思い描いたその先へ
小学生くらいの頃、両親や親戚からよく、「将来外国人と結婚して突然ふらっと外国に行きそう」と言われていた。外国人とは結婚しなかったけれど、いま夫の仕事の都合で海外暮らしになって三年目になる。ある意味で家族の予想は当たっていたわけだ。
高校生のときの将来の夢は「パリに住むこと」だった。相当色んなところで言いふらしていたらしく、大学生になってパリ大学に留学することになった時に、従弟に「夢をか叶えるんだね、すごいね」と言われた。実際住んでいたのはパリ郊外だったし、大学も行ったりいかなかったりで、夢を叶えたとは言い難いが。
わたしはいまの自分を、たとえば10年前とか、子どもの頃とかに想像できていただろうか。想像していたわたしはもっと、当たり前に4年で大学を出て、当たり前に就職していて、いまも東京で暮らしていたはずだ。こんなはずじゃなかった、という思いは常に付きまとっていて、だからといって納得していないわけでもない。なるべくしてなった、という感覚も強い。
努力していたからここまでこられたわけじゃない。ほんとうに、成り行きに、流されるままに、気がついたらアフリカにいた。
でも、どこかでこうなることを知っていた自分もいた。わたしは普通に働くことにはとことん向いていない。それに子どもの頃からずっと、将来は小説家になりたくて、そのためには毎日9時5時の仕事なんてどっちにしろできないと思っていた。ずっと家で小説ばかり書いていたかった。だからこの未来は、ある意味望んでいた形でもあるのだ。
夫にプロポーズされたとき、仕事の都合で海外暮らしになるから、仕事を辞めて一緒に来てほしいと言われたとき、わたしは正直かなり、嬉しかった。結婚することが、ではない。仕事を辞める正当な理由ができたことが、だ。願ったりかなったりだと思った。小説家になりたいから定職に就かないなんて言ったら、絶対に周りのひと全員から反対される。でも、夫の仕事の都合で辞めざるを得ないなら、しょうがないと思われる。それどころか、むしろ余暇に何もしないことを責められる。現代人ってどうして、なにもしないで家に居るひとのことを許せないのだろう。
幼いころから、人生は絶対に思い通りに運ぶと知っていた。いまもそう。紆余曲折はあれど、思い描いていたとおりの未来に、わたしはいま、いる。