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紫乃と美甘の読書会 第2回「違国日記」

はじめに

前回、「自己紹介代わりの本」を挙げるにあたり、候補にも挙がったものの結局話し切れなかったのが、今回のテーマ『違国日記』だ。わたしがこの作品に出会ったのはここ一年と、比較的愛好歴は浅いほうだと思う。しかし思い入れは人一倍強く、二回目にしてすでに予定時間を大幅に超えるという異常事態が発生した。というわけで、noteにまとめるのにもかなり時間が掛かってしまったが、ご容赦いただきたい。それと、今回はネタバレのオンパレードかつかなり個人的な事情にも触れているので、ご注意ください。またこのブログは紫乃の了承のもと美甘個人の独断と偏見のもとに執筆されているので、実際には話されたものよりもかなり美甘側に偏った内容になっている。紫乃さんの観点もとても興味深いので、気になった方はぜび読書会のアーカイブ(紫乃と美甘の読書会 第2回 「違国日記」)を視聴してください。

『違国日記』ヤマシタトモコ(祥伝社)2017年~(既刊9巻)

交通事故で両親を亡くした中学3年生の「朝」は、母の妹である「槙生ちゃん」に引き取られ、共同生活を始める。小説家の槙生ちゃんは、朝からするととても変わった大人で……?

登場人物

朝(あさ):本作の主人公。最近両親を亡くしたばかりの高校生。
槙生(まきお):朝の叔母。身寄りを亡くした朝を引き取った。作家。
えみり:朝の幼馴染。朝と同じ高校に通う。最近他校の彼女ができた。
醍醐(だいご):槙生の中学時代からの友人。今でも頻繁に会っている。
笠町(かさまち):槙生の元恋人。朝を引き取った槙生の世話を焼く。
実里(みのり):朝の母。槙生の姉。事実婚であったことが死後発覚する。

①タイトルについて

まず、「いこく」と聞いたとき、多くの人は「異国」と頭の中で変換するだろう。しかしこの作品のタイトルは「違国」と表記する。タイトルについては、作中で特段触れられてはいないが、朝が槙生のことを「違う国のひとみたい」と描写するシーンがあることから、ここから取られているのではないだろうか。しかし朝のいう「違う国」とは、単純に「異国」のことを指しているのではない。槙生はときどき、ここではない場所に行ってしまったかのように見えることがある。それは現実的な意味での「外国」ではなく、精神的な意味での「違う国」だ。そこはひょっとしたら槙生だけしか存在しない国かもしれない。そういう意味を込めて、あえて「違国」という表記がされているのだと分析する。
そして「日記」という言葉について。わたしは、上述のことを踏まえて、朝が槙生との共同生活を始めてから書き始めた日記のことを指して、「違う国のひとと生きる日記」という意味で「違国日記」というタイトルだと思っていた。けれど考えてみれば、この作品には他にもたくさんの日記が登場する。朝の母が、生まれてくる朝が20歳になったときに渡そうと付けていた手紙のような日記。槙生ちゃんが朝を犬に例えてweb連載しているエッセイ。笠町くんの母が彼の学生時代に毎日のお弁当を記録していたノートも、見方によっては日記と言える。朝のものに限らず、「日記」はこの作品において重要なモチーフとなっているようだ。

②好きなキャラクターについて

わたしが好きなキャラクターは、断然えみりだ。えみりは、朝の小学校からの友人で、他校に通うガールフレンドがいる。えみりは何年も前から、それこそ小学生のころから、自分がレズビアンであることを自覚していて、しかしそれを表立って表明することができなかった。周囲の人の目が怖かったからだ。しかし槙生ちゃんに「フライド・グリーン・トマト」という映画を勧められたことをきっかけに、自分自身のことを受け入れられるようになっていく。
わたしがえみりを一番好きだと思ったシーンは、将来どうなりたいかを話していて「好きな人と結婚したい。ていうかそれだけでいい」と答えるところだ。わたしも、この10年間、好きなひとと結婚したいという一心で生きてきた。えみりのこの発言で、それだけを唯一の希望としていてもいいんだと、許されたような気がした。
わたしは個人的に、カミングアウトこそが正義かのような現代の風潮にいまひとつなじめないところがある。自分はただ自分でありたいだけなのに、カミングアウトすることで、周囲が変に「あなたはレズビアンだから」と気を遣うようなこともあるだろうし、それが嫌だというひとも多いだろう。それにマイノリティーではないひとたちはわざわざ「わたしはストレートです」などと表明したりする必要はないのに、なぜマイノリティーだからってそんな宣言をしなければならないのだ?
えみりはきっと、朝に「彼女ができた」と言うのに、何度も何度も迷ったし、ためらっただろう。親友はきっと、誰よりもそういう話を聞いてほしい相手なのに、もし拒絶されたらどうしようとか、ほかの友達や親にまで言いふらされたりしたらどうしようとか、本気で怖かっただろう。わたしはどうしても、えみりに自分の体験を重ねてしまう。そして朝に無事伝えることができて、本当に良かったと思う。彼女たちのこれからの幸せな未来を願うばかりだ。
それから、紫乃とよく話しているのが、槙生と醍醐の関係性が、紫乃とわたしの関係にとてもよく似ているということだ。
わたしが一番印象に残っているのが、醍醐が高校卒業の時に槙生に渡した手紙だ。そこには「6年間きみがいなかったら私は息ができなかった」とあった。わたしはこのシーンを読んだとき、涙が止まらなかった。わたしにとっての紫乃も、まさにそういう存在だったからだ。そしてまたこのシーンで良かったのが、槙生もこの手紙を読んで「生きていてもいいんだ」と思えたことだ。醍醐と槙生は、一方通行の関係ではなく、良い意味でお互いに依存しているのだと思う。
これは朝とえみりにも言えることだが、ヤマシタトモコ先生は、親友を描くのがとても上手だ。少なくとも、わたしは自分の友情観ととてもちかいものを感じる。そしてどの登場人物も、一側面からではなく様々な側面から描かれていることで、より内面の描写が深まっているのではないだろうか。

③笠町くん好き嫌い問題

これは先ほどの好きなキャラクターの話から派生しているのだが、わたしと紫乃の間で最も意見が対立したのが、笠町くんについてだった。紫乃は笠町くんを好きなキャラクターとして挙げたのだが、わたしは笠町くんについてどうしても許せないところがある。それが、「『友達に戻ろう』問題」だ。
笠町くんはかつて槙生と付き合っていたが、いまは友人のひとりという位置づけにいる。ふたりが別れるとき、笠町くんは槙生に「友達に戻ろう」と切り出した。これがわたしにとっては、個人的な恋愛観からも作品を読む一読者としても許せないのだ。
まず個人的な理由を述べると、わたしは恋愛関係に至るとき、端からその相手のことを友達だと思っていたことはない。そのひとのことは出会った初めから「気になるひと」という位置づけになるのだ。だから、たとえ「友達に戻ろう」と切り出されたとしても、その戻るべき「友達フェーズ」というものはわたしにとっては存在しないのだ。「恋人」という関係が終わったら、そのひととはもう永遠に関わらない。それがわたしの恋愛観だ。
それから一読者としては、槙生の立場を考えると、笠町くんの態度は非常にズルいと言わざるを得ない。槙生がまだ笠町くんのことを好きで、そして当然笠町くんも槙生のことを好きでいる状態で、手に届く位置に居座り続けるのは、槙生の好意に甘えているにすぎない。さらにもし槙生に新たに好きなひとができたとしても、かつて好きだった、自分に好意を寄せている人間がいると、その新しい出会いのほうに行くことができないだろう。そしてきっと笠町くんはそうやってずるずると槙生との関係が続いていくことを期待している。だから彼のしていることはひたすらズルいのだ。

④孤独のかたち

『違国日記』にはさまざまな孤独のかたちが登場する。朝にとって孤独は砂漠で、孤独をものともしない槙生ちゃんのことは、砂漠のオアシスにひとりで悠々自適に住んでいるひとのように見えている。えみりにとって孤独は海のかたちをしていて、朝にカミングアウトが受け入れられたときには、その波打ち際が足元にかかる描写がある。そしてその孤独は悪いものではないということも描かれている。
この作品は、一人で生きていくことと、誰かと生きていくこと、そのどちらも描いている。朝は孤独に対する耐性があまりない。わたし自身もそういうタイプだからこそ、朝がいつか孤独への対処法を見つけてくれたらと願っている。一方、朝からすれば孤独に順応しているように見える槙生ちゃんも、完全にひとりで生きているわけではない。朝との同居生活はしばらくは続く見込みだし、笠町くんや醍醐など友人たちになんだかんだ支えられている面もある。作家仲間とはお茶を楽しんだりもしている。ちなみに紫乃曰く槙生ちゃんタイプの研究には映画「ストーリー・オブ・マイライフ」が向いているそうだ。わたしは未視聴なので近いうちに観たい。
さらに今回はわたしと紫乃のそれぞれの孤独のかたちについても語り合った。まずわたしにとって孤独とは、宇宙のイメージだ。ちがう作品の話になってしまうのだが、日食なつこさんというシンガーソングライターの歌に「2099年」というものがあり、この歌がわたしが孤独のかたちについて考えたときに最初に頭に浮かんだ。とくに2番のサビの「2099年、君はこの地球上で 自分の星の言葉を呑み込んで重力に耐えた」という部分が、一番わたしの孤独のかたちを表している。わたしはたびたび、自分だけがとても遠い星からやってきたかのように感じることがある。同じ日本語を話しているのに、わたしだけが違う言葉を話しているように感じることがある。周りの人間と意思疎通が取れないとき、人間は孤独を感じるものらしい。『違国日記』の中でも、それぞれが別々の言語を話しているかのように見えるシーンがあった。
紫乃にとっての孤独のかたちは、閉園後の遊園地を思い浮かべるらしい。楽しく過ごすこともできるが、いつかこの孤独に耐えられなくなるかもしれないというぼんやりとした不安があるらしい。わたしがそんな紫乃におすすめしたいのは村上春樹の『スプートニクの恋人』だ。この本は個人的に孤独についての話だと理解しているし、わたしたちにとっての孤独のかたちである宇宙も閉園後の遊園地も登場する。
ちなみに砂漠と言えば、わたしたちは卒業旅行で鳥取砂丘に行った。こちらも違う作品の話になるが、『ハチミツとクローバー』の影響で紫乃はずっと鳥取砂丘に憧れがあった。だからか彼女にとっては砂漠は孤独な印象は受けないらしい。わたしも鳥取砂丘の楽しい思い出があるからか、砂漠にあまり孤独な印象は受けない。ただ砂丘にいたひとびとは、皆己の身ひとつに集中しているような、ひとりの人間がひとりとして存在していることへのポジティブな印象を受けた。
皆さんにとっての孤独は、どのようなかたちをしていますか?

⑤親子関係

この作品にはさまざまな親子関係が登場する。これもきっと重要なテーマのひとつなのだろう。印象的なのは、笠町くんが父親とうまくいっていないという話と、朝が亡くなってしまった自らの父母に対して本当はどのような人間だったかという疑問を抱く話だ。特に朝と両親については、この年齢で親と自分を切り離して考えることなどできただろうかと、我が身を振り返って空恐ろしく思った。わたしが親は自分とは違う人間なのだときちんと実感を持って理解できたのは、朝よりもずっと遅かったように思う。そもそも朝くらいの年齢では、自分自身の人格を確立させることに果てしないエネルギーを費やしていたような気がする。
さらに親子関係から派生すると、軋轢があったと推察される実里(朝の母、槙生の姉)と槙生の関係を悪くさせた原因は、彼女たちの母親にもあったのではないだろうか。槙生の発言によると、彼女たちの母親は、かつては実里のことも槙生のことも等しく褒めていたのに、いつからかふたりの特徴のことを悪く言い換えるようになったらしい。それはきっと、それぞれに対してだけでなく、お互いに対しても言われたのだろう。そして比べられるようになった姉妹は、お互いの悪いとこばかりが目に付くようになったのではないか。

⑥槙生の性質

この作品の大きなポイントになっているのが、槙生の一風変わった性質である。ひとりを好み、社会に迎合して生きることのできない槙生は、苦しみながらも生きていくしかない人間にとって、ではどう生きるか、という指標になりうる。
『違国日記』が、わたしにとって、紫乃にとって、そしてそのほか多くの人々にとって、救いになりうるのは、わたしたちが苦しみながらも生きていくしかないということを受け止めてくれるからだ。わたしたちはこの作品に何か新しい概念の発見を期待しているのではない。自分自身の中にずっとあったもの、それでも言葉にできなかったものを、そっと掬いあげて、的確に描いてくれるからだ。だからこそ、これはわたしたちが読みたかったものだと思わされる。

おわりに

ずいぶんと長くなってしまったが、『違国日記』の魅力を語りつくすことはできなかった。この作品を読んでいるとしみじみと、ヤマシタトモコ先生の観察眼の鋭さと表現力の高さに圧倒される。「漫画がうまい」とはこういうことだと痛感させられるのだ。
最後に、ここまでnoteを読んでくださった方向けに、もう一度アーカイブのリンクを貼っておく。この読書会は現在のところほぼ隔週土曜日に開催されていて、Twitterのスペースから視聴できる。この回以降のログも順次美甘のnoteにて公開予定なので、どうぞよろしくお願いします。

紫乃と美甘の読書会 第2回 「違国日記」(2022/09/17)アーカイブ

主催者:紫乃(@s0h0i0)、美甘樹々(@jujuMikamo)

登場した作品リスト

・ヤマシタトモコ『違国日記』祥伝社、2017年-。既刊9巻(2022年11月現在)。
・村上春樹『スプートニクの恋人』講談社、1999年。
・羽海野チカ『ハチミツとクローバー』集英社、2002年-2005年。全10巻。

・「フライド・グリーン・トマト」ユニバーサル映画、1991年。
・「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」ソニー・ピクチャーズ、2020年。
・日食なつこ「2099年」(『鸚鵡』に収録)Living, Dining & Kitchen Records、2017年。


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