天牛名義考「名義史放浪編(なまえのれきしほうろうへん)」
本稿は「名義史放浪編」の第2回。
前稿は, 『日本国語大辞典』が「てんぎゅう/天牛 = カミキリムシの漢名」の用例として平安時代の能吏, 藤原行成の日記『権記』を挙げていると指摘したまでで終了しました。
しかも, その用例によれば, 権勢を恣にしていた道長のご機嫌伺いに行成が「天牛」を献上したことになっています。 道長はカミキリムシ蒐集家だったのか? これはこのまま見過すわけにはいきますまい。
<A-2> 藤原行成「天牛」始末
1. 「天牛」@『権記』の正体
データベース検索によれば「天牛」は『権記』の3か所に登場する*1.
さしあたり, 『日本国語大辞典』が引用した長保三(1001)年十月三〇日を,インターネット上でアクセスできた伝本のいくつかで確認してみよう*2.
a. 松平定信旧蔵本:
(長保三年十月)「卅日丁卯 詣左府 奉天牛」
b. 松山久松家旧蔵本:
(長保三年十月)「卅日丁卯 詣左府 奉大牛 (※大を見え消しして天と朱書)」
c. 大和文華館蔵本:
(長保三年十月)「卅日丁卯 詣左府 奉大牛」
d. 書籍館旧蔵本:
(長保三年十月)「卅日丁卯 詣左府 奉天牛 (※天牛にアメウシのフリガナあり)」
b,cから,「天牛」は大牛の誤記あるいはその逆とも取れそうだし,dから,”テンギュウ” ではなく ”アメウシ” と読む可能性も示唆される.
「天牛」登場のもう1か所をみよう.
「詣左府, 奉天牛」の前年の長保二(1000)年十月十五日,神祇官大副(次官) 千枝(ちえだ)朝臣が藤原行成に貢物を届けに来た一件が記録されている.
e. 勧修寺家旧蔵本:
(長保二年十月)「十五日戊午 千枝朝臣 貢牛一頭 天牛」⇨下挿図参照
f. 松平定信旧蔵本:
(長保二年十月)「十五日戊午 千枝朝臣 貢牛一頭 天牛」
g. 松山久松家旧蔵本:
(長保二年十月)「十五日戊午 千枝朝臣 貢牛一頭 大牛 (※大牛を見え消しして天牛と朱書)」『権記』長保二年/勧修寺家旧蔵本
さて,これだと,「天牛」とは牛のことにほかならぬ. ただ,その牛が「天牛」と称されるような種類の牛であることが示唆される.
長保三年の伝本(d. 書籍館旧蔵本)にあったフリガナを勘案すれば,その牛は ”アメウシ” と呼ばれるらしい.
2. 黄牛
”アメウシ” は通例は黄牛と書く*3. 飴色の毛並みで, 牛車を牽く牛として高級視されたようだ. “立派な屋形付きでもない牛車を黄牛に牽かせるなんて(不似合いだよねー)”,と清少納言が『枕草子』で苦言を呈している(第四十五段「にげなきもの」).
そんな黄牛を行成は千枝に貢がせ,日記では「天牛」と記載した. 一年おいて道長に献上した「天牛」との異同は不詳だ.
ただ,『権記』の同じ伝本の中で「天牛」と「黄牛」の表記は混在している. それは奇妙といえば奇妙だ. 当て字ながら使い分けがあるような*4. そんなこんなで『日本国語大辞典』は,『権記』で「天牛」と記載されたのはカミキリムシであって ”黄牛=アメウシ” ではないと判断したのかも知れぬ.
ううむ. 当座の誤釈やむなしとして, しかし,道長がそんな虫をもらって喜ぶか,というごく素朴な疑問が次に生じそうなものだが*5.
『日本国語大辞典』,ファイト!
(以下, <A-3>につづく. ただし,次稿は <B-1> の予定です)
*1
国際日本文化研究センター「摂閲期古記録データベース」『権記』における「天牛」検索結果.
*2
国文学研究資料館「国書データベース」から各文庫にアクセス.
*3
『和名抄』巻十一,牛馬部 第十六, 牛馬毛第百四十六に「黄牛」がある. 「天牛」の当て字はない.
*4
「摂関期古記録データベース」『権記』で検索すると「黄牛」は4か所に登場し,うち3か所は長保二年十月中である.
十月八日に,三日後の宮中行事に供する「黄牛」二頭が話題となり,十一日にそれらが牽き出されたこと,行事も済んで十四日にはこれより「黄牛」を留めおかぬ旨の記載がある. 翌十五日, 千枝による行成への「アメウシ」の貢上は「黄牛」ならぬ「天牛」と記載されている.
なんだか意味深長ではないか.
*5
「摂関期古記録データベース」によれば,道長の日記『御堂関白記』にも「天牛」が登場する. それはやはり牛のことで,寛弘六年十一月十日に,“牛がないとぼやいている右大臣に天牛(アメウシ)を,内大臣には斑(牛)を進呈した” とある. 当時,牛はしばしば贈答に用いられたようだ. 今でいえば高級乗用車の贈答である.