しています。
続きを読むには800円かかりますが、NOTEのアカウントをお持ちでない方も購入することができます。ラーメン1杯食べたと思ってこの先のお話も見届けていただけたら嬉しいです^^

弾ける機会と聴いてくれる人がいるなら、私は全力で弾く。聴いてくれた人が私を忘れないように、その人の心にずっと住めるように。
By 四月は君の嘘 宮園かをり

これは私の大好きな言葉です。私も、宮園かをりのように、読んでくださる人がいるのなら、全力で書きます。伝えます。その人の人生を変えるきっかけになれるように。

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