*ありのままcafe* 寒蝉の泣く頃には…
二十四節気 立秋
七十二候は寒蝉鳴(ひぐらしなく)
8月12日~8月16日ごろ
寒蟬は、「かんせん」「かんぜみ」とも読み、「蜩ひぐらし」、または「日暮らし」を指します。
8月8日に「立秋」を迎え、
ちょうどお盆頃、朝な夕と吹く風に、
小さな秋を感じ、季節の移ろいの兆しを知りました。
残暑のお見舞いを、申し上げます。
今夏の厳しすぎる暑さは、
過去にない凄まじさでございました。
そして今しばらくは、この暑さと、
台風や地震に備え、穏やかではいられない、不安を孕んだ夏の終わりを、
見届けなくてはなりません…。
どうかどうか、引き続きのご自愛を、
というわたしくしも、じつのところ、
17日の晩、溜まった夏の疲れと、
満月に近づく頃の不調がかさなり、
自分で自分に「ご自愛を…」と暗示をかけ、動くことの制限を、かけているところでございます。
別れを惜しむ間もなく、夏はゆく前に、
ひと暴れしているかのようで、
わたくしのすぐ側で舌をだし、
意地悪な笑みを浮かべながら、
旅立つ支度に、追われているようでございます。
次に来るときは、すこしだけ優しい夏でありますようにと念じながら、
秋の訪れを、待ちたいと存じます。
「寒蝉」は、「つくつくぼうし」のことも意味するそうですが、
やはり、「寒蝉」といえば、日が暮れた頃、物悲しく澄んだ高い声で、
「かな かな かな」と鳴く方の、
「蜩ひぐらし」を思い浮かべるのでございます。
その鳴き声から「かなかな蝉」とも呼ばれており、泣いているかの如く聴こえる鳴き声は、ひと夏を生きた仲間たちを送り、残された夏の名残を惜しみつつ泣いてるようで…
夏の盛りの蝉の声は凄まじく、
山河や街に沁みゆきて、人の心や身体の奥深くまで沁みてゆきます。
それは、なにか見えないモノたちを、鎮めるために詠み上げる、読経のように思うことがございます。
まるで、幾千の僧侶の詠み上げる読経のようで、この国の夏に、なくてはならないモノのようでございます。
仏法僧と言う名の鳥がおりますが、
「ブッポウソウ」とは鳴かず、
「ブッポウソウ」と鳴く鳥は、
フクロウの仲間の「コノハズク」だそうで、
けれども、仏法僧やコノハズクではかなわぬ、圧倒的な蝉の声こそが、
この国の夏には必要なのでございましょう。
祓い清め、鎮める役目をおって、
命の限り鳴いた蝉たちを送る夏には、
蜩の声もまた、なくてはならないモノに違いありません。
徒然なる、日暮らしに、
夏の終わりの音を聴きながら、
終わりなき世の終わりの兆しが、
聴こえてくるよな、秋隣でございます。
ちいさな秋を隣に、
今宵は夏の思い出を、
巡るといたしましょう…
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いつもありがとう存じます。
今週は、照りつける日輪も、
遅れてお盆のお休みか、
曇りの日が続きそうですが、
あらたに台風が生まれたり、
大きな地震が起こったりと、
心穏やかでいることの難しい日が、
続きます。
心静かに努め、日暮らし徒然なるままに、過ごせたらと念じつつ…
ふと、兵庫県は神戸の奥座敷、有馬温泉街を流れる有馬川の上流にあるマス池に、6月、日暮れを待ち、
訪ねたことを思い出しました。
深山幽谷の、風情のある谷川にいくつもの仄青い光が舞う、幻想的な風景を今も時折、鮮明に思い出すのですが、
それは蛍でございまして、
こちらに飛ぶのは「源氏蛍」がほとんどと、お聞きしました。
もうひと昔前のことになりましょうか…
あれから幾度か訪ねはしたものの、
あの時のような蛍の舞は、見ることができませんでした。
暗い深い谷川に舞う蛍と、
蜩が悲しげに、それでいて強く、
澄みきった声で鳴くのを聴きながら、
あの頃の、わたくしは、
美しいと素直に感動し、
未来のことを思い煩うこともなく、
ただただ、そこにいたように思います。
蜩の泣くかの如、鳴き声は、
わたくしの未来の兆しを、
伝えていたのでしょうか…
惜しむ夏、
今宵はこれで、失礼いたします。
お相手は、わたくし、
ありのママこと、
ありママでございました。
また近くお目にかかれますことを、
楽しみに、ご挨拶とかえさせて頂きます。
ご縁に感謝して☘ 深謝
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